マイ・リトル・プリンセス

松丹子

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.4 つまらない大人

20 ふがいない男

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 倒れた女性は一人で住んではって、その日はたまたま、娘さんが仕事帰りに家に寄る予定やったらしい。家に来てみれば親がおらず、不審に思いながら留守番電話を聞いてみたら、病院からのメッセージが入っていて、俺の電話番号を告げられたとのことやった。
 一時間と待たず、一人の女性がかけつけて、何度も俺に頭を下げた。その頃にはおばあちゃんも意識が戻ってたから、俺は二人に拝まれるようにしながら、逃げるようにその場を去った。
 そのままいたら神棚にでも上げられそうやったからな。
 時計を見れば――九時。
 ――まだ、おるやろか。
 駅に向かって走りながら、安堵と焦りが俺を苛む。
 会場は品川。集合時間は六時やった。
 時間的には、どうやろ。解散する直前かもしれへん。直後かもしれへん。今から行けば、ひと目だけでも。ひと声だけでも、会えるかも――
 イトコたちの顔が、順に頭に浮かぶ。
 翔太。悠人。朝子。健人。――礼奈。
 みんなが振り向いて、俺の名を呼び手を振る姿。
 ――ああ、ほんま馬鹿やなぁ、俺は。
 電車に駆け込み、肩で息をしながら、苦い苦い笑みをかみ殺す。
 困った人を放っておけへんのは、俺の性分や。
 いいことをしたった。それはええ。
 でもそれで、自分が大切にしたい人をないがしろにしてもうてんやったら、本末転倒なんやないか?
 ドア横にある鉄の棒を握り締める。ひんやりとした冷たさが、俺のほてりに忠告してくる。
 ――そんなんじゃ、誰も幸せになんてできへんぞ。

 電車の中で地図を確認し、品川に着くと走って店まで向かった。駅近くのビルの中。エスカレーターで地下に向かった。
 建ち並ぶ店からは、宴もたけなわといった騒ぎが聞こえている。悠人が予約してくれたレストランバーに入ると、会計を済ませる客の姿があった。客が出て行くのを待って声をかける。

「すんません、今日、橘で予約してたのはもう――」
「橘様ですか? お待ちください」

 会計を終えた店員は、手元のメモを確認してから、顔を上げた。

「橘様、六名様のご予約でしたね。もう当店を出られたようです」
「ああ――そう――ですか」

 おおきに、と乾いた声で言って、ふらつく足取りで店を出る。
 一日歩き詰めからのダッシュが、膝にこたえていた。
 エスカレーターに乗ると、深々と息を吐き出す。持ち手に添えた左手に寄りかかり、もう一度、ため息。そして、じわっと浮かぶ苦笑。

 ――ほんま、馬っ鹿やなぁ、俺。

 視界がにじんだ、と思うと涙やった。あかん。こんなくだらないことで泣いてたらあかん。
 顔を上げて深呼吸をひとつ。
 視界には、広々とした洗練された空間が広がる。
 賑やかな店の声、帰路につく酔っ払いたち。
 その中で――自分のひとりが身に沁みる。
 エスカレーターで上まで着くと、重い足を一歩、前に運んだ。
 コツン、と革靴が音をたてる。進むたびに、コツン、コツン、と。
 急に、思い出した。スニーカーから革靴に履き替えたときのこと。この音に感じたくすぐったいような喜び。
 それが大人の第一歩であるような。俺の人生がこれから始まるような。
 大人。――大人か。
 野望じみた夢なら、いくつかあったはずやった。
 政人よりもいい仕事して、がぽがぽ稼いだるでー、とか。
 ばあちゃんや母さんにも、あれこれ買ったろー、とか。
 三十までに結婚して、子どもは四人作って、マイホームに住んで……とか。
 どれも達成できないまま、先月にはまた一つ歳を取って――もう、三一やもんなぁ。
 我ながら、くだらない大人になったもんや。
 コツ、コツ……革靴が力なく床を叩く。
 営業用の資料がどっさり入った鞄は、腕にずっしりと重い。
 最初はスマートな鞄を選んで使っとったそれも、あまりに消耗が激しくて、結局丈夫さだけが取り柄の不格好なものに落ち着いた。
 ああはなりたくないわ、と思うて見てた通勤電車のおっさんと同じような鞄。
 スマートに。そうや、政人みたいにかっこいい男になりたかったんやけどなぁ。
 結局、下手くそや。俺なんか、ああはなれんねんな。
 いや、分かってはいたんやけど。ああいう風にはなれへんて、分かってたつもりやけど――でも――あまりに。

「はぁー」

 駅へつながる高架橋で、思わず、足が止まった。白い手すりに背をもたれ、額を押さえる。
 俺はどうしたいんやろ。
 何のために仕事してるんやろ。
 何のために生きとるんやろ。
 ゴールデンウィークに政人が言うたことが脳裏をよぎる。

 人が良くても、ナメられるだけ――

 そうやなぁ。まさにそうや。
 俺なんて、甘々で、飴みたいにナメられまくっとる。
 せやけど――せやけど、仕方ないやん。これが俺やん。こんな俺を、受け止めてくれる人なんて――
 浮かんだのは礼奈の笑顔だった。幼いとばかり思っていた従妹の、大人びた微笑み。
 ――俺をそのまま、受け入れてくれそうな、慈愛の表情。

 ふと苦しくなった呼吸を、胸を押さえてなだめる。

「……幸せになんて、できへんやん」

 手すりに肘をつき、手で顔を覆う。
 いつでも、笑っていて欲しい人。大切にしたい子。一生守っていくと、決めた子。

「俺なんかと一緒におっても……幸せになんて、なれへんよ」

 片手に持った、荷物が重い。肩はがちがちに強張っていて、身体中が疲れにきしんでいる。
 この荷物をここから投げ出せたら、どれだけ身軽になるやろうか。そうできれば、さぞ爽快やろう。
 そう分かっていても、俺にはそれができん。
 ――そんな勇気は、俺にはない。

「……幸せに、してやってくれ……」

 涙が、頬を伝い落ちた。
 三十男が。橋上で。
 恋愛未満の想いを抱えて、泣いとるやなんて。
 あまりにカッコ悪くて……笑いのネタにもならへん。

「礼奈を……笑わせたってくれ……」

 誰にも届かない言葉を呟く。
 見たこともない礼奈の彼氏に向けて。
 俺には、叶えられそうにない願い。

 情けない。
 情けない。
 ――こんなにも、俺は、ふがいない。
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