上 下
27 / 59
第弐章 安田丈の振る舞い

09 パンドラの箱

しおりを挟む
 その翌日から、ジョーは毎朝エレベーターの前で待ち構えて声をかけるてくるようになった。
 確実にわたしに会うようにするためだろうが、そこまで来ると社内でも彼とわたしの関係を噂する者もでてきて、わたしは心底うんざりする。
 挨拶してくるジョーを徹底して無視しつづけているうちに、社内でのわたしの評価が少し変わったらしい。
 おっとりしていて何を考えているか分からない不思議な女から、可愛いジョーくんのアプローチにも冷たい、薄情な女へ。
 母から言われた「薄情」という言葉を思い出し、私はつい鼻で笑いそうになった。
 なんとでも言えばいい。そもそもわたしは感情らしい感情を、あえて自分の心から切り離して生きて来たのだ。自分が生きていくために。自分が必要以上に傷つかないために。そんな、本来なら不必要な努力が必要不可欠だったわたしの生活環境をこそ、怪訝に思って然るべきであり、そうして培われたわたし自身をも訝しむのなら、別段反論する気はなかった。
 しかし噂がたったのは、わたしだけではない。いや、むしろわたしの噂はもう一方の噂にほとんど掻き消されてしまったと言ってもいいくらいだ。
 変な噂が立ちはじめたのは、九州にいるマーシーだった。
 取引先の孫を自宅に連れ込んだとか、性的な関係を持ったとか、その手の噂。
 二月末に四人で交わした夕食の会話で本人から聞いたことを思い出した。
 どうせくだらない男が彼を妬んで撒いたのだろう。
 そんな手でしかマーシーに対抗できない憐れな男に、同情すらしていた。

 ジョーがそのことを持ち出したのは、四月の末だ。
「おはようございます。聞きました?マーシーの噂」
 わたしは一瞬だけジョーに目をやり、わずかな躊躇いの後頷いた。ジョーからは苦笑が返ってきた。
「かわいそうになりますよね。マーシーじゃなくて、噂作った奴が」
 彼はわたしと同じことを考えていたらしいと気づき、少しだけ見直すようにその顔を見やった。
 ジョーの歩みにしぶしぶ従い、エレベーターホールに向かう人込みから少し外れたところに立つ。
「あんないい男、逆立ちしたって敵わないもんなぁ……」
 ジョーの言葉に、わたしは笑った。
「あんたでも、そんなこと思うん。マーシーに」
「思いますよ」
 ジョーは丸い目を笑ませてわたしを見た。
 その目はわたしの反応を喜び、視線はひどく穏やかだった。
 初めて見るその表情に、一瞬目を奪われる。
「思います。どうやったってあの人には敵いません。そんなのわかってます。でも、俺は俺だから。当たって当たって当たりまくって、振り向いてもらうしかないってーー」
 振り向く?
(誰のことを)
 愚問が脳裏を掠める。
 ぞわ、と首の後ろの毛が逆立ったように感じた。
(遊びやろ)
 十五の歳の差。
 女と見れば抱く男と、男に凌辱され続けた女。
(嘘や)
 脳内に閃くのは、エラーメッセージか、警鐘か。
(嘘や嘘や嘘や)
 まだ30にもならない、若い男だ。いくらでも女と遊べる男だ。
 そんな男が、わたしに本気になるわけが。
「代わりでもいいですよ。俺。一年ずっと隣で見てたから、多少は真似もできると思うし、言いそうなことも分かるつもりです。ーーだから」
 確信を持った彼の言葉に、わたしは思わず下唇を噛む。
 二月にジョーと過ごした二度目の夜。何度も噛み殺した別の男の名前。
 一度くらい、口をついて出ていたのかもしれない。
 ジョーの視線はまっすぐに、わたしをとらえ続けている。
 反らされることなく、わたしの奥底に潜む感情まで見逃すまいと言うように。
 その視線が、思い出させる。
 わたしが、胸の奥底に隠した箱の存在を。
 暗く淀んだものを詰め込んだその内側から、ガタガタと何かが動く音がする。
 ジョーの口元が開かれるのを見て、恐怖に身を翻した。
(これ以上聞いたら、あかん)
 無理矢理押さえ付け、どうにか閉ざした箱の蓋を、彼の視線と言葉がたたきつけてくる。ここを開けろと叩く彼の言葉に、箱の中の何かが共鳴している。
 これ以上彼の言葉を聞けば、わたしは開けざるを得なくなる。自分でも何が潜んでいるか、もはや分からないパンドラの箱。
 わたしの中でほぼ唯一、男に侵されずに隠してきた場所。
 そこを、彼の言葉が暴こうとする。
 すくみそうになる足を前に運んだわたしに、
「名取さん!」
 マーシーと同じ呼び方をしたのは、あえてかどうか。
 わたしの足は縫い付けられたように止まった。
 わたしの肩に、ジョーの手が触れる。逃れようと思えば逃れられる力と距離感が、彼の思いやりだと分かる。
 それでもわたしはーーいや、だからこそ、身動きが取れない。
 頭の中では警鐘が鳴りつづけ、頭痛がしてきた。
「一生女を抱くなと言うなら抱きません。触れることもしません。隣にいるなと言うなら、隣にも行きません」
 ジョーは近づかない。
 わたしの肩に触れた手に力を入れるどころか、立ち止まったことを確認してその手を離した。
「でも、せめて守らせてください。他の男が、あなたの心を傷つけないように」
 その声は、祈るような切実な響きを帯びている。
 足元が揺らいだように感じた。
(蓋がーー開く)
 込み上げるものを抑えようと、手で口を覆った。
 夥しい感情が、わたしの奥底で開け放たれた箱の中から、渦を巻いてのぼってくる。

 人気のいない納屋へわたしを連れ込んだ従兄弟の手。公園の物陰で押し倒された背中の砂の感触。先輩とわたしを部屋に置き去りにした友人のせせら笑うような顔。ねっとりと絡み付く、欲望に塗れた男の視線。わたしの身体を這う手。舌。唇。おぞましいほどの量の凌辱の記憶ーー

 そして、白。

 わたしは込み上げてきたものをその場に吐き出し、倒れ込んだ。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【R18】溺愛される公爵令嬢は鈍すぎて王子の腹黒に気づかない

かぐや
恋愛
公爵令嬢シャルロットは、まだデビューしていないにも関わらず社交界で噂になる程美しいと評判の娘であった。それは子供の頃からで、本人にはその自覚は全く無いうえ、純真過ぎて幾度も簡単に拐われかけていた。幼少期からの婚約者である幼なじみのマリウス王子を始め、周りの者が シャルロットを護る為いろいろと奮闘する。そんなお話になる予定です。溺愛系えろラブコメです。 女性が少なく子を増やす為、性に寛容で一妻多夫など婚姻の形は多様。女性大事の世界で、体も中身もかなり早熟の為13歳でも16.7歳くらいの感じで、主人公以外の女子がイケイケです。全くもってえっちでけしからん世界です。 設定ゆるいです。 出来るだけ深く考えず気軽〜に読んで頂けたら助かります。コメディなんです。 ちょいR18には※を付けます。 本番R18には☆つけます。 ※直接的な表現や、ちょこっとお下品な時もあります。あとガッツリ近親相姦や、複数プレイがあります。この世界では家族でも親以外は結婚も何でもありなのです。ツッコミ禁止でお願いします。 苦手な方はお戻りください。 基本、溺愛えろコメディなので主人公が辛い事はしません。

美少年は異世界でヤンデレに囲われます

mmm
BL
高校一年生の佐藤真生(さとうまお)は昔から、誘拐されかけたり、ストーカーに付きまとわれるチビな美少年。しかし、本人はまったくの無自覚で無防備。そんな真生が突然異世界に転移してしまい、周りから愛される話です。

悪意か、善意か、破滅か

野村にれ
恋愛
婚約者が別の令嬢に恋をして、婚約を破棄されたエルム・フォンターナ伯爵令嬢。 婚約者とその想い人が自殺を図ったことで、美談とされて、 悪意に晒されたエルムと、家族も一緒に爵位を返上してアジェル王国を去った。 その後、アジェル王国では、徐々に異変が起こり始める。

【R18】ひとりで異世界は寂しかったのでペット(男)を飼い始めました

桜 ちひろ
恋愛
最近流行りの異世界転生。まさか自分がそうなるなんて… 小説やアニメで見ていた転生後はある小説の世界に飛び込んで主人公を凌駕するほどのチート級の力があったり、特殊能力が!と思っていたが、小説やアニメでもみたことがない世界。そして仮に覚えていないだけでそういう世界だったとしても「モブ中のモブ」で間違いないだろう。 この世界ではさほど珍しくない「治癒魔法」が使えるだけで、特別な魔法や魔力はなかった。 そして小さな治療院で働く普通の女性だ。 ただ普通ではなかったのは「性欲」 前世もなかなか強すぎる性欲のせいで苦労したのに転生してまで同じことに悩まされることになるとは… その強すぎる性欲のせいでこちらの世界でも25歳という年齢にもかかわらず独身。彼氏なし。 こちらの世界では16歳〜20歳で結婚するのが普通なので婚活はかなり難航している。 もう諦めてペットに癒されながら独身でいることを決意した私はペットショップで小動物を飼うはずが、自分より大きな動物…「人間のオス」を飼うことになってしまった。 特に躾はせずに番犬代わりになればいいと思っていたが、この「人間のオス」が私の全てを満たしてくれる最高のペットだったのだ。

【完結】君こそが僕の花 ーー ある騎士の恋

冬馬亮
恋愛
こちらの話は、『あなたの愛など要りません』の外伝となります。 メインキャラクターの一人、ランスロットの恋のお話です。 「女性は、花に似ていると思うんだ。水をやる様に愛情を注ぎ、大切に守り慈しむ。すると更に女性は美しく咲き誇るんだ」 そうランスロットに話したのは、ずっと側で自分と母を守ってくれていた叔父だった。 12歳という若さで、武の名門バームガウラス公爵家当主の座に着いたランスロット。 愛人宅に入り浸りの実父と訣別し、愛する母を守る道を選んだあの日から6年。 18歳になったランスロットに、ある令嬢との出会いが訪れる。 自分は、母を無視し続けた実父の様になるのではないか。 それとも、ずっと母を支え続けた叔父の様になれるのだろうか。 自分だけの花を見つける日が来る事を思いながら、それでもランスロットの心は不安に揺れた。 だが、そんな迷いや不安は一瞬で消える。 ヴィオレッタという少女の不遇を目の当たりにした時に ーーー 守りたい、助けたい、彼女にずっと笑っていてほしい。 ヴィオレッタの為に奔走するランスロットは、自分の内にあるこの感情が恋だとまだ気づかない。 ※ なろうさんでも連載しています

今さら、私に構わないでください

ましゅぺちーの
恋愛
愛する夫が恋をした。 彼を愛していたから、彼女を側妃に迎えるように進言した。 愛し合う二人の前では私は悪役。 幸せそうに微笑み合う二人を見て、私は彼への愛を捨てた。 しかし、夫からの愛を完全に諦めるようになると、彼の態度が少しずつ変化していって……? タイトル変更しました。

家族と移住した先で隠しキャラ拾いました

狭山ひびき@バカふり160万部突破
恋愛
「はい、ちゅーもーっく! 本日わたしは、とうとう王太子殿下から婚約破棄をされました! これがその証拠です!」  ヴィルヘルミーネ・フェルゼンシュタインは、そう言って家族に王太子から届いた手紙を見せた。  「「「やっぱりかー」」」  すぐさま合いの手を入れる家族は、前世から家族である。  日本で死んで、この世界――前世でヴィルヘルミーネがはまっていた乙女ゲームの世界に転生したのだ。  しかも、ヴィルヘルミーネは悪役令嬢、そして家族は当然悪役令嬢の家族として。  ゆえに、王太子から婚約破棄を突きつけられることもわかっていた。  前世の記憶を取り戻した一年前から準備に準備を重ね、婚約破棄後の身の振り方を決めていたヴィルヘルミーネたちは慌てず、こう宣言した。 「船に乗ってシュティリエ国へ逃亡するぞー!」「「「おー!」」」  前世も今も、実に能天気な家族たちは、こうして断罪される前にそそくさと海を挟んだ隣国シュティリエ国へ逃亡したのである。  そして、シュティリエ国へ逃亡し、新しい生活をはじめた矢先、ヴィルヘルミーネは庭先で真っ黒い兎を見つけて保護をする。  まさかこの兎が、乙女ゲームのラスボスであるとは気づかづに――

【完結】追放住職の山暮らし~あやかしに愛され過ぎる生臭坊主は隠居して山でスローライフを送る

負け犬の心得(眠い犬)
キャラ文芸
あやかしに愛され、あやかしが寄って来る体質の住職、後藤永海は六十五歳を定年として息子に寺を任せ山へ隠居しようと考えていたが、定年を前にして寺を追い出されてしまう。追い出された理由はまあ、自業自得としか言いようがないのだが。永海には幼い頃からあやかしを遠ざけ、彼を守ってきた化け狐の相棒がいて、、、 これは人生の最後はあやかしと共に過ごしたいと願った生臭坊主が、不思議なあやかし達に囲まれて幸せに暮らす日々を描いたほのぼのスローライフな物語である。

処理中です...