上 下
41 / 59
第参章 想定外のプロポーズ

09 幼少期

しおりを挟む
 わたしが使っていた二階の部屋は、記憶と大差なかった。
 ごく一部の名残惜しいものと卒業アルバム類だけしか置いておらず、がらんとしている。
 壁際の和箪笥にある着物類は祖母から母を経てわたしにと渡ったものだが、母より五センチ以上身長の高いわたしには行が短くてもう着られない。
「すっげー片付いてますね」
 ジョーが感心している。
 俺片付け苦手なんすよね。やるとなったら、めんどくさくなって全部捨てちゃって、あ、あれいるものだった、って後で怒られたり困ったりするんですけど。
 聞いてもいないのに話し続けるのはいつものことだ。わたしもそのときの気分で、相槌を打ったり打たなかったりする。が、わたしの対応がどうだろうと、彼にとってはさして関係ないらしい。究極のマイペース。それに呆れることもあるが、大方は救われる。
 初めて入ったわたしの部屋で、ジョーはしばらくきょろきょろと視線をさまよわせた。
 棚にあったものに目を留めると、指差してわたしの方を振り向く。
「あ、卒業アルバム。見てもいいっすか?」
「ええよ。不細工やけど」
「またまた、そんなこと言って」
 ほんまやで、と手にしたのは小学校のときのアルバムだ。小、中学校と、どちらかというとわたしはふくよかな方だった。ぷくぷくの頬は今となっては名残もない。
「うわ、可愛いじゃないっすか」
「おたふくみたいやろ」
「えええ、違いますよ。おたふくは不細工だけどヨーコさんは可愛いっす」
 わたしは呆れて半眼になった。
 ジョーは本音しか言わない人間だ。そう分かっているので、本心ではあるのだろう。が、改めて見ても我ながら可愛いとは思えない。
 目を落とした先には、照れくさそうに笑う幼いわたしが写っていた。
「ふふ」
 アルバムをめくりながら、ジョーが笑った。ひどく穏やかな表情に、ついつい目をやる。
「すげぇ嬉しい」
 呟いた声は、いつもの冗長なおしゃべりのそれとは違う。しみじみと優しい響きがあった。
「ヨーコさんも俺も、子どもの頃はおんなじようなもんですね」
 アルバムを眺めるジョーの横顔を見る。
 わたしの視線を気にすることもなく、ジョーは微笑んでアルバムをめくっている。
 愛おしげに。まるで自分の記念写真を見るかのように、大切そうに。
「葉子。タクシー来たで」
 母が下から呼ぶ声がした。
 わたしはそこでようやく、ジョーの横顔に見とれていたことに気づく。
「今行く」
 祖母との思い出の絵本を手に、返事をする。
「残念。もうおしまいか」
 アルバムを閉じ、棚に戻そうとしたジョーの手に手を添えて止めた。
 きょとんとするジョーをそのままに、中学と高校の卒業アルバムを手に取る。
「荷物になるけど、ええか」
 ジョーは一瞬目を見開いた後、微笑んだ。
「いいですよ、全然」
 ジョーが差し出した手に、ひか二冊を乗せる。
「ほな、行くで」
「はい。……ありがとうございます」
 顔を見ないで部屋を出るわたしに、ジョーは小さく言った。
 慈愛に満ちた柔らかい声音で。
 本にしては重いその三冊を軽々と抱え、ジョーはわたしの後ろをついてくる。
 わたしはジョーのお礼が聞こえなかったふりで、階段を降りて行った。

 * * *

 タクシーに乗ったわたしとジョーは、祖母の待つ斎場へと向かった。
 そこでは父が各種の手続きを進めているらしい。
 そう伝えると、ジョーは相槌を打って首を傾げた。
「ヨーコさんのお父さんって、どんな人ですか」
 問われたわたしは、父の面影を記憶の中から探し出そうとした。
 家では日陰に存在しているような父だった。どんな言葉を交わしたか、思い出そうとしてみるが、その記憶はほとんどない。
 思い出せることと言えば、父は休みの日でも自分の書斎に閉じこもっていたということだ。
 わたしとの会話どころか、母と楽しげに会話している姿を見た記憶すらあやふやである。
  十歳の頃、性徴期を迎えたわたしは、だんだん女らしい身体つきになっていった。昔から悪戯をされやすいたちだったが、身体の成長に比例して、男をすべて、恐怖と嫌悪の対象として捉えるようになった。
 それは父に対しても同様だった。女と違う筋張った身体や低い声がおぞましくすら感じて、あえて接する気にはならなかった。
 父自身も元々子どもとの接し方が分からなかったのだろう。これ幸いとわたしに近づかず自分の世界に閉じこもっていたようにも思える。
 そう思い出して、窓越しに景色を眺めるジョーの横顔を見やる。
「うちも分からへん」
 しばらく間が開いたので、返事はないものと思っていたのだろう。ジョーはわずかに驚いた顔をしてからわたしの方を見、微笑んだ。
「そうですか」
 ただそれだけだ。それ以上は何も言わない。
 ジョーはまた視線を窓の外へと向け、わたしはその横顔を見た。
 壮年の男の顔。
 初めて会った頃よりも落ち着きを感じる。こうしてわたしから目線を反らし、黙っている姿を見ると、日頃の子犬のような表情はただの演技ではないかと思うほどだ。
 短い髪から覗く形のいい耳。その下に通った首筋はゆるやかなカーブを描いて鎖骨の窪みへと落ちていく。さきほどまではネクタイとシャツで隠れていたが、暑さに負けたジョーは、タクシーに乗ったとき、「今のうち」と笑ってネクタイを緩め、ボタンを一つ開けたのだった。
 喉には尖った喉仏が見える。
 いつだか、そこに噛み付くことを想像して笑った喉だ。
 彼の気持ちなど度外視して、自分の欲求だけに身を委ねていた時。
 一緒に死ねるかという馬鹿な質問に、迷うことなく諾と答えた彼。
(阿呆やなぁ)
 彼も。わたしも。
 ずいぶん、長旅をしてしまった気がする。
 こうなることは、薄々分かっていたのに。
 彼の想いを素直に受けとるまで、ずいぶん時間がかかってしまった。
(ジョー)
 心中で呼びかけて、ふと涙が込み上げた。
 愛おしい人の名。
 誰の代わりでもない、唯一の人の名。
 乾ききり、ばらばらと形を失いそうになっていたわたしの心に、雨を降らせ、満たし、そこに留まることを赦してくれた人の名だ。
 わたしの気配に気づいたのか気づいていないのか、ジョーは車内にわずかに目線を戻し、わたしの手を探り当てて握った。
 わたしも静かに握り返し、更にもう一方の手でそれを包みむ。
 ジョーが意外そうに顔を上げた。わたしと目が合う。浮かべた微笑みは気弱なものになったが、ジョーも穏やかな微笑み返してくれた。
 わたしの手に包まれたのと逆の手を伸ばし、ごわつくわたしの髪を撫でる。
 大して綺麗でもないわたしの髪を、ガラス細工を扱うように、ゆっくりと。
 いつものように。
(なあ、ジョー)
 今なら、心の声が届く気がした。
『何ですか』
 ジョーの目が答える。
(おおきに)
 声には出していないはずなのに、ジョーはくしゃりと笑った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

誘惑の延長線上、君を囲う。

桜井 響華
恋愛
私と貴方の間には "恋"も"愛"も存在しない。 高校の同級生が上司となって 私の前に現れただけの話。 .。.:✽・゚+.。.:✽・゚+.。.:✽・゚+.。.:✽・゚ Иatural+ 企画開発部部長 日下部 郁弥(30) × 転職したてのエリアマネージャー 佐藤 琴葉(30) .。.:✽・゚+.。.:✽・゚+.。.:✽・゚+.。.:✽・゚ 偶然にもバーカウンターで泥酔寸前の 貴方を見つけて… 高校時代の面影がない私は… 弱っていそうな貴方を誘惑した。 : : ♡o。+..:* : 「本当は大好きだった……」 ───そんな気持ちを隠したままに 欲に溺れ、お互いの隙間を埋める。 【誘惑の延長線上、君を囲う。】

副社長氏の一途な恋~執心が結んだ授かり婚~

真木
恋愛
相原麻衣子は、冷たく見えて情に厚い。彼女がいつも衝突ばかりしている、同期の「副社長氏」反田晃を想っているのは秘密だ。麻衣子はある日、晃と一夜を過ごした後、姿をくらます。数年後、晃はミス・アイハラという女性が小さな男の子の手を引いて暮らしているのを知って……。

元カノと復縁する方法

なとみ
恋愛
「別れよっか」 同棲して1年ちょっとの榛名旭(はるな あさひ)に、ある日別れを告げられた無自覚男の瀬戸口颯(せとぐち そう)。 会社の同僚でもある二人の付き合いは、突然終わりを迎える。 自分の気持ちを振り返りながら、復縁に向けて頑張るお話。 表紙はまるぶち銀河様からの頂き物です。素敵です!

隣人はクールな同期でした。

氷萌
恋愛
それなりに有名な出版会社に入社して早6年。 30歳を前にして 未婚で恋人もいないけれど。 マンションの隣に住む同期の男と 酒を酌み交わす日々。 心許すアイツとは ”同期以上、恋人未満―――” 1度は愛した元カレと再会し心を搔き乱され 恋敵の幼馴染には刃を向けられる。 広報部所属 ●七星 セツナ●-Setuna Nanase-(29歳) 編集部所属 副編集長 ●煌月 ジン●-Jin Kouduki-(29歳) 本当に好きな人は…誰? 己の気持ちに向き合う最後の恋。 “ただの恋愛物語”ってだけじゃない 命と、人との 向き合うという事。 現実に、なさそうな だけどちょっとあり得るかもしれない 複雑に絡み合う人間模様を描いた 等身大のラブストーリー。

モテ男とデキ女の奥手な恋

松丹子
恋愛
 来るもの拒まず去るもの追わずなモテ男、神崎政人。  学歴、仕事共に、エリート過ぎることに悩む同期、橘彩乃。  ただの同期として接していた二人は、ある日を境に接近していくが、互いに近づく勇気がないまま、関係をこじらせていく。  そんなじれじれな話です。 *学歴についての偏った見解が出てきますので、ご了承の上ご覧ください。(1/23追記) *エセ関西弁とエセ博多弁が出てきます。 *拙著『神崎くんは残念なイケメン』の登場人物が出てきますが、単体で読めます。  ただし、こちらの方が後の話になるため、前著のネタバレを含みます。 *作品に出てくる団体は実在の団体と関係ありません。 関連作品(どれも政人が出ます。時系列順。カッコ内主役) 『期待外れな吉田さん、自由人な前田くん』(隼人友人、サリー) 『初恋旅行に出かけます』(山口ヒカル) 『物狂ほしや色と情』(名取葉子) 『さくやこの』(江原あきら) 『爆走織姫はやさぐれ彦星と結ばれたい!』(阿久津)

同居離婚はじめました

仲村來夢
恋愛
大好きだった夫の優斗と離婚した。それなのに、世間体を保つためにあたし達はまだ一緒にいる。このことは、親にさえ内緒。 なりゆきで一夜を過ごした職場の後輩の佐伯悠登に「離婚して俺と再婚してくれ」と猛アタックされて…!? 二人の「ゆうと」に悩まされ、更に職場のイケメン上司にも迫られてしまった未央の恋の行方は… 性描写はありますが、R指定を付けるほど多くはありません。性描写があるところは※を付けています。

【完結】つぎの色をさがして

蒼村 咲
恋愛
【あらすじ】 主人公・黒田友里は上司兼恋人の谷元亮介から、浮気相手の妊娠を理由に突然別れを告げられる。そしてその浮気相手はなんと同じ職場の後輩社員だった。だが友里の受難はこれでは終わらなかった──…

優しい微笑をください~上司の誤解をとく方法

栗原さとみ
恋愛
仕事のできる上司に、誤解され嫌われている私。どうやら会長の愛人でコネ入社だと思われているらしい…。その上浮気っぽいと思われているようで。上司はイケメンだし、仕事ぶりは素敵過ぎて、片想いを拗らせていくばかり。甘々オフィスラブ、王道のほっこり系恋愛話。

処理中です...