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第弐章 安田丈の振る舞い

06 赤い視界

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 臙脂色のネクタイで自らの目を覆ったわたしは、その赤い視界の中にマーシーを見た。
 身体を這う男の手と舌先。ときどき触れる筋肉質な身体。
 目を覆えば、わたしに触れるその男が、マーシーに比べやや細身であることなど感じなかった。
 目を覆われての行為に経験がないわけではない。ーーが、自ら望んだのは初めてのことだ。
 遮断された視界に代わり、耳に届く自身の嬌声と男の吐息。
 ときどき立つ水音と、身体の合わさる音。
 男の手が身体に触れる度、電流のような甘い痺れが身体に走った。
 それはすべて、わたしの中心にある女の部分に行き着く。
 何かが満たされていくような気がした。
 わたしはさらに目を閉じた。
 赤い視野は、わたしのまぶたに遮られ、やや橙色を帯びる。
 ーー名取さん。
 上擦ったマーシーの声を思い出した。
 男がわたしの両手首をつかみ、ベッドへと縫い付けた。
 そこに力強さはあれど、他の男に感じる強引さはない。
 ぞわりと身体を這う痺れに、わたしは吐息と共に身をくねらせる。
 男が高ぶり、吐息をつく気配がした。
(マーシー)
 高ぶる度、その名を呼びそうになり、飲み込んだ。
 期待の外丁寧にわたしを解きほぐす男の愛撫に、理性は形をなくして溶けていく。
 ただのメスに成り果てたわたしは、違う男の幻想を見ながら、ただのオスに身体を任せる。
 互いの温もりに浸り、卑猥な音色に欲情し、男はときに手荒く、ときに優しくわたしの身体を味わいーー
 互いに果てた後、ぐったりと弛緩した身体は、シャワーとは別の水気に濡れていた。

 男の背中に回していた手をベッドの上に力無く落とすと、男はわたしの隣にごろりと身を横たえる。
 互いの粗い息遣いだけが、部屋に充ちていた。
 わたしは男に背中を向けて転がる。
 目を開けても、閉じても、そこには赤い世界が広がっていた。
 男に抱かれながら何度も呼びそうになっては飲み込んだ別の男の名前は、まだ喉の奥と胸中を行き来している。
 理性を手放して男を求めた身体は、心地好さすら感じる疲労に包まれていた。
 その柔らかな喜び。
 初めて、行為で自分の中の何かが満たされたように感じた。
 同時に、それはひどく虚しかった。
 満たされた何かと、二度と満たされない何か。
 現実が一気にわたしの身体と心をとらえた。
 これ以上ないほどにのぼりつめていた高揚感から、底知れぬ虚無感へ。
 満たされた身体と、渇望する心。
 歪みに歪んだわたしの心。
 親に突き放され、男に蹂躙された心。
 とっくに失ったはずの感情が溢れる。
 わたしは込み上げる嗚咽をこらえようと、口元を押さえた。
 男がわたしの頭の後ろに手を触れる。
 ネクタイの結び目を解こうとしているのだと気づき、わたしは言った。
「解かんどいて」
 その声音は、ひどく切実な懇願の色を帯びている。
 普段の如く自嘲しようとしたが、それすらもできないほどに、わたしは感情にからめとられていた。
 その涙が指し示す感情が何なのか、わたしにはもう、わからない。
 すべての感情を、胸底の箱に詰め込んで生きてきたわたしにはーー

 嗚咽を噛み殺すわたしの肩を、頭をーー男の手はゆっくりと撫でさすった。
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