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.第5章 ふたりのこれから

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 社長室に行けと、光治に指定されたのは三日後の昼休みだった。
 わずかでも、準備期間を設けてくれたのは光治の思いやりなのかもしれない。
 ――決意が必要だ、と菜摘は思った。

 社長がどういう考えで、嵐志を連れ回しているのかは分からない。
 けれど、場合によっては――菜摘の存在が嵐志の脚を引っ張ってしまうのなら、菜摘はきちんと、決断しなければいけない。
 嵐志のために。
 ――嵐志さんの。
 菜摘は嵐志と過ごした、長いとは言えない時間を思い出していた。
 甘く細められた目。情熱的な口づけ。余すところなく菜摘の身体を愛でた手、触れ合った肌――
 すべてが愛おしくて、切なくて、菜摘の身体を疼かせる。
 それでも、覚悟しなければいけない。
 社長の返事によっては、自分から嵐志と別れる覚悟を――

 そしてその日。
 自分でも呆れるほど前夜に泣いた菜摘は、目をタオルで冷やし、昼休みの鐘を聞いてデスクから立ち上がった。
 社長室はワンフロア上にある。階段に出た菜摘は、外に出る社員に逆行するように、一段一段、上階へ近づいた。
 脚が重く感じたのは、ここ最近の疲れのせいか、これから話す内容のせいか分からない。
 けれど――自分は嵐志のために行動すると決めたのだ。

 社長室の横には、ガラス張りの秘書室がある。翠が菜摘に気づいて、微笑んで手を挙げた。近づいて来ると、心配そうに顔を覗き込まれる。

「菜摘ちゃん、大丈夫? すっかりやつれちゃって」
「大丈夫……です」

 菜摘はどうにか、笑顔を取りつくろった。
 やつれて見えても構わない。けれど、泣いたことはバレてほしくなかった。
 翠に気づかれたら、自分を保っていられないような気がして。
 翠はいつも通り明るい表情で菜摘の肩を叩いた。

「社長、久々に話せるって楽しみにしてたよ。ほんとに菜摘ちゃんのことかわいがってるんだね。お昼、まだ食べてないでしょ? お弁当も用意してたから楽しみにね」

 菜摘はあいまいに答えて、翠の後ろに続いた。
 ドアを開けると、「ああ、なっちゃん」と嬉しそうな声がする。
 菜摘の悲痛な覚悟など知らず、青柳のおじさん――社長が来客対応用のソファに座っている。
 翠が離していたとおり、机の上には仕出し弁当が二つ置いてあった。

「これ、最近見つけたお店のお弁当なんだよ。一緒に食べよう」

 促されて座ると、翠は部屋の外で軽く一礼してドアを閉じた。
 いつもの軽口が嘘のような神妙な仕草は、十年来社長秘書をやっているだけある。
 「ほら、座って、座って」と前のソファを示されて、菜摘は慎重に腰掛けた。

「はい、これなっちゃんの分」

 押し出された弁当に、軽く首を振って返す。
 社長は目を丸くして、不思議そうにまばたきした。

「どうかした? 食べるのが大好きななっちゃんなのに――もしかして、ちょっと痩せた? も、もしかして、ダイエットなんかしちゃってたりしないよね!?」

 勝手にうろたえる社長を前に、菜摘は否定も肯定もせず、うつむきがちに座ったままだ。
 なっちゃん、と呼ばれて、膝の上の手を軽く拳にした。
 静かに息を吸い、顔を上げる。

「おじさん、正直に答えて。――どうして最近、神南課長を連れ回してるの?」

 はっ――と、社長が息を飲んだのが分かった。じっと菜摘を見つめた目が、ふっと細められる。

「ああ、そう……誰かに聞いたんだね。うん、そうなんだ。神南くんにはここ最近、僕についてきてもらっていてね。鞄持ちっていうとなんだかエラそうな感じするけど、一種の社会勉強というか。ああでも、別になっちゃんのことが関係しているわけじゃないよ。神南くんは将来有望な社員だし、光治もお世話になってる。僕はたまたま、父からこの会社を継いだけど、光治がそうすべきかどうかは、正直まだ考えているところだからね。有望な若手に、早い内から経営者としての視点を学んでもらおうと、そういう意図なんだ。会社の今後のためにも、彼の今後のためにも、有益だと思ってね」

 にこにこしながらぺらぺらと、社長はそう説明した。
 ただ黙って聞いていた菜摘は、静かに目を半ば伏せる。
 無表情なまま「おじさん」と呼ぶと、社長はぱちぱちとまばたきした。

「――適当なこと、言ってるでしょう」
「えっ?」

 ズバリと切り込めば、社長はとたんにうろたえた。「い、いや、そんなこと」と取りつくろおうとするが、菜摘は許さない。「知らなかった?」と静かに続けた。

「おじさん、適当なことを言うときはテキパキした口調になるんだよ。本当のことを言うときには語尾が伸びるの。自分で気づいてなかった?」

 ついでに、今は全く、語尾が伸びる調子はなかった。
 言い訳は許さないと目に力を込めて、菜摘は社長を見つめる。

「それで……本音は?」

 珍しく鋭い菜摘の視線を受けて、社長は口を開きかけ、目を泳がせた。
 かと思えば、子どものように唇を尖らせて横を向く。

「――だってだって! なっちゃんが決めた相手に、花苗かなえさんは文句なんて言えないでしょー? だったら、僕が確かめなくちゃって思ったんだよぉ! そりゃ、部下としての神南くんは優秀だよぉ。イケメンだし、取引先でも評判いいし、社内でも好かれてるし……」

 どこに行っても女性に声かけられてるし、しかも本人は適当にあしらってるし――等々、もう僻みとしか聞こえない言葉をしばらく続けた後、社長は菜摘に向き直った。

「いや、別にこれは妬みでもなんでもなくてだねぇ。僕はただ、彼がひとりの男として、なっちゃんに相応しいのかどうかを、花苗さんの代わりにきちんと、き、ち、ん、と、見極めようと思ったんだよー」
「そんなの誰も頼んで――」

 菜摘の声を遮ったのは、ドアをノックする音だった。二人ではっと顔を見合わせ、社長は慌てて、机の上の弁当二つを抱えて菜摘の手を引く。

「な、なっちゃんはこっち!」
「え、えぇっ?」

 戸惑いはしたが、いまいち休息の取れていない菜摘はいつもに増して動きが鈍い。社長の手を振り払うこともできず、社長席の横、ついたての裏に押し込まれた。
 社長は弁当を机の影になるスツールに置き、椅子に座って何事もなかったかのように手を組んだ。

「どうぞ」

 突然、社長然とした表情に戻ったおじさんに、菜摘は思わず呆れた。
 けれどそれも一瞬のことだ。失礼します、という声を聞いた瞬間、菜摘の頭は真っ白になった。
 ――うそ。なんで?
 思わず口から漏れそうになった声を、慌てて手で覆って押さえる。
 ――今日は、私が社長と話す時間を作ってくれたんじゃ――。
 光治の言葉を思い出している間にも、コツ、と靴音を響かせて、中に入ってくる気配がする。

「神南くん」

 社長がまっすぐに、入って来た社員を見つめた。
 焦がれた人の気配に、菜摘は思わず息を止めて胸を押さえる。
 心臓がざわめき始めていた。

「いやー、ずいぶん長いことつき合わせて悪かったね」
「いえ。何かと勉強になりました」
「そうかな。それならよかった」

 淡々と進む会話のうちにも、菜摘の心臓の鼓動は段々と強く、激しくなる。
 久々に聞く嵐志の声。
 耳にするだけで、彼の身につけたコロンの香りが漂ってくる気がした。
 身体が熱くなってきて、膝が震える。
 叶うことならすぐにでも、その腕の中に飛び込みたい――けれど、そんなことができるわけもない。
 菜摘は手で口を覆ったまま、息を潜めていた。
 社長は、ついたての横に菜摘がいるとは気づかせない態度で話し続けている。

「ところで、神南くん」
「はい」
「君……見合いをする気はないか」
「……は?」

 嵐志の声と菜摘の声が、ほとんど重なりそうになって、慌てて飲み込んだ。
 ――ちょ、ちょっと、おじさん!?
 別れる覚悟――どころか、想定外の話だ。菜摘は赤くなったり青くなったり忙しく、頭がついていかない。

「取引先のご令嬢だよ。いつも受付でやりとりしているんだって? 君より二つ年下の二十八歳。君のことを気に入ったらしいんだ」

 嵐志の反応を気にせず、社長は軽くうなずきながら話した。 

「決めた人がいないなら、ぜひにと話があったんだ。今後の我が社のことを考えても、君の今後を考えても、繋がっておくのは悪い話じゃない。そうだろう?」

 にこにこと話すその横顔からは、昔からよく知る菜摘にも本心が全く、まっったく分からない。
 ――これが社長としてのおじさんなのか。
 さすがといえばさすがだが、こんな形で知りたくなかった。この状況では感心する余裕もない。

「いや、もちろん、君がなっちゃ――原田さんと恋人なのは知っているよぉ。けれど、それはそれ、これはこれ、でしょう?」

 ――どれがどれよ!
 菜摘は両手で顔を覆って、心の中でそう叫ぶ。
 神南くん、とまた社長が呼んだ。

「君は、将来を――配偶者のことを、どう考えてる?」

 ――なんてこと!
 この流れでは、菜摘と取引先のご令嬢、どちらかと結婚しろと言っているようなものだ。
 あまりといえばあまりのことに、頭がぐらぐらして両手で顔を覆う。
 こんなこと、菜摘は望んでいない。こんな形で結婚しようと言われたって、菜摘は喜ぶことなんてできない。

「――それは」
「待っ――!」

 嵐志の声がした。聞きたくない、言わせたくないーー
 想いが先走って身体が動いだとたん、菜摘の視界が揺らぐ。
 足がもつれて、パーティションの前に倒れ込んだ。
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