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お開きになったのは午後十時だった。妊婦が家にいる克己のリミットに合わせて一同外に出ると、繁華街の夜風は変に生暖かい。
「お疲れさまでした」
「ありがとうございました」
口々に言い合って、駅へと向かう。と、玲子の肘を椿希が掴んだ。戸惑う玲子を余所に、椿希は白石学園の四人に笑顔を向ける
「我々、少しミーティングしてから帰ります。また機会ありましたらぜひ」
椿希はそこそこ飲んでいたように見えたが、その姿は素面のときと変わり無い。酒に強いのだ。玲子は彼が酔って乱れたところを見たことがない。
「さ、行きましょう、狩野さん」
椿希の笑顔に、とりあえずここは話を合わせた方がよさそうだと踏んだ玲子は、当たり障りのない笑顔を浮かべて礼をした。克己が酒で赤らんだ顔をちらりと椿希に向ける。
「椿希くん。玲子のこと、傷つけないでくれよ。これで結構繊細なんだから」
「克己ーー」
「分かってます」
窘めようとした玲子の声を遮って、椿希はにこやかに答えた。
「小林先生が思っている以上に、狩野さんのことは見ているつもりです」
玲子は喉の奥でぐ、っと音が鳴らした。いたたまれずにいると市原が笑う。
「やぁねぇ。取り合ったら小林先生には分が無いわ。かわいそうな試合はしないであげて」
笑いが起こり、場の空気は和んだ。玲子は救われた思いで苦笑を浮かべる。
去っていく白石学園の四人を見ながら、玲子は深々と嘆息した。
(やっぱり、五月は鬼門みたい)
水城のおまじないは、今のところ効いていそうにない。ひりひりと痛む胸にこっそりと手を置いた。
「ーー玲子さん」
その玲子の顔を、遠慮なく覗き込むのは椿希だ。
切れ長の目は先ほどまでの笑顔を露ほどにも感じさせず、すっかり真剣な色に変わっていた。奥には、闘志とも熱意ともつかない炎を宿している。
「何?いしーー」
呼ぼうとした名前は椿の唇で遮られた。触れた唇から熱が伝わる。玲子は咄嗟に目で克己の去った方角を確認した。その背中は既に立ち去って影もなく、それに安堵したとき、椿希の唇が離れる。
椿希は顔を背け、口元に手を当てた。
「ーーくそ」
小さな毒づきをいぶかしみ、玲子は首を傾げる。
「何よ。勝手にキスしといて」
唇を尖らせると、椿希が顔を歪めた。
「……すみません。思わず」
思わず、の意味が全くわからない。
玲子は半眼のまま嘆息する。
「で、どうするの? 早く別れるための口実? それともほんとにお茶でもするの?」
玲子が腕を組むと、椿希は困惑したように目をさ迷わせた。その態度に、玲子は苛立つ。
「ーー何なのよ」
知らず強くなった語気に、自分で気づいた。椿希に苛立ったのではない。先ほどの飲み会で聞いた内容が、自分を動揺させ、消耗させたのだーー
(ただの思い出話なのに)
楽しげに話す克己の表情を思い出し、玲子は目を反らした。
「今日は、帰りましょう」
言って、駅へと歩き出す。椿希はためらった後、その後ろに従った。カツカツとヒールが地面を蹴る音が身体に響くのを感じながら、玲子は歩く。何かを考えようにも、克己の言葉や表情がぐるぐると回って、結局何の意味も持たない。
日頃、何があっても人前に立つ仕事をしていると、こういうときに意識的に気持ちをコントロールできてありがたい。
自分の今の気持ちを椿希の前でさらけ出す気には、到底なれなかった。
椿希は早足で進む玲子に黙ってついてくる。早足とは言っても、椿希にとっては普通の徒歩だろう。それでも何か言いたげな気配は伝わってきて、それから逃れるように、玲子は黙って前を向いている。
「ーー玲子さん」
決意したような椿希の声に、玲子は咄嗟に振り返った。
「その呼び方、やめて」
ほとんど反射的について出た言葉は、完全に椿希を突き放す意思がこもっている。玲子はその声に自分で痛みを感じ、自嘲じみた笑顔を浮かべた。
「これ以上、五月を呪われた月にしないで」
おやすみ、と言い放ち、椿希を置いて歩き出す。
玲子は思考を完全にシャットアウトし、ただ家に帰ることだけに専念した。
ーー椿希が家にやってきたのは、その週末のことだった。
「お疲れさまでした」
「ありがとうございました」
口々に言い合って、駅へと向かう。と、玲子の肘を椿希が掴んだ。戸惑う玲子を余所に、椿希は白石学園の四人に笑顔を向ける
「我々、少しミーティングしてから帰ります。また機会ありましたらぜひ」
椿希はそこそこ飲んでいたように見えたが、その姿は素面のときと変わり無い。酒に強いのだ。玲子は彼が酔って乱れたところを見たことがない。
「さ、行きましょう、狩野さん」
椿希の笑顔に、とりあえずここは話を合わせた方がよさそうだと踏んだ玲子は、当たり障りのない笑顔を浮かべて礼をした。克己が酒で赤らんだ顔をちらりと椿希に向ける。
「椿希くん。玲子のこと、傷つけないでくれよ。これで結構繊細なんだから」
「克己ーー」
「分かってます」
窘めようとした玲子の声を遮って、椿希はにこやかに答えた。
「小林先生が思っている以上に、狩野さんのことは見ているつもりです」
玲子は喉の奥でぐ、っと音が鳴らした。いたたまれずにいると市原が笑う。
「やぁねぇ。取り合ったら小林先生には分が無いわ。かわいそうな試合はしないであげて」
笑いが起こり、場の空気は和んだ。玲子は救われた思いで苦笑を浮かべる。
去っていく白石学園の四人を見ながら、玲子は深々と嘆息した。
(やっぱり、五月は鬼門みたい)
水城のおまじないは、今のところ効いていそうにない。ひりひりと痛む胸にこっそりと手を置いた。
「ーー玲子さん」
その玲子の顔を、遠慮なく覗き込むのは椿希だ。
切れ長の目は先ほどまでの笑顔を露ほどにも感じさせず、すっかり真剣な色に変わっていた。奥には、闘志とも熱意ともつかない炎を宿している。
「何?いしーー」
呼ぼうとした名前は椿の唇で遮られた。触れた唇から熱が伝わる。玲子は咄嗟に目で克己の去った方角を確認した。その背中は既に立ち去って影もなく、それに安堵したとき、椿希の唇が離れる。
椿希は顔を背け、口元に手を当てた。
「ーーくそ」
小さな毒づきをいぶかしみ、玲子は首を傾げる。
「何よ。勝手にキスしといて」
唇を尖らせると、椿希が顔を歪めた。
「……すみません。思わず」
思わず、の意味が全くわからない。
玲子は半眼のまま嘆息する。
「で、どうするの? 早く別れるための口実? それともほんとにお茶でもするの?」
玲子が腕を組むと、椿希は困惑したように目をさ迷わせた。その態度に、玲子は苛立つ。
「ーー何なのよ」
知らず強くなった語気に、自分で気づいた。椿希に苛立ったのではない。先ほどの飲み会で聞いた内容が、自分を動揺させ、消耗させたのだーー
(ただの思い出話なのに)
楽しげに話す克己の表情を思い出し、玲子は目を反らした。
「今日は、帰りましょう」
言って、駅へと歩き出す。椿希はためらった後、その後ろに従った。カツカツとヒールが地面を蹴る音が身体に響くのを感じながら、玲子は歩く。何かを考えようにも、克己の言葉や表情がぐるぐると回って、結局何の意味も持たない。
日頃、何があっても人前に立つ仕事をしていると、こういうときに意識的に気持ちをコントロールできてありがたい。
自分の今の気持ちを椿希の前でさらけ出す気には、到底なれなかった。
椿希は早足で進む玲子に黙ってついてくる。早足とは言っても、椿希にとっては普通の徒歩だろう。それでも何か言いたげな気配は伝わってきて、それから逃れるように、玲子は黙って前を向いている。
「ーー玲子さん」
決意したような椿希の声に、玲子は咄嗟に振り返った。
「その呼び方、やめて」
ほとんど反射的について出た言葉は、完全に椿希を突き放す意思がこもっている。玲子はその声に自分で痛みを感じ、自嘲じみた笑顔を浮かべた。
「これ以上、五月を呪われた月にしないで」
おやすみ、と言い放ち、椿希を置いて歩き出す。
玲子は思考を完全にシャットアウトし、ただ家に帰ることだけに専念した。
ーー椿希が家にやってきたのは、その週末のことだった。
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