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第参章 想定外のプロポーズ
10 タテマエ
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斎場に着くと、父が出迎えてくれた。夏場だからか、もう一件葬式が重なっているらしい。親族だけでひっそりと葬式を行う我が家とは異なり、大きな部屋を使うそちらの葬式は、人の気配でざわついていた。
ジョーは相変わらずスーツケースを引き、わたしの後ろについてくる。
名取家と書かれた小さな部屋は最近には珍しく和室だった。来るのは両親とわたしたち、そして父の兄である叔父くらいなものか。祖母の知人はすでに先立っているか、そうでなくても気軽に身動きが取れる年齢ではない。
せいぜい祖母が晩年を過ごした老人ホームの職員が来るかどうか、というところだろう。
「お父さん」
棺桶の横に座る男の背中に声をかける。立ち上がった姿は覚えていたものよりも小さく感じた。
こんなに背が低かっただろうか。こんなに細かっただろうか。こんなに疲れた顔をしていただろうかーーそんなことを思いながら、父にーーいや、もはや父であろう男に、向き合う。
「葉子か」
父も父で、わたしの姿を不思議な面持ちで見ていた。次いで、わたしの後ろに佇むジョーに目線を向け、黙礼する。
ジョーも黙礼を返した。
「一度帰って、一休みしたら。うちが居ておくさかい」
わたしの言葉に、「ああ……」と肯定とも否定とも言えない声が返ってきた。疲れていて頭が動かないのだろうと推察しつつ、部屋を見渡す。
部屋の横には親族が通夜を過ごすための控室が併設されている。襖を閉めれば着替えはそこでできるだろうと見当をつけ、ハンドバッグを畳の上に置いた。
「はじめまして」
わたしがジョーを離れた隙に、父がジョーに歩み寄った。
「葉子の父です」
改まって頭を下げる父に、ジョーも改めて礼を返す。
「安田丈と申します。この度はご愁傷様です」
父は頭を上げ、自分より頭一つ分背の高い男をしげしげと見上げた。
そこに。母ほどの疑心の空気はない。
「安田さんは……その、葉子の」
「家族になりたいと思っています」
ジョーの言葉は静かだったが、寸分の迷いも無かった。確固たる意思を持つ言葉に、父が一瞬たじろぐ。それに気づいたのかどうか、ジョーは控えめに微笑んで言葉を次いだ。
「ーーご両親の、了解が得られるのであれば」
父はまたジョーの顔をしげしげと見つめた。わたしは何となく居心地が悪く、声をかけようと一歩近づく。
「葉子」
振り向きもせず父に呼ばれて足を止めた。
「……はい」
これといって、思い出のない父だ。今までの会話を何も覚えていない父だ。
「いい人と会うたな」
そのたった一言が、ずん、と、胃の下に落ちて来る。
父の背中が一回り小さくなったと思ったら、それは父が頭を下げているからだった。そう気づいたとき、思い出したように胸が動悸を刻む。
「葉子を、幸せにしてやってください」
線香の臭いの中で。もう息のない祖母が横たわる部屋で。
部屋を冷やす空調の音が、やたらと大きく聞こえる。
ジョーは父よりも更に深く、深く、頭を下げた。
「幸せになります。ーー二人で」
二人の男が、黒い服で頭を下げている。
それを見ながら、わたしは不意に気づいた。
この二人が、わたしに最も近く、わたしの人生に最も深く存在する男なのだと。
どこからか強い衝動がこみあげ、胸を叩いた。
もう泣くことはないだろうと思っていた。
母から連絡を受けた後に泣き、新幹線の中で泣き、両親の前では涙を流すことはないだろうとーーいや、泣くまいと思っていた。
それなのに。
二人がゆっくりと頭を上げた。わたしに背を向けた父の顔は見えない。ジョーの目がわたしをとらえ、微笑んだ。スーツケースをドアの横に置いたまま、歩いて来る。
「ヨーコさん。使ってください」
差し出されたハンカチを受け取り、頬に当てた。それだけではもの足りず、目に押し付ける。
「……化粧、ついてまうで」
「いいですよ」
そんなこと気にしないでくださいと、ジョーは笑った。
「葉子。じゃあ、少し任せるで。スタッフには、俺から言うておくさかい」
「分かった。また後で」
ろくに互いの顔を見ないまま、父は部屋を出て行った。
それが父なりの優しさなのだろう。
ジョーと二人きりになると、わたしはゆるゆると息を吐いた。
「案外、出るもんやな」
「何がですか」
「涙。ーーもう、枯れ果てたと思うてた」
ジョーはさも可笑しげに笑った。
「人間はほとんど水分でできてるんですよ。知らないんですか」
「知っとるわ、そんなん」
軽口に軽口を返す。ハンカチを下ろすと、ジョーの顔がずいぶん近くにあった。
「ヨーコさん」
丸い目が、優しくわたしの目を覗き込んで来る。
「おばあちゃんに、挨拶してもいいですか。俺が、ヨーコさんの新しい家族になりますって」
わたしは黙ったまま微笑んだ。ジョーも笑みを浮かべたまま、わたしの額に唇を当てる。
おずおずとジョーの手を探り当てると、黙って握り返された。
ついつい温もりを求めるのは、気弱になっているからだろう。
冷静に自己分析する自分がどこかおかしい。
「嬉しいなぁ」
しみじみと、ジョーが呟いた。
「嬉しいなぁ。ほんとに家族になれるんだ。俺とヨーコさん」
ようやく実感が湧いてきたらしい。
あまりに嬉しげな声に、わたしは噴き出しそうになった。
斎場で結婚の挨拶など、聞いたこともない。
「場所が場所やから駄目出しせえへんやっただけかもしれへんよ」
「あはは。それは有り得る」
ジョーはからりと笑った。こういうとき、苦笑すらしないこの男の自己肯定感の高さに感心する。
「でも、それって関係あります?」
わたしはジョーの問いかけに目を上げた。少年じみたいたずらっぽい目がわたしを見ている。
「……了解が得られるなら、やないんか」
わたしが先ほどの彼の言葉を繰り返すと、ジョーは笑顔のまま言った。
「それこそ、タテマエってやつでしょう」
あっけらかんと言うジョーに、
(せやな。あんたはそういう男や)
いつもながら、苦笑が浮かんだのはわたしの方だった。
「欲しいものは手に入れます。俺から逃げようったってそうは行きませんよ」
ウインクすらしかねないジョーの顔に、わたしは笑う。
「何を今さら」
ジョーは満足げな笑顔を浮かべ、わたしの手を引いて、祖母の眠る棺へ近づいた。
ジョーは相変わらずスーツケースを引き、わたしの後ろについてくる。
名取家と書かれた小さな部屋は最近には珍しく和室だった。来るのは両親とわたしたち、そして父の兄である叔父くらいなものか。祖母の知人はすでに先立っているか、そうでなくても気軽に身動きが取れる年齢ではない。
せいぜい祖母が晩年を過ごした老人ホームの職員が来るかどうか、というところだろう。
「お父さん」
棺桶の横に座る男の背中に声をかける。立ち上がった姿は覚えていたものよりも小さく感じた。
こんなに背が低かっただろうか。こんなに細かっただろうか。こんなに疲れた顔をしていただろうかーーそんなことを思いながら、父にーーいや、もはや父であろう男に、向き合う。
「葉子か」
父も父で、わたしの姿を不思議な面持ちで見ていた。次いで、わたしの後ろに佇むジョーに目線を向け、黙礼する。
ジョーも黙礼を返した。
「一度帰って、一休みしたら。うちが居ておくさかい」
わたしの言葉に、「ああ……」と肯定とも否定とも言えない声が返ってきた。疲れていて頭が動かないのだろうと推察しつつ、部屋を見渡す。
部屋の横には親族が通夜を過ごすための控室が併設されている。襖を閉めれば着替えはそこでできるだろうと見当をつけ、ハンドバッグを畳の上に置いた。
「はじめまして」
わたしがジョーを離れた隙に、父がジョーに歩み寄った。
「葉子の父です」
改まって頭を下げる父に、ジョーも改めて礼を返す。
「安田丈と申します。この度はご愁傷様です」
父は頭を上げ、自分より頭一つ分背の高い男をしげしげと見上げた。
そこに。母ほどの疑心の空気はない。
「安田さんは……その、葉子の」
「家族になりたいと思っています」
ジョーの言葉は静かだったが、寸分の迷いも無かった。確固たる意思を持つ言葉に、父が一瞬たじろぐ。それに気づいたのかどうか、ジョーは控えめに微笑んで言葉を次いだ。
「ーーご両親の、了解が得られるのであれば」
父はまたジョーの顔をしげしげと見つめた。わたしは何となく居心地が悪く、声をかけようと一歩近づく。
「葉子」
振り向きもせず父に呼ばれて足を止めた。
「……はい」
これといって、思い出のない父だ。今までの会話を何も覚えていない父だ。
「いい人と会うたな」
そのたった一言が、ずん、と、胃の下に落ちて来る。
父の背中が一回り小さくなったと思ったら、それは父が頭を下げているからだった。そう気づいたとき、思い出したように胸が動悸を刻む。
「葉子を、幸せにしてやってください」
線香の臭いの中で。もう息のない祖母が横たわる部屋で。
部屋を冷やす空調の音が、やたらと大きく聞こえる。
ジョーは父よりも更に深く、深く、頭を下げた。
「幸せになります。ーー二人で」
二人の男が、黒い服で頭を下げている。
それを見ながら、わたしは不意に気づいた。
この二人が、わたしに最も近く、わたしの人生に最も深く存在する男なのだと。
どこからか強い衝動がこみあげ、胸を叩いた。
もう泣くことはないだろうと思っていた。
母から連絡を受けた後に泣き、新幹線の中で泣き、両親の前では涙を流すことはないだろうとーーいや、泣くまいと思っていた。
それなのに。
二人がゆっくりと頭を上げた。わたしに背を向けた父の顔は見えない。ジョーの目がわたしをとらえ、微笑んだ。スーツケースをドアの横に置いたまま、歩いて来る。
「ヨーコさん。使ってください」
差し出されたハンカチを受け取り、頬に当てた。それだけではもの足りず、目に押し付ける。
「……化粧、ついてまうで」
「いいですよ」
そんなこと気にしないでくださいと、ジョーは笑った。
「葉子。じゃあ、少し任せるで。スタッフには、俺から言うておくさかい」
「分かった。また後で」
ろくに互いの顔を見ないまま、父は部屋を出て行った。
それが父なりの優しさなのだろう。
ジョーと二人きりになると、わたしはゆるゆると息を吐いた。
「案外、出るもんやな」
「何がですか」
「涙。ーーもう、枯れ果てたと思うてた」
ジョーはさも可笑しげに笑った。
「人間はほとんど水分でできてるんですよ。知らないんですか」
「知っとるわ、そんなん」
軽口に軽口を返す。ハンカチを下ろすと、ジョーの顔がずいぶん近くにあった。
「ヨーコさん」
丸い目が、優しくわたしの目を覗き込んで来る。
「おばあちゃんに、挨拶してもいいですか。俺が、ヨーコさんの新しい家族になりますって」
わたしは黙ったまま微笑んだ。ジョーも笑みを浮かべたまま、わたしの額に唇を当てる。
おずおずとジョーの手を探り当てると、黙って握り返された。
ついつい温もりを求めるのは、気弱になっているからだろう。
冷静に自己分析する自分がどこかおかしい。
「嬉しいなぁ」
しみじみと、ジョーが呟いた。
「嬉しいなぁ。ほんとに家族になれるんだ。俺とヨーコさん」
ようやく実感が湧いてきたらしい。
あまりに嬉しげな声に、わたしは噴き出しそうになった。
斎場で結婚の挨拶など、聞いたこともない。
「場所が場所やから駄目出しせえへんやっただけかもしれへんよ」
「あはは。それは有り得る」
ジョーはからりと笑った。こういうとき、苦笑すらしないこの男の自己肯定感の高さに感心する。
「でも、それって関係あります?」
わたしはジョーの問いかけに目を上げた。少年じみたいたずらっぽい目がわたしを見ている。
「……了解が得られるなら、やないんか」
わたしが先ほどの彼の言葉を繰り返すと、ジョーは笑顔のまま言った。
「それこそ、タテマエってやつでしょう」
あっけらかんと言うジョーに、
(せやな。あんたはそういう男や)
いつもながら、苦笑が浮かんだのはわたしの方だった。
「欲しいものは手に入れます。俺から逃げようったってそうは行きませんよ」
ウインクすらしかねないジョーの顔に、わたしは笑う。
「何を今さら」
ジョーは満足げな笑顔を浮かべ、わたしの手を引いて、祖母の眠る棺へ近づいた。
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