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序章

09 色気と情欲

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「おはようございます」
 一階のエレベーターホールで声をかけられて、わたしは顔を上げた。
「……おはようさん」
 普段なら意図的に作る微笑みは、声の主を目に留めた瞬間自然と浮かぶ。
 相変わらずこざっぱりとした格好をしたマーシーは、わたしの返事を聞くなり首を傾げた。
「風邪ですか? 鼻声ですね」
 わたしはまばたきをして、ふと笑う。
「そうかもしれへん。週末、ソファでうとうとしてな」
 教授に抱かれ帰宅した日、まどろみにのまれたわたしはそのまま朝までソファで眠ってしまった。
「そうですか……」
 マーシーは困ったような笑顔を浮かべる。
 わたしは首を傾げた。
「なんやの?」
「いや……」
 マーシーはちらりと周りへ視線を投げた後、
「早く治した方がいいですよ。その声」
「みっともない?」
「そうじゃなくて……」
 言いにくそうに頭後ろに手を添える。
「むしろ、好みそうな奴がいそうだから。お気をつけて」
 わたしが数度まばたきしている間に、マーシーは口を開けたエレベーターに乗り込む。
 さりげなくわたしの場所を開けてくれる気遣いに感謝しつつ、そのスペースに収まった。
 通勤時間帯のエレベーターは人が多い。肩が触れるほどの距離にマーシーが立つことなど普段なら有り得ない。
 横に立つ彼の存在に、 不必要なほど意識が向いているのを自覚した。
 途中階でエレベーターが開く。後ろから数人が降りる。
 押しのけて降りようとする人から、マーシーは厭味なくわたしを庇った。
 少しだけ包み込むような立ち位置に変わった後、半歩離れた。人が降りて少し空間に余裕ができたら、非日常な距離感は通常の距離感に戻る。
 ぽかりと浮かぶ、小さな喪失感。
「……おおきに」
 庇ってくれたお礼を言ったつもりだが、当人は驚いたように目をまたたかせた。
「何がです?」
(なんや、無意識か)
 きょとんとした顔はいつもの愛想笑いと違い、彼の素だ。
 それを目にして笑うと、心の靄が一瞬だけ晴れたような気がした。
「ふふ……」
 そんな自分の心の変化に口を押さえて笑うと、マーシーが物珍しそうな顔をする。
「……今日はご機嫌ですね」
「そうやろか。……そうかもしれへんな」
 わたしが言う頃、目的階に着いた。エレベーターのドアが開き、マーシーが視線でわたしに先を譲る。
 わたしは微笑を返してエレベーターから降りた。
 それぞれエレベーターホールを挟んで逆側へと歩いていく。
 財務部のドアを開ける直前、わたしは後ろを振り向いた。
 マーシーが社員証を翳して事業部のドアのロックを外している。
 その後ろ姿を上から下まで堪能し、ちらりと自分の唇を舐めた。
(十も年下の男や)
 どうこうなろう、などと思っているわけではない。
 それでも、彼の後ろ姿はあまりに魅力的だった。
 そしてわたしの中の女を煽った。
(初めてやなぁ)
 男に色気を感じたのも、
(抱かれてみたいと思うたのも)
 一人、口の端を歪めた。
(空想するくらい、許されるやろ)
 ふ、と息を吐き出すと、マーシーがちらりと振り向いた。
 わたしはにこりと笑って手を挙げる。マーシーも不思議そうな顔をした後で微笑んだ。
 社員証をドアに翳すと、カチ、とロックの外れる音がした。
 社員証を首に下げながら、片手でドアを開く。
 揺れたそれが胸の頂きに当たって引っ掛かった。
 嘆息しながら少し引っ張り、当たり障りのないところに落ち着かせる。
(邪魔な塊)
 身体についた膨らみに心中で毒づいていると、
「あ、ヨーコちゃん、おはよー」
 デスクで目薬をさしていたアーヤが笑顔で言った。その胸元には眼鏡がかかっている。
「どしたん? 今日は眼鏡?」
「うん、目が乾いてコンタクト痛くて」
 言いながら、アーヤは胸元の眼鏡をするりと引き出した。
 そのしぐさに厭らしさなどかけらもない。
 わたしとは対照的なほど、アーヤの持つ雰囲気は爽やかで健康的だった。
 顔立ちも体型も、女らしくない訳ではないのだが、この差はどこから来るのだろう。
「仕事がんばりすぎなんやないの」
「仕事しかがんばることがなーいっ」
 アーヤは笑うと、
「そういうヨーコちゃんも、鼻声だけど。無理しないでね」
 わたしは頷きながら、ふと思い出した。
 マーシーが言っていた言葉。
 ーー好みそうな奴がいそうだから。お気をつけて。
(どんな風に聞こえるんやろ)
 好むのが彼なのだったら、ずっと治らなくてもいいくらいだ。
 馬鹿げたことを思いながら、すんと鼻を鳴らした。
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