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.第3章 食べられ方のお作法

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 な、な、な、な、な……何だったんだろう……!

 会議室から去る嵐志の背中を見届けた後、菜摘は崩れ落ちるように床に座り込んだ。
 顔が、熱い。熱くて沸騰しそうだ。
 少しでも冷まそうと両手で覆い、息を吐き出す。
 他の男に見せるな、と嵐志が言った菜摘の顔は、相当みっともなく弛んでいるのだろう。
 自分をまっすぐに見つめたアーモンド型の目を思い出し、ひとり息苦しさに胸を押さえた。
 かっこいい、とは思っていた。出会ったときから。
 色っぽい、とも思っていた。見かけるたびに。
 ――けれど。

「はぁあああ……」

 絞り出すように吐息をついて、椅子の座面につっぷす。
 色っぽい、なんてもんじゃない。
 「そのつもり」になった嵐志の色気が、あんなにすさまじいとは。
 もういっそ、凶器だ。見つめられた女を一瞬で雌にしてしまう凶器。
 熱を帯びた瞳を思い出してまた身震いする。
 腕の中で口づけられたあの時間。
 会社でそのまま抱かれてしまうのではと――いや、正直に言えばいっそ抱いてほしいとすら思った、濃厚な数十分。
 ふと寄せた膝の内側、スカートの奥がひんやりしているのを感じて眉を寄せる。
 濡れている。
 ……キスだけで。

「ううう……」

 恥ずかしさに顔をおさえて身もだえた。
 あーもう、嫌だなぁ。ひとりで思い出して濡れちゃいそう。
 でも、初めての夜に抱いた違和感が正しかったことは、証明されたということだ。
 なんだか、物足りない、という感想。
 ――やっぱり、あの夜は、遠慮していたんだ。
 穏やかで紳士的だったあの一夜が嘘だったかのように、欲情を剥き出しにした嵐志の目を思い出す。
 視線ですら、自分を犯そうとしているかのようだった。
 またじわりと身体が熱を帯びて、自分の身体を抱きしめる。
 ――次のときこそ、君をちゃんと抱かせて。
 ちゃんと。
 ちゃんと、だ。
 きっと嵐志にとって、初めての夜はカウント外なのだろう。
 次のときこそ、あの熱を帯びた視線を全身に受け止めて、彼に抱かれることになるんだろう。
 全身に――
 うっ、とうめいて、菜摘はまた顔を押さえた。

「あー、もー、きゃー、わー、わーわー」

 早くデスクに戻らなくちゃいけないのに!
 こうも身体中に熱が灯ってはどうしようもない。
 菜摘はわたわたとひとりうろたえていた。

 *** 

 少し気分が落ち着いたところで、菜摘は速やかに会議室を抜け出した。
 廊下にひと気がないのを確認して、素早くトイレへ滑り込む。任務中のスパイのような気分だ。
 会議室を出る前、窓に映った姿を見て身だしなみを整えたつもりだが、それだけでは不安だった。嵐志に釘を刺された手前もあって、一度、鏡で確認してからデスクに戻りたい。
 トイレに入ってすぐにある全身鏡を見てほっとする。妙なところはなさそうだ。
 洗面台の方へ向かったところで、手を洗っている翠とばったり対面した。

「あら。お疲れさま」
「お……つかれ……さまです……」

 気まずい。
 嵐志に気を取られていて忘れかけていたが、翠からはあの夜、逃げるように去ったままだ。
 自分に自信がなくて、同僚として食事をしただけなのであろう二人の姿に、冷静に向き合うことができなかった。
 思い出すと途端に気恥ずかしさがこみ上げる。
 穴があったら入りたい。
 ――けれど、謝らなくてはいけないのは、嵐志だけではない。翠に対してもだ。
 そう気づくや、ぺこり、と勢いよく頭を下げた。

「すっ、すみませんでしたっ」
「え?」

 翠は目を丸くしてまばたきした。きれいにカールのかかったまつげが揺れる。
 菜摘はその目を見つめる勇気もなく、うつむきがちに続けた。

「あのっ、あの夜は、ちゃんとご挨拶もせずに行ってしまって、ほんとにすみませんでした。その……神南さんとなかなか会えなくて、そんな中でお二人の噂を聞いたりして……や、ヤキモチを妬いて……」

 説明すればするほど、自分の幼稚さを痛感する。
 菜摘の声がだんだん小さくなっていく一方、翠は不思議そうに首を傾げた。

「……噂?」
「あっ……その……お二人が……つ、つき合ってる、とかっていう……」

 それを聞くや、翠はぶはっと噴き出して、けらけら笑い始めた。

「やっだー、なに、その噂」

 予想外の反応に、菜摘は思わずぽかんとする。
 翠は笑いながら続けた。

「私と、嵐志くんが? ないない、ないよー。あの人、私のこと女だと思ってないし。私もあの人のこと、男だと思ってないし」
「えっ……えっ? そ、そうなんですか?」

 菜摘から見れば、二人とも色気の塊のような存在なのに。と、力説しかけて自重した。
 色気の塊には色気の塊の事情があるんだろう、きっと。
 菜摘が自分で自分を納得させていると、翠はふふっと笑顔を向けて来る。

「大丈夫。逃げられちゃったなーとは思ったけど、気にしてないよ。こちらこそ、無神経でごめんね」

 菜摘を気遣うように、眉尻を下げて両手を合わせてくれる。
 想像通り、めちゃくちゃいい人のようだ。
 菜摘はほっとした。
 翠はふと思い出したように、菜摘の顔を覗き込んだ。

「そういえば、あの後、嵐志くんと会う時間あった?」
「え? あ、ええと……」

 ついさっき、会いました――と、サラッと言うには結構に濃厚な逢瀬だったので、つい戸惑っていると、

「明日からまた、しばらく出張続きになるでしょ」
「そ、そうなんですか……?」

 嵐志からは聞かなかったことに困惑する。
 じゃあ、嵐志の言った「次」は、まだいつになるのか分からないのか。
 安心したような寂しいような、複雑な気分でうつむくと、翠は心配するように続けた。

「話せてないなら、私から声かけといてあげようか? 今会議中だと思うから、終わるタイミングで……」
「あっ、え、えっと、だ、大丈夫、です!」

 話、はほとんどできていないけれど、逢瀬は一応、できたのだ。
 思い出すなり火照る身体をごまかそうと、軽く脚を踏み代えた。
 その奥に逢瀬の名残りを感じて、菜摘はひとり、勝手にうろたえる。
 事情を知らない翠は「そう?」と首を傾げた。
 菜摘はこくこく、小刻みにうなずきながら、またしても嵐志のセリフを思い出していた。
 ――次のときには、ちゃんと抱かせて。
 その「次」は、どれくらい先になるか分からないのか。
 んん?
 と、いうことは、もしかして――
 「ちゃんと」ということは、こちらも準備万端でお迎えしなくてはいけないのでは……!?
 菜摘は突然、頭が冷えていくのを感じた。
 そうだ――嵐志の本気の受け止めるためには、相応の準備が必要なはずだ。
 嵐志はそういうつもりで、あのセリフを言い残したのでは。
 ただでさえ、菜摘よりも経験豊富な嵐志のこと。
 何の準備もなくその日を待つのは、トレーニングもなくアスリートに試合を申し込むような、丸腰でスナイパーに銃撃戦を申し込むようなものに違いない。
 けれど――
 準備といったって、どうするべき? 何をしておけばいいんだろう?
 ぐるんぐるん思考がめぐって、目が泳いだ。
 ダイエット? 脱毛? スキンケア? 美容院?
 そういえば、この前新調していた下着は、嵐志の好みに合ったのだろうか。
 今度はもっとセクシーな、黒とか…赤とか? にした方がいいのだろうか。
 形は? 紐のとか? Tバックのとか?
 急に体型を変えるのは無理だし、色気を身につけるのも難しい。
 なら、そういう方法で色気を演出するべきなのかもしれない。
 光治に相談してみようか……ああ、駄目だ。光治も忙しいんだった。
 直属の部下なのだから当然といえば当然だが。
 ――ああもう。ここぞというときに使えないんだから。
 自分勝手と分かっていながら、内心地団駄を踏む。

「原田さん……?」

 突然黙り込んだ菜摘の顔を、翠が不思議そうに覗き込んできた。
 菜摘ははっと顔を上げる。
 すらりと長く、白い首。美しい鎖骨を引き立てる華奢なネックレス。シャツの襟ぐりから伺える豊かな胸。ネイルを施した指先――
 女版・色気の塊。
 ――頼れる人はここにいた!
 がばっ、と音がしそうな勢いで、菜摘は翠の手を取った。

「ゆっ、百合岡さんっ」
「は、はいっ?」
「で、弟子にしてください!」

 じっとその目を見つめれば、翠は目をまたたかせる。

「……はぁ?」

 キョトンとしている翠に、菜摘は慌てて補足した。

「あの、その、私と神南さんじゃ、色気の格に差がありすぎて。もっとこう、私も百合岡さんみたいに、オトナな色気を備えたいと思ってですねっ、ぜひ、ぜひ百合岡さんの弟子にっ……!」

 鍛えてどうにかなるものなのか、自分でもよく分からないが必死で説明する。
 しばらく首を傾げていた翠は、「ああ」と合点したようにうなずいた。

「つまり……嵐志くんに次に会う時までに、女を磨いておきたいってわけね?」

 菜摘のつたない説明を、なんとも一般的に最適化してくれるものである。
 「そ、そうです!」とうなずくと、翠は「任せて」とウインクした。

「実はね。ちょうど、行きつけの美容師さんがサロンを開いたところなの。エステもやってくれるんだけど、友達を連れて行くと特別価格になるんだ。今度、一緒にどうかしら?」
「え、エステ!?」

 行ったことある? と聞かれてブンブン首を横に振った。エステなどごく一部のセレブが行くところなのだと思っていたが、菜摘なぞが行ってもいいものなのだろうか。

「よし。それじゃ、予約しとくよ。そうだなぁ……来週末か、その次の週辺り、予定どう?」
「だ、大丈夫です! ありがとうございます! ありがとうございます!!」

 話が早くて大変助かる人だ。社長秘書の有能さを痛感しながら、菜摘はぎゅうと、その手を握りしめた。
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