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序章
01 新年度
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男の手が、わたしの太ももをまさぐる。
季節は春。新年度が始まったばかりだ。
先月末、株主総会が終わってようやく一段落ついた。4月になった、とはいえ、人はカレンダーのように簡単に切り替わるわけもない。わたしにとっては馬車馬のように働いた翌週というだけのことだ。一山越えたことで若干の開放感はあるが、疲れの取れきっていない身体で電車に揺られ、こうして、男に身体をまさぐられている。
(何が楽しゅうて、こないに枯れた女)
気づけばもう40も過ぎた。
夏になる頃には41になる。
(あっちの若い子の方がええやろうに。手が届かへんかったんやろか)
ぼんやりと思う間にも、男の手は下半身をまさぐり続ける。ごつごつとした手はスカート越しに弾力を楽しむように、わたしの反応を期待するように、執拗な動きでわたしの腿を這う。
その手が布を除けて中にまで入って来ようとしたとき、電車が駅のホームに滑り込んだ。
開いたドアから、人がなだれを打って下りていく。わたしも後ろから押されるようにしながら外に出た。
そのとき、一人の男と思い切り肩がぶつかった。
「あ、すみません」
男の声に顔を上げたときが、彼はもう歩いて行っている。
ふと、その後ろ姿に見入った。ほどよい肩幅、まっすぐに伸びた背筋、少しだけ引き締まったジャケットのくびれと腰回りとすらりとした脚、そして何より、その臀部。
スラックスに包まれたその半身を想像して、ほぅ、と小さく吐息をつく。
(おいしそうなお尻やなぁ)
次いで、一言だけ降ってきた、男の声を思い出した。
(……ええ声、してはった)
思う間にも、人波はぐいぐいとわたしを運んでいく。
あえてその流れに逆らうことなく、改札口へと向かった。
「ヨーコちゃん、ランチ行こー!」
ランチタイムに入るや否や、後輩の橘彩乃、通称アーヤに誘われた。
ゆるく巻いた髪はハーフアップにまとめている。ビジューつきのシフォンブラウスにパステルカラーのAラインスカート。ふわっとした格好を好むのは、きつく見られがちなのをすこしでも和らげようということらしい。わずかにつり気味の猫目は、今はやや下がり気味だが、仕事中はキリリとしている。
とうとう30の大台に乗ってしまうと騒ぐ彼女は、去年異動してきたばかり。まだ担当して一年しか経たないのに、すっかりこの財務部の顔だ。
妹のいないわたしは、仕事ができすぎて恐れられてすらいる彼女のことを大変可愛がっている。カミソリのような仕事ぶりと、オフのときのボケっぷりのギャップがなかなか面白い。どちらかというとおっとり見られがちなわたしとはバランスがいいらしく、気づけばペアを組んでいる。
「ええよ。どこにする?」
わたしが財布や口紅の入った小さなバッグを手に立ち上がると、アーヤはにこにこしながら財布を手にした。ランチに出るときには財布とスマホだけを裸のまま手にして行くのが彼女のスタイル。かばんを持って出るところなど見たことがないが、それも納得できる。何が入っているのかわからないが、彼女のかばんはいつも大きくて重そうなのだ。
「何にしよっかなぁ。あ、こないだ行ったキッシュのお店は?」
「ええで」
少しだけ会社から離れたところに、カフェテリアつきの紅茶専門店がある。わたしが就職した頃からそこにあり、紅茶を習ってみたかったわたしは数度ワークショップに足を運んでみたりもした。
コーヒーは苦くて飲めないのだが、紅茶は香りが好きだ。
そして、あの深い赤茶色も。
湯気の立つカップを想像して、口元に笑みが浮かぶ。美味しいものを口にするその時間は、わたしにとって至福のときだ。それを可愛い後輩と楽しめるのであれば、これに越したことはない。たとえ仕事の合間の息抜きであっても。
「じゃ、行こう」
アーヤは笑って前を歩いた。わたしより小柄なその背中はまっすぐ伸びていて、顔は少し上向いている。その前向きな伸びやかさは、一度もわたしが手にしたことのないものだ。
エレベーターホールにつながるドアを開けると、同じく正面のドアを開けて出てくる男性社員が見えた。このフロアにあるのは、わたしたちのいる財務部と、向かいにある事業部の二部署だけだ。男はその事業部の所属なのだろう。
すらりと伸びた長身。アーモンド型の目。通った鼻筋。甘い口元。そのスーツのシルエットに、一瞬既視感を覚える。
「あれっ、神崎?」
一歩前を行くアーヤの声が弾んだ。
「事業部に異動だったの? 知らなかった。教えてよ」
「ああ……橘は財務部だったな」
その声にわたしは、つと目を上げた。
(今朝の)
ーーおいしそうなお尻の。
あまりの思い出し方に、ひとり噴き出しそうになった。どうにか押し止めると、口元に微笑みを浮かべる。
「ヨーコちゃん、これ、同期」
アーヤが男を指差して言った。ぞんざいな呼び方に、男は苦笑した。
整ったその顔は、そんな表情でもひどく絵になる。
「はじめまして。4月から事業部に異動になりました、神崎政人です。社内ではマーシーと呼ばれてます」
右手を出す動作も自然だ。
男の手など気持ち悪くて、いつもだったら差し出されても握らないのだが、わたしも自然と手を差し出す。
英語を公用語とする我が社では、呼び方もニックネームになることが多い。マーシーという呼び名もそのためだろう。
「はじめまして。名取です。みんなからは、ヨーコて呼ばれてます」
マーシーの手には、今までの男に感じたことのない滑らかさと柔らかさを感じた。マーシーが握った手を緩めると同時に、握手を解き手を下ろす。
一瞬感じた名残惜しさ。
私の微笑に応じるように、彼も愛想のいい笑顔を返した。
「よろしくお願いします、名取さん」
言われてまた笑いそうになった。
無難といえば無難な、好青年然とした笑顔と態度。親近感を抱かせる立ち居振る舞いでありながら、呼び名は必ずセカンドネーム、ということか。
(この容姿やからなぁ……)
さぞいろんな人間が寄って来ることだろう。
予防線を張ろうという意図は、わかる気がした。
「よろしゅう、マーシー」
いつもの愛想笑いはどこへやら。
わたしの口端は自然と引き上がった。
マーシーも、にこりと人好きのする笑顔を返した。
季節は春。新年度が始まったばかりだ。
先月末、株主総会が終わってようやく一段落ついた。4月になった、とはいえ、人はカレンダーのように簡単に切り替わるわけもない。わたしにとっては馬車馬のように働いた翌週というだけのことだ。一山越えたことで若干の開放感はあるが、疲れの取れきっていない身体で電車に揺られ、こうして、男に身体をまさぐられている。
(何が楽しゅうて、こないに枯れた女)
気づけばもう40も過ぎた。
夏になる頃には41になる。
(あっちの若い子の方がええやろうに。手が届かへんかったんやろか)
ぼんやりと思う間にも、男の手は下半身をまさぐり続ける。ごつごつとした手はスカート越しに弾力を楽しむように、わたしの反応を期待するように、執拗な動きでわたしの腿を這う。
その手が布を除けて中にまで入って来ようとしたとき、電車が駅のホームに滑り込んだ。
開いたドアから、人がなだれを打って下りていく。わたしも後ろから押されるようにしながら外に出た。
そのとき、一人の男と思い切り肩がぶつかった。
「あ、すみません」
男の声に顔を上げたときが、彼はもう歩いて行っている。
ふと、その後ろ姿に見入った。ほどよい肩幅、まっすぐに伸びた背筋、少しだけ引き締まったジャケットのくびれと腰回りとすらりとした脚、そして何より、その臀部。
スラックスに包まれたその半身を想像して、ほぅ、と小さく吐息をつく。
(おいしそうなお尻やなぁ)
次いで、一言だけ降ってきた、男の声を思い出した。
(……ええ声、してはった)
思う間にも、人波はぐいぐいとわたしを運んでいく。
あえてその流れに逆らうことなく、改札口へと向かった。
「ヨーコちゃん、ランチ行こー!」
ランチタイムに入るや否や、後輩の橘彩乃、通称アーヤに誘われた。
ゆるく巻いた髪はハーフアップにまとめている。ビジューつきのシフォンブラウスにパステルカラーのAラインスカート。ふわっとした格好を好むのは、きつく見られがちなのをすこしでも和らげようということらしい。わずかにつり気味の猫目は、今はやや下がり気味だが、仕事中はキリリとしている。
とうとう30の大台に乗ってしまうと騒ぐ彼女は、去年異動してきたばかり。まだ担当して一年しか経たないのに、すっかりこの財務部の顔だ。
妹のいないわたしは、仕事ができすぎて恐れられてすらいる彼女のことを大変可愛がっている。カミソリのような仕事ぶりと、オフのときのボケっぷりのギャップがなかなか面白い。どちらかというとおっとり見られがちなわたしとはバランスがいいらしく、気づけばペアを組んでいる。
「ええよ。どこにする?」
わたしが財布や口紅の入った小さなバッグを手に立ち上がると、アーヤはにこにこしながら財布を手にした。ランチに出るときには財布とスマホだけを裸のまま手にして行くのが彼女のスタイル。かばんを持って出るところなど見たことがないが、それも納得できる。何が入っているのかわからないが、彼女のかばんはいつも大きくて重そうなのだ。
「何にしよっかなぁ。あ、こないだ行ったキッシュのお店は?」
「ええで」
少しだけ会社から離れたところに、カフェテリアつきの紅茶専門店がある。わたしが就職した頃からそこにあり、紅茶を習ってみたかったわたしは数度ワークショップに足を運んでみたりもした。
コーヒーは苦くて飲めないのだが、紅茶は香りが好きだ。
そして、あの深い赤茶色も。
湯気の立つカップを想像して、口元に笑みが浮かぶ。美味しいものを口にするその時間は、わたしにとって至福のときだ。それを可愛い後輩と楽しめるのであれば、これに越したことはない。たとえ仕事の合間の息抜きであっても。
「じゃ、行こう」
アーヤは笑って前を歩いた。わたしより小柄なその背中はまっすぐ伸びていて、顔は少し上向いている。その前向きな伸びやかさは、一度もわたしが手にしたことのないものだ。
エレベーターホールにつながるドアを開けると、同じく正面のドアを開けて出てくる男性社員が見えた。このフロアにあるのは、わたしたちのいる財務部と、向かいにある事業部の二部署だけだ。男はその事業部の所属なのだろう。
すらりと伸びた長身。アーモンド型の目。通った鼻筋。甘い口元。そのスーツのシルエットに、一瞬既視感を覚える。
「あれっ、神崎?」
一歩前を行くアーヤの声が弾んだ。
「事業部に異動だったの? 知らなかった。教えてよ」
「ああ……橘は財務部だったな」
その声にわたしは、つと目を上げた。
(今朝の)
ーーおいしそうなお尻の。
あまりの思い出し方に、ひとり噴き出しそうになった。どうにか押し止めると、口元に微笑みを浮かべる。
「ヨーコちゃん、これ、同期」
アーヤが男を指差して言った。ぞんざいな呼び方に、男は苦笑した。
整ったその顔は、そんな表情でもひどく絵になる。
「はじめまして。4月から事業部に異動になりました、神崎政人です。社内ではマーシーと呼ばれてます」
右手を出す動作も自然だ。
男の手など気持ち悪くて、いつもだったら差し出されても握らないのだが、わたしも自然と手を差し出す。
英語を公用語とする我が社では、呼び方もニックネームになることが多い。マーシーという呼び名もそのためだろう。
「はじめまして。名取です。みんなからは、ヨーコて呼ばれてます」
マーシーの手には、今までの男に感じたことのない滑らかさと柔らかさを感じた。マーシーが握った手を緩めると同時に、握手を解き手を下ろす。
一瞬感じた名残惜しさ。
私の微笑に応じるように、彼も愛想のいい笑顔を返した。
「よろしくお願いします、名取さん」
言われてまた笑いそうになった。
無難といえば無難な、好青年然とした笑顔と態度。親近感を抱かせる立ち居振る舞いでありながら、呼び名は必ずセカンドネーム、ということか。
(この容姿やからなぁ……)
さぞいろんな人間が寄って来ることだろう。
予防線を張ろうという意図は、わかる気がした。
「よろしゅう、マーシー」
いつもの愛想笑いはどこへやら。
わたしの口端は自然と引き上がった。
マーシーも、にこりと人好きのする笑顔を返した。
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