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.第2章 猫かぶり紳士の苦悩

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 夢の中で、嵐志は菜摘との記憶を遡っていた。

 総務にかわいい子が入った、と嵐志が噂に聞いたのは、約三年前のこと。
 嵐志が思い出したのは、半年ほど前、社内で会った就活生らしい女の子のことだった。
 たぶん説明会に来たのであろうその子を、エレベーターの中で嵐志が庇った。  
 満員のエレベーターは電車と同じく、小柄な人には息苦しくなる。自分の胸までしかない頭に気づいて、咄嗟に腕を伸ばしたのだった。
 ふわふわの髪だけが記憶に残っていた。
 髪だけしか覚えていないのは、あまり顔を見ないようにしていたからでもあるが、髪が袖のボタンに絡まったからだ。
 リスのしっぽのような髪だった――思い出して、思わず笑みが浮かんだ。
 顔を見なかったことを惜しく思ったが、入社したならどこかで会えるかもしれないと、淡い期待を抱いていた。
 前年に手痛いフラれ方をして恋愛に懲りていた嵐志は、他の社員の噂をただ聞き流していた。
 総務の「かわいい子」は原田菜摘というらしい。
 別に知りたくもないことも、他の社員の話で自然と耳に入ってくる。
 わざわざ見に行く社員の気が知れないと呆れていた嵐志は、総務に用ができると他の社員に機会を譲った。
 幸い、行きたがる社員は多かった。
 帰ってくると「今日はレモン色のワンピースでしたよ」とか「今日は珍しくパンツスタイルで」とか、勝手に話をしていく。
 総務は半数が女子なのに、どうしてそうも話が集中するのかと思えば、「小動物みたいでかわいい」と女子社員からも人気があるらしい。
 机の上には餌付けするかのようにコンビニおやつが絶えないと聞いて、何やってんだと呆れていた。
 そんな中、久々に会った社長から、同じく原田菜摘の名前を聞いた。
 ――いい子だから気にかけてやってくれ。
 そう言われて、「かわいい子」にますます興味が失せた。
 ――なるほど、社長の身内か。
 コネで入社するような女はどうせ大したことはないだろう。
 他の社員の話で、ごくわずかに膨み始めていた関心はまたしても萎んだ。
 社内の女子から紳士と言われる嵐志だが、実際のところはそうでもない。
 優秀な兄を年子に持ち、いつも比べられてきた。才能にも機会にも恵まれた兄とは違い、嵐志は自分で掴み取るしかなかった。
 恵まれた環境でぬくぬく生きているだけの人間を、嵐志は好きになれない。
 秘書の百合岡翠と仲がいいのは、だからだろうと思う。お互い、飢えている者同士だ。認められることに。求められることに。
 だから、ときにはプライベートなど犠牲にしてでも、仕事に精力を費やす。
 自分が生きている証を、一つでも多く残したい。
 そんな焦燥のような感覚が、常にある。

 総務にリスのしっぽが揺れていると気づいたのは社長の話の後だった。
 自分が「かわいい」と思った子が「コネ入社の女」だと分かって、嵐志は一層距離を置いた。
 オフィスですれ違ったとき、挨拶をされれば返す。
 視線すら合わせないように努め、意図してそれだけの関係を維持した。

 それが崩れたのは、後輩にもう一人のコネ社員、社長の息子の青柳光治が入ってきたからだろう。
 どうせいけすかない奴だろう、と思っていた光治は、思ったよりも面白い奴だった。
 嵐志のアドバイスを素直に聞き、次に活かす。トライアンドエラーを恐れず、報連相を忘れない。
 父親である社長との距離感も面白かった。人がよさそうに見えてあまりヒントを与えない社長に、正面きって反抗するほど馬鹿ではないけれど、食らいついて盗めるものは盗もうとするハングリーさもある。
 それも一つの父子の姿かと、その真っ直ぐな目にほだされた。
 そして遅ればせながら、幼なじみだという原田菜摘にも興味が湧いてきたのだ。
 社長の采配で、その息子への指導役を任された嵐志と光治は自然、一緒に行動する時間が多い。
 出張や食事のときに聞く光治の話には、たびたび幼なじみの女の子が出てきた。

「幼なじみの女なんですけど、食いしん坊の癖に胃が小さくて。俺は残飯処理係っつーか……」

 光治が思い出したように話すその女の子の話は、ときにはおとぼけで、ときには賢く、ときには可愛らしくて、とにかく、愛嬌があった。
 その幼なじみが原田菜摘なのだと、気づいたのは比較的早い段階で。
 偶然にも新年会で菜摘と隣席になったとき。
 嵐志はようやく、挨拶以外の会話を交わす気になっていた。

「うわぁ、美味しそう」

 並んだ食事を前に目を輝かせた横顔は、すぐに真剣な眼差しに変わった。
 最初の喜びの声に似合わない神妙さに、嵐志は首を傾げた。

「どうかした?」
「あっ、えっと、私たくさん食べられなくて。中途半端に手をつけたらみっともないので、どれを食べるか選ばなきゃ」

 少し緊張していたのか、菜摘はそんなことを早口で言った。
 ああ、やっぱりこの子だったかと、嵐志は光治の話を思い出して微笑んだ。

「好きなように食べればいいよ。残ったら俺がもらうから」
「えっ、でも、申し訳ないです、残り物を食べさせるなんて!」
「いいから。図体がデカイから、それなりに燃費がかかるんだ」

 そう言うと菜摘は笑った。少女のような晴れやかな笑いに、自然と嵐志の頬も弛んだ。
 話している間も、垂れがちな丸い目はくるくると表情を変え、ころころとよく笑う。
 その度にふわんふわんと揺れるポニーテールが、まるで捕まえてみろと言わんばかりに嵐志を惹きつけた。
 そこで初めて、嵐志は気づいた。
 今まで彼女との関わりを避けてきたのは、たぶん、自分でもなんとなく分かっていたからだと。
 ――一度話したら、否応なく彼女に惹かれる、ということに。

 それからは、社内で会えば、挨拶だけでなく短い会話も交わすようになった。
 菜摘はいつも頬を赤らめ、キラキラした目で嵐志を見上げた。
 バレンタインデーの予定がない、という話になったとき、嵐志から提案した。

「じゃあ、俺と出かけてみるのはどう?」

 そのときの菜摘の驚いた顔がまた。
 まん丸くなった目と、ぽかんと開いた口と段々とほころんでいく頬があまりに可愛すぎて、しばらく嵐志はニヤケが止まらなかったくらいだ。

 そうして出かけた二月十四日。
 菜摘は手作りのチョコレートケーキを嵐志に渡してくれた。
 告白は、緊張しすぎて正直何を言っているか分からなかったけれど、気持ちはちゃんと伝わった。
 真っ赤な顔と泣きそうな目。ぷるぷる震える姿が嵐志の心を掴んで、抱きしめたいのを堪え、頬に手を伸ばした。

「嬉しいよ。……じゃあ、俺からも、いい?」

 そう聞いて渡したのは、バラのプリザーブドフラワー。
 そんな気障なことをしたのは産まれて初めてだったけれど、菜摘の喜ぶ顔を見て、恥ずかしさなどどこかへ行ってしまった。

 彼女が望む通りの恋人でいてあげたい。
 できるだけ長く、側にいたいから。
 それなのに……
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