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第参章 想定外のプロポーズ

08 再会

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「お母さん。ーーただいま」
 わたしが心を決めて声をかけると、母は無感情な顔をわずかに引き締めた。
「……葉子」
 母はひとこと、名前を呼んだだけで、わたしの後ろについてくる長身の男の影を見やる。
 その視線は怪訝さを隠そうともしない。
(おかえり、も無しか)
 自嘲の笑みを浮かべつつ日傘を閉じると、わたしは背筋を伸ばした。
 息を吐き出し、みぞ落ちの下に力を込める。
 日本舞踊を舞うときのように、下に、下に意識を下げる。
 地面に根を張り、力をもらうように。
 少しのことでは揺らがないように。
 わたしは口を開いた。
「お盆の頃、一緒に来るつもりやったんやけど」
 途中で振り向き、半身を下げると、ジョーが控えめながら爽やかな笑顔を浮かべて立っていた。
 その表情は今まで見たことのない好青年然としたものだ。不覚にも一瞬、目を奪われる。
「はじめまして。安田丈といいます。この度はご愁傷様です」
 後半は笑顔を控え、静かに一礼した。それを見て、ようやく思い出す。
(そういえば、柔道で段持ちやったっけ)
 礼に厭味がない。身体の動きに無駄がない。頭を下げて重心が移動することでのブレもなかった。
 日頃の無駄口さえなければ、ここまで見え方が違うものかと思わず笑いそうになる。
 目を奪われたのはわたしだけではなかった。先手を取られた母が、動揺して目をさ迷わせる。
 その動揺に若干の優越感を覚えながら、わたしは改めて口を開いた。
「おばあちゃんは? 家におるん?」
「施設から、そのまま斎場に。おばあちゃんのお棺に入れたいものがあるんやったら、準備して」
「分かった」
 わたしは頷きながら、祖母に当てられていた部屋に行ってみようと思う。
「それ終わったら、先に斎場行っててもええ? おばあちゃんに会いたい」
 お通夜は夕方から。告別式と納棺は明日の午前中の予定と聞いている。
「ええよ。タクシー呼んどこか。ええと……安田さんは、どちらにお泊りで」
「駅近くにホテルを取ってあります」
「うちもホテルに泊まるさかい」
 母が眉を寄せた。それを横目で見ながら、
「そやなかったら、おばあちゃんのとこで過ごす」
 わたしの言葉に、母は目を反らした。
「好きにしや」
 言いながら背を向け、家中へと足を運ぶ。
「ご飯は?」
「いらん。済ませて来た」
「さよか」
 母は答え、ちらりとジョーを見やる。
 その視線からはまだ、警戒する色が消えない。
「……お構いもせんで、悪いね」
「お気遣いなく。お邪魔なら外で時間を潰しますが」
 わたしはジョーの言葉に抗議の意を示すべく振り向いた。何も言わずにじっとその目を見つめる。ジョーは数度、まばたきした。しばし視線が絡まった後、ジョーがふっと微笑む。
「じゃあ、お邪魔にならないようにしています」
「そうして」
 わたしは前を向いて答えた。

 * * *

「おいくつなの」
 ジョーを居間に残し、わたしは祖母の部屋へ入った。
 それを追うように部屋に入ってきた母は、声をひそめて言った。
「ジョーのこと?」
「他に誰がおるん」
 祖母がよく開いていた本をぱらぱらとめくりながら、ちらりと母を見る。
 母がどういう感情を以てわたしに接しているのか、その表情からは測れない。
 怒り。悲しみ。困惑。
 そのすべてが混ざっているようでもあり、どれでもないような気もした。
 母の気持ちを読み取れないのは、離れて過ごした時間のせいか。
 いずれにせよ分からないものは分からないのだから、考えても仕方のないことだと諦める。
「31やな」
 母の顔が途端に歪んだ。
 その歪みに明確な嫌悪感を見て取り、わたしは安心感すら覚える。
「……どういうつもりで、一緒におるん」
「どういうつもりて」
 わたしは思わず笑った。そんなことは彼に聞いてほしい。振り払っても振り払っても追いすがってくる、一回り年下の男に。
「31て……15、下やろ。あんたが高校生のときに産まれてんで」
「せやな」
 そんなことは今さら言われずとも分かっている。
 何度、どういう形で計算しても、わたしとジョーの間には歴然とした年の差がある。
「……みっともない」
 小さな声は、音量の割にわたしの耳にはっきりと届いた。
 そして言葉以上に、その語調に混ざった苛立ちが、わたしの胸に届く。
 自然と、唇が笑みの形に歪んだ。あまりに予想通りの母の言葉と態度に、先ほどの疑問への答えを見つけた。
 母のことが分からないのは、長く離れていたからではない。
 母は、わたしとは違う思考と常識の中で生きているのだ。
 子どもの時には、母を理解しなければと躍起になっていた。
 自分を庇護してくれるはずの存在なのだから、子は親を理解すべきだと、思っていた。
 しかし、そもそもそれ自体が幻想だったのだと、今なら分かる。
 母親は子どもを庇護しなければいけない、という考えが。
 社会に存在している「そうあるべき」という幻想は、さぞかし母を苦しめたであろう。
 そして子どもであるわたし自身をも、同時に苦しめた。
 それに気づいた今、母という人が一人の人間、女として見える。
「何考えてるか分からへんで、若い子は」
 低い声は、わたしに聞かせるつもりがあるのかどうか。
 苛立ちをぶつけるような声音の後、ふと怯えたような気配に変わる。
「ーー名取を、名乗るつもりか」
 わたしは目を見開いて母を見た。
 うつらな母の目が、わたしを見返してくる。
 帰ってきて初めてかみ合った視線。
 その奥に隠しきれない恐怖を見て取って、意外な想いがした。
「……なんで?」
 自然と疑問がわたしの口を滑り出た。
「なんで、て」
 母が口ごもる。
 問い掛けながらも、わたしは母以上に、その質問の意図が分かっていた。
 名取は母方の姓である。そしてこの家も母の生家である。
 もう戸籍制は失われているとはいえ、次男である父は結婚と共に名取の姓に変わり、この家に義父母と暮らした。
 遺産らしい遺産などない。あるのは代々の墓と、名前と、この家くらいなものだ。
 それでも、永く続いてきたそれを、自分の代では絶やす勇気はなかったのだろう。
 夫たる父の同意のもとで、そういう結婚をした両親だ。
 世間体を気にして。
 結婚すれば、もうわたしは、名取を名乗らなくていい。
 その事実に改めて気づいた。
 縛られ続けた名取という苗字からの解放。
 汚れきった名取葉子という女からの解放。
(そうや)
 変われるのだ。今までとは違う自分に。
 捨てられるのだ。感情も身体も、他者に踏みにじられ続けてきたこの名を。
 反射的に感じた喜びは、同時に胸をえぐるような切なさを持っている。
 46年を共に生きた名に、わたしは何の愛着も感じていない。
(虚しい女やな)
 わたしは口の端を引き上げた。
「お母さん、安心して」
 確信に満ちた声で、ゆっくりと答える。
「名取は名乗らんさかい」
 何の苦労もなく、微笑が浮かんだ。
(これでうちは、本当の意味でここから離れるんや)
 何故今まで、それに気づかなかったのだろう。
 いや、気づかない振りをしていただけかもしれない。
 母はわたしの顔を見た。睨みつけるような視線の奥には、やはり何かに怯えるような色が見えた。
 この歳になって初めて気づいた。
 この人は、ただ、臆病なだけだったのだと。
 一瞬感じた憐れみを振り払うように、見繕った遺品を手にする。
「これとこれ。あとうちの部屋から一つ取ってくるわ。タクシー、呼んどいてくれはる?」
 祖母のお気に入りだった詩集と画集。
 そして自分がよく読んでもらった絵本を入れようと、祖母の部屋を出る。
 廊下にはジョーが立っていた。
「すみません。お手洗いお借りしても?」
「そこ、突き当りを左や」
「ありがとうございます」
「ジョー」
 足を進めた背に呼びかける。
 ジョーは、はい、と振り返った。
「これからうちの部屋に行くんやけど。待っとくさかい、一緒に来ぉへん?」
 ジョーはにこりと笑った。
「喜んで」
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