上 下
1 / 59
序章

01 新年度

しおりを挟む
 男の手が、わたしの太ももをまさぐる。

 季節は春。新年度が始まったばかりだ。
 先月末、株主総会が終わってようやく一段落ついた。4月になった、とはいえ、人はカレンダーのように簡単に切り替わるわけもない。わたしにとっては馬車馬のように働いた翌週というだけのことだ。一山越えたことで若干の開放感はあるが、疲れの取れきっていない身体で電車に揺られ、こうして、男に身体をまさぐられている。
(何が楽しゅうて、こないに枯れた女)
 気づけばもう40も過ぎた。
 夏になる頃には41になる。
(あっちの若い子の方がええやろうに。手が届かへんかったんやろか)
 ぼんやりと思う間にも、男の手は下半身をまさぐり続ける。ごつごつとした手はスカート越しに弾力を楽しむように、わたしの反応を期待するように、執拗な動きでわたしの腿を這う。
 その手が布を除けて中にまで入って来ようとしたとき、電車が駅のホームに滑り込んだ。
 開いたドアから、人がなだれを打って下りていく。わたしも後ろから押されるようにしながら外に出た。
 そのとき、一人の男と思い切り肩がぶつかった。
「あ、すみません」
 男の声に顔を上げたときが、彼はもう歩いて行っている。
 ふと、その後ろ姿に見入った。ほどよい肩幅、まっすぐに伸びた背筋、少しだけ引き締まったジャケットのくびれと腰回りとすらりとした脚、そして何より、その臀部。
 スラックスに包まれたその半身を想像して、ほぅ、と小さく吐息をつく。
(おいしそうなお尻やなぁ)
 次いで、一言だけ降ってきた、男の声を思い出した。
(……ええ声、してはった)
 思う間にも、人波はぐいぐいとわたしを運んでいく。
 あえてその流れに逆らうことなく、改札口へと向かった。

「ヨーコちゃん、ランチ行こー!」
 ランチタイムに入るや否や、後輩の橘彩乃、通称アーヤに誘われた。
 ゆるく巻いた髪はハーフアップにまとめている。ビジューつきのシフォンブラウスにパステルカラーのAラインスカート。ふわっとした格好を好むのは、きつく見られがちなのをすこしでも和らげようということらしい。わずかにつり気味の猫目は、今はやや下がり気味だが、仕事中はキリリとしている。
 とうとう30の大台に乗ってしまうと騒ぐ彼女は、去年異動してきたばかり。まだ担当して一年しか経たないのに、すっかりこの財務部の顔だ。
 妹のいないわたしは、仕事ができすぎて恐れられてすらいる彼女のことを大変可愛がっている。カミソリのような仕事ぶりと、オフのときのボケっぷりのギャップがなかなか面白い。どちらかというとおっとり見られがちなわたしとはバランスがいいらしく、気づけばペアを組んでいる。
「ええよ。どこにする?」
 わたしが財布や口紅の入った小さなバッグを手に立ち上がると、アーヤはにこにこしながら財布を手にした。ランチに出るときには財布とスマホだけを裸のまま手にして行くのが彼女のスタイル。かばんを持って出るところなど見たことがないが、それも納得できる。何が入っているのかわからないが、彼女のかばんはいつも大きくて重そうなのだ。
「何にしよっかなぁ。あ、こないだ行ったキッシュのお店は?」
「ええで」
 少しだけ会社から離れたところに、カフェテリアつきの紅茶専門店がある。わたしが就職した頃からそこにあり、紅茶を習ってみたかったわたしは数度ワークショップに足を運んでみたりもした。
 コーヒーは苦くて飲めないのだが、紅茶は香りが好きだ。
 そして、あの深い赤茶色も。
 湯気の立つカップを想像して、口元に笑みが浮かぶ。美味しいものを口にするその時間は、わたしにとって至福のときだ。それを可愛い後輩と楽しめるのであれば、これに越したことはない。たとえ仕事の合間の息抜きであっても。
「じゃ、行こう」
 アーヤは笑って前を歩いた。わたしより小柄なその背中はまっすぐ伸びていて、顔は少し上向いている。その前向きな伸びやかさは、一度もわたしが手にしたことのないものだ。
 エレベーターホールにつながるドアを開けると、同じく正面のドアを開けて出てくる男性社員が見えた。このフロアにあるのは、わたしたちのいる財務部と、向かいにある事業部の二部署だけだ。男はその事業部の所属なのだろう。
 すらりと伸びた長身。アーモンド型の目。通った鼻筋。甘い口元。そのスーツのシルエットに、一瞬既視感を覚える。
「あれっ、神崎?」
 一歩前を行くアーヤの声が弾んだ。
「事業部に異動だったの? 知らなかった。教えてよ」
「ああ……橘は財務部だったな」
 その声にわたしは、つと目を上げた。
(今朝の)
 ーーおいしそうなお尻の。
 あまりの思い出し方に、ひとり噴き出しそうになった。どうにか押し止めると、口元に微笑みを浮かべる。
「ヨーコちゃん、これ、同期」
 アーヤが男を指差して言った。ぞんざいな呼び方に、男は苦笑した。
 整ったその顔は、そんな表情でもひどく絵になる。
「はじめまして。4月から事業部に異動になりました、神崎政人です。社内ではマーシーと呼ばれてます」
 右手を出す動作も自然だ。
 男の手など気持ち悪くて、いつもだったら差し出されても握らないのだが、わたしも自然と手を差し出す。
 英語を公用語とする我が社では、呼び方もニックネームになることが多い。マーシーという呼び名もそのためだろう。
「はじめまして。名取です。みんなからは、ヨーコて呼ばれてます」
 マーシーの手には、今までの男に感じたことのない滑らかさと柔らかさを感じた。マーシーが握った手を緩めると同時に、握手を解き手を下ろす。
 一瞬感じた名残惜しさ。
 私の微笑に応じるように、彼も愛想のいい笑顔を返した。
「よろしくお願いします、名取さん」
 言われてまた笑いそうになった。
 無難といえば無難な、好青年然とした笑顔と態度。親近感を抱かせる立ち居振る舞いでありながら、呼び名は必ずセカンドネーム、ということか。
(この容姿やからなぁ……)
 さぞいろんな人間が寄って来ることだろう。
 予防線を張ろうという意図は、わかる気がした。
「よろしゅう、マーシー」
 いつもの愛想笑いはどこへやら。
 わたしの口端は自然と引き上がった。
 マーシーも、にこりと人好きのする笑顔を返した。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【R18】溺愛される公爵令嬢は鈍すぎて王子の腹黒に気づかない

かぐや
恋愛
公爵令嬢シャルロットは、まだデビューしていないにも関わらず社交界で噂になる程美しいと評判の娘であった。それは子供の頃からで、本人にはその自覚は全く無いうえ、純真過ぎて幾度も簡単に拐われかけていた。幼少期からの婚約者である幼なじみのマリウス王子を始め、周りの者が シャルロットを護る為いろいろと奮闘する。そんなお話になる予定です。溺愛系えろラブコメです。 女性が少なく子を増やす為、性に寛容で一妻多夫など婚姻の形は多様。女性大事の世界で、体も中身もかなり早熟の為13歳でも16.7歳くらいの感じで、主人公以外の女子がイケイケです。全くもってえっちでけしからん世界です。 設定ゆるいです。 出来るだけ深く考えず気軽〜に読んで頂けたら助かります。コメディなんです。 ちょいR18には※を付けます。 本番R18には☆つけます。 ※直接的な表現や、ちょこっとお下品な時もあります。あとガッツリ近親相姦や、複数プレイがあります。この世界では家族でも親以外は結婚も何でもありなのです。ツッコミ禁止でお願いします。 苦手な方はお戻りください。 基本、溺愛えろコメディなので主人公が辛い事はしません。

美少年は異世界でヤンデレに囲われます

mmm
BL
高校一年生の佐藤真生(さとうまお)は昔から、誘拐されかけたり、ストーカーに付きまとわれるチビな美少年。しかし、本人はまったくの無自覚で無防備。そんな真生が突然異世界に転移してしまい、周りから愛される話です。

悪意か、善意か、破滅か

野村にれ
恋愛
婚約者が別の令嬢に恋をして、婚約を破棄されたエルム・フォンターナ伯爵令嬢。 婚約者とその想い人が自殺を図ったことで、美談とされて、 悪意に晒されたエルムと、家族も一緒に爵位を返上してアジェル王国を去った。 その後、アジェル王国では、徐々に異変が起こり始める。

【R18】ひとりで異世界は寂しかったのでペット(男)を飼い始めました

桜 ちひろ
恋愛
最近流行りの異世界転生。まさか自分がそうなるなんて… 小説やアニメで見ていた転生後はある小説の世界に飛び込んで主人公を凌駕するほどのチート級の力があったり、特殊能力が!と思っていたが、小説やアニメでもみたことがない世界。そして仮に覚えていないだけでそういう世界だったとしても「モブ中のモブ」で間違いないだろう。 この世界ではさほど珍しくない「治癒魔法」が使えるだけで、特別な魔法や魔力はなかった。 そして小さな治療院で働く普通の女性だ。 ただ普通ではなかったのは「性欲」 前世もなかなか強すぎる性欲のせいで苦労したのに転生してまで同じことに悩まされることになるとは… その強すぎる性欲のせいでこちらの世界でも25歳という年齢にもかかわらず独身。彼氏なし。 こちらの世界では16歳〜20歳で結婚するのが普通なので婚活はかなり難航している。 もう諦めてペットに癒されながら独身でいることを決意した私はペットショップで小動物を飼うはずが、自分より大きな動物…「人間のオス」を飼うことになってしまった。 特に躾はせずに番犬代わりになればいいと思っていたが、この「人間のオス」が私の全てを満たしてくれる最高のペットだったのだ。

【完結】君こそが僕の花 ーー ある騎士の恋

冬馬亮
恋愛
こちらの話は、『あなたの愛など要りません』の外伝となります。 メインキャラクターの一人、ランスロットの恋のお話です。 「女性は、花に似ていると思うんだ。水をやる様に愛情を注ぎ、大切に守り慈しむ。すると更に女性は美しく咲き誇るんだ」 そうランスロットに話したのは、ずっと側で自分と母を守ってくれていた叔父だった。 12歳という若さで、武の名門バームガウラス公爵家当主の座に着いたランスロット。 愛人宅に入り浸りの実父と訣別し、愛する母を守る道を選んだあの日から6年。 18歳になったランスロットに、ある令嬢との出会いが訪れる。 自分は、母を無視し続けた実父の様になるのではないか。 それとも、ずっと母を支え続けた叔父の様になれるのだろうか。 自分だけの花を見つける日が来る事を思いながら、それでもランスロットの心は不安に揺れた。 だが、そんな迷いや不安は一瞬で消える。 ヴィオレッタという少女の不遇を目の当たりにした時に ーーー 守りたい、助けたい、彼女にずっと笑っていてほしい。 ヴィオレッタの為に奔走するランスロットは、自分の内にあるこの感情が恋だとまだ気づかない。 ※ なろうさんでも連載しています

今さら、私に構わないでください

ましゅぺちーの
恋愛
愛する夫が恋をした。 彼を愛していたから、彼女を側妃に迎えるように進言した。 愛し合う二人の前では私は悪役。 幸せそうに微笑み合う二人を見て、私は彼への愛を捨てた。 しかし、夫からの愛を完全に諦めるようになると、彼の態度が少しずつ変化していって……? タイトル変更しました。

家族と移住した先で隠しキャラ拾いました

狭山ひびき@バカふり160万部突破
恋愛
「はい、ちゅーもーっく! 本日わたしは、とうとう王太子殿下から婚約破棄をされました! これがその証拠です!」  ヴィルヘルミーネ・フェルゼンシュタインは、そう言って家族に王太子から届いた手紙を見せた。  「「「やっぱりかー」」」  すぐさま合いの手を入れる家族は、前世から家族である。  日本で死んで、この世界――前世でヴィルヘルミーネがはまっていた乙女ゲームの世界に転生したのだ。  しかも、ヴィルヘルミーネは悪役令嬢、そして家族は当然悪役令嬢の家族として。  ゆえに、王太子から婚約破棄を突きつけられることもわかっていた。  前世の記憶を取り戻した一年前から準備に準備を重ね、婚約破棄後の身の振り方を決めていたヴィルヘルミーネたちは慌てず、こう宣言した。 「船に乗ってシュティリエ国へ逃亡するぞー!」「「「おー!」」」  前世も今も、実に能天気な家族たちは、こうして断罪される前にそそくさと海を挟んだ隣国シュティリエ国へ逃亡したのである。  そして、シュティリエ国へ逃亡し、新しい生活をはじめた矢先、ヴィルヘルミーネは庭先で真っ黒い兎を見つけて保護をする。  まさかこの兎が、乙女ゲームのラスボスであるとは気づかづに――

【完結】追放住職の山暮らし~あやかしに愛され過ぎる生臭坊主は隠居して山でスローライフを送る

負け犬の心得(眠い犬)
キャラ文芸
あやかしに愛され、あやかしが寄って来る体質の住職、後藤永海は六十五歳を定年として息子に寺を任せ山へ隠居しようと考えていたが、定年を前にして寺を追い出されてしまう。追い出された理由はまあ、自業自得としか言いようがないのだが。永海には幼い頃からあやかしを遠ざけ、彼を守ってきた化け狐の相棒がいて、、、 これは人生の最後はあやかしと共に過ごしたいと願った生臭坊主が、不思議なあやかし達に囲まれて幸せに暮らす日々を描いたほのぼのスローライフな物語である。

処理中です...