五月病の処方箋

松丹子

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 克己との飲み会は、土日の連続講座を終えた後になった。
 仕事上がりの方が、服に迷わずに済むーーそう頭を掠めたあたり、椿希の言う通り、克己をただの友達だと言い切るにはまだ心残りがあるのかもしれない。
 玲子は駅ビルの手洗いで後ろにくくっていた髪を解き、軽く櫛で撫でた。
 髪を結わえると気分が引き締まるが、その分疲れる。玲子にとってはオンオフのスイッチだ。
 ーー克己と会うから、というわけではない。
(って、誰に言い訳してるのよ)
 嘆息しながら、簡単に化粧を直す。鏡の中の自分を見ながら、先週家を掃除していて出てきた学生証を思い出した。顔写真が載ったその顔は、入学時のものだ。まだあどけなさの残る顔で、化粧っけもない。それでも目はキラキラしていて、頬もふっくらとしていたし、どことなく、今より目尻の位置が高かった。
(老けたんだなぁ)
 毎日見ていると気付かないが、10年前の自分を突きつけられるとそれなりにショックだ。
 克己との待ち合わせは駅の改札前だ。ベージュのパンプスに目を落とし、汚れがないことを確認すると、改札前に向けて歩き出す。
 受講生に信頼してもらえるよう、服はあまり華やかになりすぎない、清潔な印象を与えるものを着用している。初日は基本的に黒っぽい格好で、靴も多少金具がついている程度だ。が、連続で同じ生徒を相手にするときは、二度目以降は少し華やかにしてもいいと思っている。今日は少しオシャレさを感じさせる装いにした。
 辺りを見回しても、まだ克己の姿はない。安堵と落胆が複雑に混ざった気持ちでスマホを取り出し、スライドのデータを引き出す。来週の白石学園での一コマを、どういう組み立てにするか考えるのだ。
 スマホに入ったスライドをめくり、目は画面をとらえているが、その実考えているのは別のことだった。
(克己と最後に会ったのって、いつだっけ)
 克己が結婚してから、一度だけ飲みに行った。結婚しても飲みに行こうな、と言われたので、律儀に約束を果たしたに近い。
 結婚式の招待状を受け取って唖然としたときも、軋む胸を抱えて結婚式に出席したときも、あくまで気付かないふりでやり過ごしていた自分の想いを、認めざるを得ないと思ったのが、二人で飲んだその日だったーーような、気がする。
「玲子」
 先日受話器越しに聞いた穏やかな声音に名前を呼ばれ、玲子は背筋を伸ばした。
 スマホを下ろして声の方向を見やると、克己がにこやかに手を挙げて近づいて来る。
 ストライプシャツにカジュアルジャケットを羽織った姿に、もう学生のときの頼りなさはない。
「久しぶり」
 玲子は鏡に写った自分の口元を思い出しつつ微笑んだ。日頃からの表情トレーニングも講師の仕事の内。自分の今の表情が相手にどう見えるかは、だいたい分かっているつもりだ。
 克己は近づきつつ、照れたように後ろ頭に手をやった。
「なぁんか、変わらないなぁ。むしろ、綺麗になった?」
「何よ、それ」
「彼氏できたとか」
「まさか」
 答えながら、脳裏を椿希の笑顔が掠める。耳元で囁かれた愛の言葉を思い出しかけたが、自分の言葉でその思考を遮るべく口を開いた。
「すっかり仕事が恋人よ」
「じゃあまあ、毎日充実してるってことか。何よりだな」
 言う克己も、決してつまらない毎日を送っているようには見えなかった。元々身長が高く、高校時代ラグビーをやっていたので比較的ガタイのいい方だったが、少しふくよかになったように見える。
「そっちは幸せ太り?」
「いやぁ、中年太りかも」
「さすがにまだそんな歳じゃないでしょう」
 言いながら、どちらからともなく歩き出す。腕が触れるかどうかの距離感も、確認せずとも合う歩幅も、学生時代から変わらない。その居心地の良さが、玲子を逆に落ち着かない気分にさせる。
 克己はいつもゆったりと構えていて、あまり細かいことに気付かないし気にしない。髪型が変わっても全然気付かないたちだ。椿希はその点、髪型が変わっても、鞄が変わっても靴が変わっても、早々に気づいて一言賛辞を述べる。それも窮屈だと思う訳ではないのだが、玲子は慣れ親しんだ克己の気の置けなさに、ついつい心を委ねそうになってしまう。
(委ねたって、どうしようもないのに)
 自嘲する玲子の心中など介意せず、克己はその隣で楽しげに足を運んでいた。
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