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.第12章 親と子
339 対峙(1)
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翌朝、起きて隣に栄太兄がいないことに気づくと、私はほぅと息を吐き出した。
夢の中ではずっと栄太兄が私を抱きしめてくれていて、その温もりがとてもリアルだったから、すっかり隣にいるものだと思っていたのだ。
夢の中に出てくるということは、自分の妄想のせいだろう。そう思うとなんだか気恥ずかしくて、顔を覆って息をついた。
ドアの向こうから、人の気配がする。はっとして時計を見ると、もう7時になる頃だった。
わたわたとベッドから降りて、ドアを開ける。キッチンには、ワイシャツとスラックスにエプロン姿の栄太兄がいた。
その背中を見て、胸が疼く。
――幸せすぎて、溶けてしまいそうだ。
見とれていたら、栄太兄が私に気づいて振り向いた。
「ああ、礼奈。おはようさん。眠れたか?」
目を細めて言う栄太兄に、こくりと頷き返して、手をぶらぶらさせながら近づく。
ぎゅうと後ろから抱き着くと、「何や、どうした」と笑われた。
「外行くつもりやったけど、時間あったから作ったで。昨日のご飯残っとるから和食にしたわ。代わりに、病院の前か後に、お茶でもしよ」
「うん……ありがと」
栄太兄の手もとの鍋からは、だし汁の美味しそうな匂いがした。
「朝、ちゃんと作ってるんだね。偉いな」
「いや、いつもは作らへんで」
栄太兄は肩をすくめて答えた。私が見上げると、ぽんぽんと頭を撫でられる。
「誰かおると、作る気にもなるけどな。――一人やと食ったり食わなかったりや」
「……そっか」
私が答えると、栄太兄はにこりと笑った。ふと目を見つめられて、一瞬キスを期待したけど、すぐに目が逸らされてしまった。
「ほら、顔洗って来い。タオル適当に出してええから。飯の準備しとく」
「……ありがと」
「どういたしまして」
にこり、とまた栄太兄は笑う。私もほっとして笑い返す。
なんて優しい朝だろう。毎日、こんな朝が迎えられたらいいのに。
――毎日。
昨日の栄太兄の言葉を思い出して、ぎゅっと胸が苦しくなって、もう一度確認するように背中に抱き着いた。栄太兄が「何やねん、朝から」と笑う。その振動が私の身体を震わせて、苦しいくらいの幸せに浸る。
「……栄太兄」
「おう。もしかして、寝ぼけてんねやな?」
「違うよ」
からかうような声にむすっと答えて、ひと呼吸。栄太兄は器を出そうと手を伸ばして、私の方を振り返った。
「こら、礼奈。準備できへんやん」
「……むぅ」
「むぅ、て。何むくれてんねん」
栄太兄は膨らませた私の頬を突く。次いで、尖らせた唇に温もりが触れた。
「え」
「ほら、早よ顔、洗って来」
まばたきする間に、栄太兄はまた私に背を向けて朝食の準備をする。
私は唇を指で撫でて、「はぁい」と返事を残すと、くるりときびすを返した。
……キス一つでご機嫌になるなんて、ちょっと単純すぎるかな。
そう思いながらも、鏡に映った私の頬はゆるゆるだった。
***
私と栄太兄は、朝食を摂ると祖父がいる病院へ向かった。少し早く着いたので、約束通り、駅前のカフェでお茶をしてから病室へ向かう。
祖父は目を覚ましていて、ベッドを少し起こしていた。
意識も前に会ったときよりはっきりしているみたいだ。私と栄太兄を見るなり、「今日は一緒か」とほっとしたように顔をほころばせた。その言葉に、栄太兄が言っていた祖父の心配を思い出す。私は笑いながら椅子に座り、祖父の手を握った。
「大丈夫だよ、喧嘩したりなんかしてないよ」
「本当か。栄太郎は鈍いからな。言わんと分からんから、イライラするだろう」
「そうだけど、そこは最初から期待してないし」
私がさらりと肯定すると、栄太兄が後ろでがっくりと肩を落とした。
「……諦められとるんかい……」
「うふふふ」
顔を見上げて笑うと、祖父も心底嬉しそうな笑顔になった。
「いいなぁ。今が一番楽しいときだ――いや、そうでもないか――これから、家族が増えて、もっと楽しくなる」
祖父は言いながら、私の手を撫でたり、ぽんぽん叩いたりした。
「お前たちも、これからまだまだ色々あるだろうけど、よぅく力を合わせて、ちゃぁんと話し合って、支え合っていけば大丈夫……大丈夫だからな……おじいちゃんが空から見守っててやる」
何気なく言われて頷きそうになり、慌てて「やだな」と笑った。
「空からじゃなくて、鎌倉から見守っててよ。――まだ、そんなの早い」
「早くない。もう90だぞ。身体の中もボロボロで、風邪一つにも勝てやしない」
淡々と言う祖父の言葉は、確かにそうなのだろうと思えた。熱一つで命に関わる。それが今の祖父の身体なのだと、私たちも思い知っている。
「……でも、もう少し……がんばって。おじいちゃん」
「そうだな。がんばれるといいな。もう少しで――」
祖父の声は、咳に変わった。栄太兄が慌ててその背中をさする。
「水、飲むか。じいちゃん」
「うん、うん――ありがとう」
ストローマグで水を口に含んで、祖父はふぅと息をついた。
「……少し話しただけでこれだ……」
「ゆっくりでええで。また来るから」
栄太兄が声をかけて、優しい目で祖父を見る。
そのとき、カーテンが揺れて、はっと振り向いた。
そこに、ちらりと母の顔が覗く。
「――あ、彩乃さん……」
「あら、栄太郎くんも来てたの」
母は次いで、座っている私にも気づき、うろたえた顔をして祖父へと視線を上げた。
「お義父さん。また後で来ますね。政人さんもいますから」
「ああ、彩乃さん。――忙しいところ悪いね」
頷いた祖父はそう言って、また咳込む。栄太兄がまた水を差し出したけれど手で断り、私を見た。
「……礼奈も、お母さんの話をよく聞きなさい。彩乃さんは立派な人だから、従っておけば間違いない」
「……うん……」
祖父の手が、私の手をぽんぽんと叩く。曖昧に頷いたときにはもう、母の姿は病室から消えていた。
夢の中ではずっと栄太兄が私を抱きしめてくれていて、その温もりがとてもリアルだったから、すっかり隣にいるものだと思っていたのだ。
夢の中に出てくるということは、自分の妄想のせいだろう。そう思うとなんだか気恥ずかしくて、顔を覆って息をついた。
ドアの向こうから、人の気配がする。はっとして時計を見ると、もう7時になる頃だった。
わたわたとベッドから降りて、ドアを開ける。キッチンには、ワイシャツとスラックスにエプロン姿の栄太兄がいた。
その背中を見て、胸が疼く。
――幸せすぎて、溶けてしまいそうだ。
見とれていたら、栄太兄が私に気づいて振り向いた。
「ああ、礼奈。おはようさん。眠れたか?」
目を細めて言う栄太兄に、こくりと頷き返して、手をぶらぶらさせながら近づく。
ぎゅうと後ろから抱き着くと、「何や、どうした」と笑われた。
「外行くつもりやったけど、時間あったから作ったで。昨日のご飯残っとるから和食にしたわ。代わりに、病院の前か後に、お茶でもしよ」
「うん……ありがと」
栄太兄の手もとの鍋からは、だし汁の美味しそうな匂いがした。
「朝、ちゃんと作ってるんだね。偉いな」
「いや、いつもは作らへんで」
栄太兄は肩をすくめて答えた。私が見上げると、ぽんぽんと頭を撫でられる。
「誰かおると、作る気にもなるけどな。――一人やと食ったり食わなかったりや」
「……そっか」
私が答えると、栄太兄はにこりと笑った。ふと目を見つめられて、一瞬キスを期待したけど、すぐに目が逸らされてしまった。
「ほら、顔洗って来い。タオル適当に出してええから。飯の準備しとく」
「……ありがと」
「どういたしまして」
にこり、とまた栄太兄は笑う。私もほっとして笑い返す。
なんて優しい朝だろう。毎日、こんな朝が迎えられたらいいのに。
――毎日。
昨日の栄太兄の言葉を思い出して、ぎゅっと胸が苦しくなって、もう一度確認するように背中に抱き着いた。栄太兄が「何やねん、朝から」と笑う。その振動が私の身体を震わせて、苦しいくらいの幸せに浸る。
「……栄太兄」
「おう。もしかして、寝ぼけてんねやな?」
「違うよ」
からかうような声にむすっと答えて、ひと呼吸。栄太兄は器を出そうと手を伸ばして、私の方を振り返った。
「こら、礼奈。準備できへんやん」
「……むぅ」
「むぅ、て。何むくれてんねん」
栄太兄は膨らませた私の頬を突く。次いで、尖らせた唇に温もりが触れた。
「え」
「ほら、早よ顔、洗って来」
まばたきする間に、栄太兄はまた私に背を向けて朝食の準備をする。
私は唇を指で撫でて、「はぁい」と返事を残すと、くるりときびすを返した。
……キス一つでご機嫌になるなんて、ちょっと単純すぎるかな。
そう思いながらも、鏡に映った私の頬はゆるゆるだった。
***
私と栄太兄は、朝食を摂ると祖父がいる病院へ向かった。少し早く着いたので、約束通り、駅前のカフェでお茶をしてから病室へ向かう。
祖父は目を覚ましていて、ベッドを少し起こしていた。
意識も前に会ったときよりはっきりしているみたいだ。私と栄太兄を見るなり、「今日は一緒か」とほっとしたように顔をほころばせた。その言葉に、栄太兄が言っていた祖父の心配を思い出す。私は笑いながら椅子に座り、祖父の手を握った。
「大丈夫だよ、喧嘩したりなんかしてないよ」
「本当か。栄太郎は鈍いからな。言わんと分からんから、イライラするだろう」
「そうだけど、そこは最初から期待してないし」
私がさらりと肯定すると、栄太兄が後ろでがっくりと肩を落とした。
「……諦められとるんかい……」
「うふふふ」
顔を見上げて笑うと、祖父も心底嬉しそうな笑顔になった。
「いいなぁ。今が一番楽しいときだ――いや、そうでもないか――これから、家族が増えて、もっと楽しくなる」
祖父は言いながら、私の手を撫でたり、ぽんぽん叩いたりした。
「お前たちも、これからまだまだ色々あるだろうけど、よぅく力を合わせて、ちゃぁんと話し合って、支え合っていけば大丈夫……大丈夫だからな……おじいちゃんが空から見守っててやる」
何気なく言われて頷きそうになり、慌てて「やだな」と笑った。
「空からじゃなくて、鎌倉から見守っててよ。――まだ、そんなの早い」
「早くない。もう90だぞ。身体の中もボロボロで、風邪一つにも勝てやしない」
淡々と言う祖父の言葉は、確かにそうなのだろうと思えた。熱一つで命に関わる。それが今の祖父の身体なのだと、私たちも思い知っている。
「……でも、もう少し……がんばって。おじいちゃん」
「そうだな。がんばれるといいな。もう少しで――」
祖父の声は、咳に変わった。栄太兄が慌ててその背中をさする。
「水、飲むか。じいちゃん」
「うん、うん――ありがとう」
ストローマグで水を口に含んで、祖父はふぅと息をついた。
「……少し話しただけでこれだ……」
「ゆっくりでええで。また来るから」
栄太兄が声をかけて、優しい目で祖父を見る。
そのとき、カーテンが揺れて、はっと振り向いた。
そこに、ちらりと母の顔が覗く。
「――あ、彩乃さん……」
「あら、栄太郎くんも来てたの」
母は次いで、座っている私にも気づき、うろたえた顔をして祖父へと視線を上げた。
「お義父さん。また後で来ますね。政人さんもいますから」
「ああ、彩乃さん。――忙しいところ悪いね」
頷いた祖父はそう言って、また咳込む。栄太兄がまた水を差し出したけれど手で断り、私を見た。
「……礼奈も、お母さんの話をよく聞きなさい。彩乃さんは立派な人だから、従っておけば間違いない」
「……うん……」
祖父の手が、私の手をぽんぽんと叩く。曖昧に頷いたときにはもう、母の姿は病室から消えていた。
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