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.第1章 煩悩まみれの願望

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 違和感は次のときに確かめよう。
 そう思った菜摘に、「次」の機会はなかなか訪れなかった。
 嵐志たちのいる営業部が、トラブル対応でいつも以上に忙しくなってしまったからだ。
 菜摘たちの勤め先は、企業向け衛生用品の販売・レンタルを中心に展開している。工場は持っていないものの、その中には自社製品も含まれており、クリーニングなどのメンテナンスも請け負っている。
 トラブルは、販売した自社製品に不具合があった、という連絡から始まった。
 実際に確認してみれば、それは自社製品ではなく、委託販売をしている品物だった。とはいえ、販売した責任はわが社にもある。メーカーに問い合わせる一方、営業総出で同時期に販売した品物を総ざらいして確認し、必要に応じて訪問、回収・交換の上、詫びを入れることになった。
 そんなわけで、デートの約束は一度、二度と流れ、あっという間に二週間が経とうとしていた。
 一度ならず二度、自分の誘いが断られてしまったので、菜摘もさすがにめげかけている。
 仕事のせいとわかっているのだが、タイミングが悪かった。
 ――もしかしたら、あの一度で飽きられてしまったのでは。
 そう不安を感じ始めたのだ。
 初めてベッドを共にしたあの日。
 遠慮しているように感じた嵐志の抱き方は、もしかしたらもっと違う理由があったのではないか。
 つまり――あの夜、嵐志は菜摘に冷める要素を見つけてしまったのではないか。それでも無理をして、お情けをかけてくれたから、熱量を感じない抱き方だったのでは。
 考えすぎだと思おうとしても、タイミングがタイミングなだけに冷静ではいられない。
 当人に確認できればいいのだけれど、その時間もない。
 それに、直接ダメ出しをされるくらいなら、このままフェードアウトの方が傷つかずに済むのかもしれない。
 そうして、忙しそうな営業部の様子を耳にしては、複雑な気分で日々を重ねていた。
 そして、そんなときに限って、前までは聞き流せていた噂も自然と耳に入ってくる。

「こないだ百合岡さんと神南さんが一緒にいたの見ちゃった」
「あの二人って絵になるよねぇ」
「つき合ってるってホント?」
「だとしたら推せる!」

 菜摘と同じ総務の女子たちが、「ね、原田さんもそう思うでしょ?」と聞いてくる。
 嵐志と会話する前の菜摘なら、大いに賛同して盛り上がったところだろう。
 けれど今は、うなずくことも首を振ることもできず、曖昧に笑ってただ泣きたくなるのを堪えていた。

 六月になろうという日。
 いつも弁当を持参する菜摘が、外でランチしようと思ったのも、そんな社内の噂話を耳にしたくなかったからだ。
 会社のある大通りから一本、小道に入ったところにあるレストランは、近隣の社員御用達の店。
 そう広くない店内は、すぐに満席になるから、席を取れたらラッキーだ。
 昼休み早々オフィスを出られた菜摘は運良く入れた上、一番人気のある一日十食限定のチーズオムレツを頼むことができた。
 誘われない限りランチに出ることなんてなかったけど、たまにはこういうのもいいな。
 低空飛行だった気持ちも少し上向いた。
 美味しい食事に舌鼓を打っていると、ふと、店に入ってくる人と目が合った。
 軽くウェーブがかかったショートヘア。ビシッと決まったスーツ姿は、遠目からでもスタイルがいいと分かる。
 ――翠だ。
 目が合うなり、向こうも気づいたらしい。にっこり笑って近づいてくる。
 とたんに緊張で心臓が跳ねた。

「こんにちは」
「お、お疲れさまです」

 混んだ店内を見渡して、「相席いい?」と聞かれれば断れない。こくこくうなずいた菜摘に、翠は「ありがと」と笑った。
 あくまで気さくな態度に、菜摘は戸惑う。
 翠は店員にロコモコプレートランチを注文すると、受け取ったおしぼりで手を拭いた。
 悪目立ちしない程度に整えられたピンクベージュのフレンチネイル。その境目にはゴールドのライン。派手すぎず地味すぎず、彼女によく似合っている。

「原田さんとは一度ゆっくり話してみたいなと思ってたんだけど、私から誘うのもどうかと思って。今日は会えてラッキーだな」

 ニコニコしている翠に、悪意めいたものは感じられない。
 菜摘は意味が分からず「はぁ」と曖昧な返事で誤魔化した。
 翠がどうして、菜摘と話してみたいと思うのだろう?
 やっぱり社長から何か聞いたんだろうか、と嫌な予感が過ぎる。光治の幼なじみ。社長が娘のように気にかけている。そんな縁故入社が周囲に知らられば、仕事はやりにくくなるはずだ。
 つい周りに視線を巡らせた。幸い、他に自社の社員はいないらしい。
 菜摘の緊張を知ってか知らずか、翠は運ばれてきたランチに手を合わせた。

「おいしそー。いただきまーす」

 ロコモコを一口、ほおばって、「ん、このソースうま」と目を丸くする。
 それからもしばらく料理の話が続いて、菜摘は困惑した。

「あ、あの……お話、というのは」
「んー?」

 死刑宣告を引き伸ばされているような気分に耐えられず、菜摘は自分から切り出した。
 ロコモコのハンバーグを咀嚼していた翠は目で「待ってね」と菜摘に応え、飲みこむと口の端をきゅっと引き上げた。
 誰の目をも引く魅力的な笑顔だ。

「むふふ。聞いたよー。嵐志くんと付き合ってるんでしょ?」

 予想外の話題に、とくんと心臓が高鳴った。
 菜摘が嵐志とつき合っていることを話したのは光治だけだ。光治はそんなことを周囲に吹聴するタイプではないから、翠に言ったのは嵐志だろうか。
 自分のことを恋人だと、社内の人に言ってくれているだけでも嬉しいのに、その相手が翠だということに半分ほっとした。
 ――それなら、つき合っている、という噂はただの噂なのだろう。
 菜摘は軽く顎を引いた。

「はい、あの……まあ」
「んふふ。実はほら、先月だったかな? トイレでばったり会った日に言いたかったんだけど、あんまり時間もないしやめたんだ」

 初めて嵐志と夜を過ごした日だ。うなずく菜摘に、翠はふふっと笑う。

「最近、営業は忙しいみたいだし、大変でしょ」
「あ、そう……ですね。お仕事、忙しいみたいで……」

 会う時間もないだろう、ということを言われたのだと思った菜摘だったが、違ったらしい。
 翠はカラカラ笑って手を振った。

「そうじゃなくて、アッチのこと。ほら、彼、ストレス溜まると彼女のこと……」

 翠の言葉を遮ったのは、二人の男の声だった。

「翠」
「なつ」

 それぞれ呼ばれて、翠と菜摘は顔を上げる。
 そこには嵐志と光治がいた。
 なぜかふたりとも嫌そうな顔をしている。

「いったいどんな組み合わせだ?」

 光治が翠と菜摘を見比べ、毒づくように呟く。
 十年来、社長秘書を勤める翠は、光治にとって気の置けないお姉さんのような存在らしい。
 一方で嵐志が翠に詰め寄った。

「翠。お前、余計なこと話してないだろうな」
「えー。余計なことって何が?」

 翠はとぼけた風で言う。
 嵐志の背中に、光治が呼びかけた。

「課長。向こうの席空いたらしいっすよ」
「あ、ほんと? じゃー私向こう行くわ~」
「は……は!? なんで俺があんたと相席しなきゃいけないんだよ!」
「そんなつれないこと言わずに。ほらほら行くよ、コージくん」

 これ持って、と翠にプレートを渡されて、光治はもの言いたげな顔で嵐志と翠を見比べる。
 嵐志が菜摘の前に座ったのを見て、諦めたように肩を落とした。

「じゃあね、原田さん。たっぷり愛されて、お幸せに~」
「翠!」

 ヒラヒラ手を振る翠に、嵐志の喝が飛ぶ。
 菜摘は意味が分からずまばたきして、せっかくの嵐志とのランチも上の空だった。
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