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第三章 凶悪な正義
06 握手
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もう一人の男について知ったのは、かなり偶然の出来事だった。
うちの会社は各部一人ずつ、人権担当、とかいう、よくわからない担当が割り振られる。
多分、部と対等の力があるダイバーシティ推進室との絡みなんだろうけど。
それが、その年度から俺の担当になったのだ。
「何やりゃいいんですか、これって」
「まあとりあえず講演会でも聞きに行けばいいんじゃない」
ということで、官公庁のやっている講演会に渋々出かけた。
寝る気満々で出かけたのに、そこに登壇していたのは、見覚えのある男だった。
人の顔と名前を覚えるのが苦手な俺なのに、どうしてそんなにはっきりと覚えていたのかわからない。けど、男が話しはじめた言葉に西方の訛りを聞き取り、手元の資料に関西の有名大学の名前を見て取って、こいつだと確信した。
文化人類学的な視点から見た人権意識、という、なんだかわかったようなわからないようなお題目で話す男は、一見紳士な物腰だ。
でも、俺の目は、男のいちいちを違う目で見ていた。
想像すればするほど、肌が粟立ってきた。
ポインタを持つその手が、ヨーコさんの身体に触れる様を。
訥々と話すその唇が、ヨーコさんの肌を這う様を。
布の余ったズボンに覆われた華奢な半身が、ヨーコさんを犯す様を。
誰に頼まれたわけでもないのに、そりゃあもう生々しく想像して、質疑応答の時間が来るや、すぐに片手を挙げた。
マイクを渡され、立ち上がる。
「先生は、アカデミックハラスメントについてどう思われますか」
講演内容とは、ズレた問いだとわかっている。
周りが戸惑う気配がしたが、俺は怯まず微笑んだまま男を見ている。
その一挙一動を、隈なく。
「地位を悪用した許しがたい行為だとーー」
「それって、卒業後も有効なんですよね? やっぱり」
回答の途中で問うと、男は動揺した。
おい、オッサン。俺は知ってるぞ。
お前がしたこと、していることを知ってる。
偉そうに壇上で話している場合か?
教授? お前なんか、ただのエロジジイだろうが。
ふつふつと粟立つ皮膚。
へぇ、怒りでも鳥肌って立つんだ。
そんなことを思いつつ、俺の目は男の挙動をとらえて離さない。
「それはーーやはり、その……」
「いくら卒業してたって、恩師から連絡が来れば、普通は断れませんもんね。やっぱりそれって、地位の悪用ですよね。あ、すみません自己完結して。知り合いの女性が悩んでるもんですから」
にこにこしながら、俺は続けた。
「教授の名前と一緒に、彼女に伝えておきます。教授と同じ西の方の出身なもので、講演をお聞きしながら、つい思い出しました」
口元の笑みは絶やさないまま、教授を睨みつけた。
「貴重なお話、ありがとうございました。お顔とお名前、しっかり覚えましたので。ーーまた関東にお越しのときには、ぜひ講義を拝聴にうかがいます」
言ってマイクを切った。他の質問もいくつか出たが、男はうろたえ、ときどき俺をちらちらと見ながらしどもどと答えた。もともと予定していた時間を超過するころ、席をちらほらと立つ人が出始めた。俺は懐から名刺を一枚取り出す。
講演が終わって、教授は壇上を降りた。始まりのときもホールの最前列から出て来ていたから、そこが控室の代わりなのだろう。名刺交換をしている列に割り込む気もなく、壁に寄り掛かって様子を見ている。
耐え兼ねたように、名刺交換の最前に並んでいる人に声をかけ、男が俺に近づいてきた。
「先ほどは、どうも……」
視線が揺れるのをどうにか留めているような目をしていた。
俺は持ち前の笑顔で名刺を差し出す。
「いえ。無知な質問で失礼しました。私は安田丈と言います。先生、名取さんてご存知ですか? 会社の同僚なんですが、先生のいらっしゃる大学の卒業生だと聞いたものですから」
男は顔を強張らせ、笑顔を取り繕って俺の名刺に手を伸ばした。名刺を掴もうとした瞬間、俺は両手でその手を掴む。
ギリギリと。力の限り。
満面の笑顔のまま。
「いや、あまりこうした講演は聞かないんですが、大変おもしろかったので最後まで聴き入ってしまいました。ありがとうございました。また、ぜひ」
手を離すと、男の手は血の気が引いて白くなっていた。俺は名刺を拾い上げ、血の気の引いたその手に乗せる。
「それでは、失礼します」
俺は一礼して会場を離れた。ホールから出ると、迷わず手洗いに向かう。
洗面所で石鹸を泡立てながら、吐き気がしてきた。
ヨーコさんに触れた男の手。触れたはずだ。彼女のソトにも、ナカにも。
執拗なほど丹念に手を洗いながら、気付けば俺は泣いていた。
うちの会社は各部一人ずつ、人権担当、とかいう、よくわからない担当が割り振られる。
多分、部と対等の力があるダイバーシティ推進室との絡みなんだろうけど。
それが、その年度から俺の担当になったのだ。
「何やりゃいいんですか、これって」
「まあとりあえず講演会でも聞きに行けばいいんじゃない」
ということで、官公庁のやっている講演会に渋々出かけた。
寝る気満々で出かけたのに、そこに登壇していたのは、見覚えのある男だった。
人の顔と名前を覚えるのが苦手な俺なのに、どうしてそんなにはっきりと覚えていたのかわからない。けど、男が話しはじめた言葉に西方の訛りを聞き取り、手元の資料に関西の有名大学の名前を見て取って、こいつだと確信した。
文化人類学的な視点から見た人権意識、という、なんだかわかったようなわからないようなお題目で話す男は、一見紳士な物腰だ。
でも、俺の目は、男のいちいちを違う目で見ていた。
想像すればするほど、肌が粟立ってきた。
ポインタを持つその手が、ヨーコさんの身体に触れる様を。
訥々と話すその唇が、ヨーコさんの肌を這う様を。
布の余ったズボンに覆われた華奢な半身が、ヨーコさんを犯す様を。
誰に頼まれたわけでもないのに、そりゃあもう生々しく想像して、質疑応答の時間が来るや、すぐに片手を挙げた。
マイクを渡され、立ち上がる。
「先生は、アカデミックハラスメントについてどう思われますか」
講演内容とは、ズレた問いだとわかっている。
周りが戸惑う気配がしたが、俺は怯まず微笑んだまま男を見ている。
その一挙一動を、隈なく。
「地位を悪用した許しがたい行為だとーー」
「それって、卒業後も有効なんですよね? やっぱり」
回答の途中で問うと、男は動揺した。
おい、オッサン。俺は知ってるぞ。
お前がしたこと、していることを知ってる。
偉そうに壇上で話している場合か?
教授? お前なんか、ただのエロジジイだろうが。
ふつふつと粟立つ皮膚。
へぇ、怒りでも鳥肌って立つんだ。
そんなことを思いつつ、俺の目は男の挙動をとらえて離さない。
「それはーーやはり、その……」
「いくら卒業してたって、恩師から連絡が来れば、普通は断れませんもんね。やっぱりそれって、地位の悪用ですよね。あ、すみません自己完結して。知り合いの女性が悩んでるもんですから」
にこにこしながら、俺は続けた。
「教授の名前と一緒に、彼女に伝えておきます。教授と同じ西の方の出身なもので、講演をお聞きしながら、つい思い出しました」
口元の笑みは絶やさないまま、教授を睨みつけた。
「貴重なお話、ありがとうございました。お顔とお名前、しっかり覚えましたので。ーーまた関東にお越しのときには、ぜひ講義を拝聴にうかがいます」
言ってマイクを切った。他の質問もいくつか出たが、男はうろたえ、ときどき俺をちらちらと見ながらしどもどと答えた。もともと予定していた時間を超過するころ、席をちらほらと立つ人が出始めた。俺は懐から名刺を一枚取り出す。
講演が終わって、教授は壇上を降りた。始まりのときもホールの最前列から出て来ていたから、そこが控室の代わりなのだろう。名刺交換をしている列に割り込む気もなく、壁に寄り掛かって様子を見ている。
耐え兼ねたように、名刺交換の最前に並んでいる人に声をかけ、男が俺に近づいてきた。
「先ほどは、どうも……」
視線が揺れるのをどうにか留めているような目をしていた。
俺は持ち前の笑顔で名刺を差し出す。
「いえ。無知な質問で失礼しました。私は安田丈と言います。先生、名取さんてご存知ですか? 会社の同僚なんですが、先生のいらっしゃる大学の卒業生だと聞いたものですから」
男は顔を強張らせ、笑顔を取り繕って俺の名刺に手を伸ばした。名刺を掴もうとした瞬間、俺は両手でその手を掴む。
ギリギリと。力の限り。
満面の笑顔のまま。
「いや、あまりこうした講演は聞かないんですが、大変おもしろかったので最後まで聴き入ってしまいました。ありがとうございました。また、ぜひ」
手を離すと、男の手は血の気が引いて白くなっていた。俺は名刺を拾い上げ、血の気の引いたその手に乗せる。
「それでは、失礼します」
俺は一礼して会場を離れた。ホールから出ると、迷わず手洗いに向かう。
洗面所で石鹸を泡立てながら、吐き気がしてきた。
ヨーコさんに触れた男の手。触れたはずだ。彼女のソトにも、ナカにも。
執拗なほど丹念に手を洗いながら、気付けば俺は泣いていた。
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