上 下
346 / 368
.第12章 親と子

342 説得

しおりを挟む
 日曜日、栄太兄が我が家に来たのはお昼過ぎだった。
 駅に着いたという連絡があって、居間でそわそわしながら待っていた私は、チャイムが鳴ると同時に玄関へ駆けて行く。
 ドアを開けると、そこにはスーツ姿の栄太兄がいた。

「……栄太兄、スーツ……?」
「そりゃそうやろ。『結婚のご挨拶』に伺うのにパーカーでは来ぃへんわ」

 ドキドキしながら見上げた私に、栄太兄は柔らかく微笑む。私の後ろから階段を降りてくる音がしたと思ったら、「栄太兄、おつー!」と健人兄が手を挙げた。
 栄太兄が呆れた顔で健人兄を見る。

「……お前、何でおんねん」
「えー? いいじゃーん。たまの土日くらい実家でゆっくりさせてよ」

 へらりと笑う兄だけれど、毎週帰ってきているわけじゃない。栄太兄が来ると聞いて帰って来たに違いなかった。

「……お兄ちゃん、邪魔しないでよ」
「邪魔なんてしないよー。あ、そうだそうだ、栄太兄、婚約おめでと!」
「……ほんまお前、人のペースがんがん崩して来るな……」

 栄太兄の呆れ顔に、健人兄が「あっはっは」と笑う。
 そこに、居間から父が顔を出した。

「栄太郎、いらっしゃい」

 父はいつも通りの穏やかさで栄太兄を見つめたけれど、栄太兄はふと表情を引き締めて頭を下げた。

「今日はお時間いただきありがとうございます。お邪魔します」

 思わずまばたきした私は、健人兄と顔を見合わせて栄太兄と父を見比べる。父は笑って「いいから上がれ」と栄太兄の肩を叩いた。

「健人。お前は部屋にいなさい。俺たちは少し話があるから」
「……ふぇーい」

 父に言われて、兄が不承不承頷く。
 「んじゃ、俺上行くね。がんば」と栄太兄の肩を叩くと、トントンと階段を登って行った。
 その背中を見上げて、やれやれとため息をつく。
 そんな私を見て、父が笑った。

「礼奈。ちゃんと案内してやれよ。――あくまで、お前の婚約者なんだから」

 私ははっと背筋を伸ばして、栄太兄と父の顔を見比べる。栄太兄はそんな私を面白がるように目を細めた。

 ***

「――先日は失礼しました。今日は改めてご挨拶に参りました」

 両親と私たちの4人で食卓を囲むと、栄太兄はそう言って静かに頭を下げた。
 母は無言のまま、じっと椅子に座っていて、栄太兄の言葉に頷いたのは父だった。
 栄太兄は下げた頭を上げる。
 膝の上で握った拳が、少しだけ震えているのが見えた。
 両親と、栄太兄と、私――今までだって何度もこの家で一緒に食卓を囲んだことがあるのに、こんなに緊張した空気は初めてだった。それは、栄太兄のことを、甥っ子としてではなくて、娘の婚約者として扱っているからなのだろう。
 私はそわそわしながら、栄太兄の横顔と両親の顔を見比べていた。
 自分は何を言う訳でもないのに、心臓がドキドキと落ち着かない。
 栄太兄が息を吸うのが分かって、私も息を止めた。

「礼奈――娘さんとの結婚をお許しください」

 はっきりと聞こえた栄太兄の台詞が、ずんと腹の底に響く。
 心臓の音が、お腹の下から聞こえてくるような気がした。
 母はじっと黙っている。父も黙って、手元のカップを撫でている。
 父がゆっくりと口を開きかけたとき、母が口を開いた。

「――結婚自体には、反対しません」

 その声は硬かった。まだ母は納得していないのだと、その一言だけで察して、背中がすぅっと冷たくなる。
 思わずうつむく私に構わず、母ははっきりと続けた。

「けど、その時期については……もう少し、待つべきだと思います」

 私はうつむいたまま、膝上の拳を握った。
 唇を引き結び、力をこめる。
 母のため息が聞こえた。

「……おじいちゃんの寿命と、あなたたちの結婚は、話が別よ」

 静かな声で、母は言った。そこには硬さはなくて、母として、叔母としての情が少しだけ混ざっている。
 私は唇を噛み締めた。
 ――そうかもしれない。
 確かに、そうだと思う。
 祖父の死と、私たちの結婚は、関係がない話だ。
 ――けど。

「彩乃さん」

 栄太兄の声が、私の横で静かに切り出す。
 そこでようやく、今までなんとなく目を逸らしていた母が、栄太兄をしっかりと見つめたのが分かった。
 栄太兄はまっすぐに、母を見て口を開く。

「礼奈がどんな仕事に就くかも、どんな生活になるかも、まだ分からない。それが安定してるかどうかも、続けられるかも――それが不安だとおっしゃるのは、もっともです。でも、それが何だって言うんでしょう」

 私は黙って、栄太兄の横顔を見つめていた。
 口下手なはずの従兄がそんな風に話すのを、私は初めて目にした気がして。

「たとえ礼奈が仕事してはっても、同じです。一年後、二年後、十年後、二十年後、いったいどうなってるかなんて分からへんやないですか。俺かてそうです。けど、一つだけ、確かなことがあるとしたら、そのときでも、俺は礼奈と一緒にいます。礼奈は俺と一緒にいてくれます。そんなん、何で断言できるんやって、思わはるでしょうけど、でも、断言できます。俺にとっては、礼奈は――」

 栄太兄は不意に言葉を止めて、視線を机の上に落とした。
 はっとする間に、その目に涙が浮いてくる。

「――礼奈は、俺にとって、誰とも比べられんくらい大事な子です。産まれたときからこのかた、ずっと見守ってきました。それは妹みたいな感情やろうって、ずっと思うてたけど、今はもう違う――誰にも渡しません。誰にも、触れさせたくない。俺が……俺じゃ……」

 頬に涙が滑り落ちた。私も思わず、うつむく。
 こみ上げた涙に耐えられず、口元を手で押さえた。

「俺じゃ、力不足やと思うてはるのかもしれません。俺もときどき、そうやないかとも思います。けど、俺は俺にできる全力で、礼奈と一緒にいます。礼奈を笑わせます。礼奈を――幸せに、します。就職とか、環境とか、そんなん、俺にはどうだってええんです。礼奈が――礼奈に、笑っていて、もらえたら――俺の、傍で――」

 栄太兄の言葉が震えて、鼻をすする音が聞こえる。
 私も両手で顔を覆って、嗚咽をかみ殺していた。

「笑って、俺の傍にいてくれるんなら、他に何もいりません――だから俺は」

 栄太兄が顔を上げたのが分かった。涙で濡れた顔のまま、まっすぐに母を見つめて言う。

「結婚式のことを思い出すたび、礼奈が、じいちゃんに見せられんかった後悔を感じるのは絶対に嫌です――いや、式の日に、心の底から笑ってもらえへんかったら、俺はずっと後悔します――せやから、どうか――どうか、許したってください」

 栄太兄はまた頭を下げた。
 母は何も言わない。
 私は乱暴に手で涙を拭って、「お母さん」と震える声で言った。

「このままじゃ――このまま、おじいちゃんが先に死んじゃったら、私、たぶん一生、お母さんを許せない――」

 一生に一度の日だ。
 親に感謝して、今まで受け取った愛情を糧に、巣立つ日だ。
 それなのに、その日に母のことをうらめしく思うだなんて――そんなの、絶対に――

 私は首を振って、机に手をついた。

「お母さん、お願い――」
「分かってるわよ……」

 目を逸らした母が、小さく呟く。
 私が「え?」と動きを止めると、母が私を睨むように見据えた。
 その目は今にも涙が溢れそうになっていて、頬も目尻も赤い。

「分かってるって言ってるの! 私だって……」

 母は悔しそうに下唇を噛み締めて、流れた涙を手で拭う。
 父が苦笑しながら、そっとティッシュ箱を引き寄せた。

「私だって、そんなこと分かってるわよ! けど、だからって、はいそうですか、なんて甘いこと言えないじゃない! ――あんたが、将来苦しむかも知れないことを!」

 母はそう言い切って、父の引き寄せたティッシュを数枚引き抜き、顔を拭う。

「でも――でも、そこまで言うなら、覚悟してるんでしょう? 覚悟がないとは言わせないんだからね! 就活も卒論も手を抜かないで、全力でやりきりなさいよ! ――分かった!?」

 分かった、と私は頷く。
 母は私をキッと振り返って、はっきりと言い放った。

「いい、礼奈。やるとなったら、後悔するんじゃないわよ! やりたいことは全部やりなさい。お金なら私が出すから――後から文句なんて、絶対に、ぜっったいに、言わせないからね!!」

 びしっ、と指を突き付ける母の顔は、涙でぐしょぐしょだった。
 私は思わず、笑いそうになる。
 悩んで、苦しんでいたのは、私だけじゃない。
 母も、同じくらい悩んで、苦しんでいたんだ――
 そう気づいて、また涙がこみ上げた。

「うん、分かった。――ありがとう、お母さん」

 私は笑って、隣に座る栄太兄を見上げる。栄太兄は少しぽかんとしてから私を見下ろして、頬を緩めた。まだ泣き顔のままの情けない笑顔に、愛おしさがこみ上げて手を伸ばす。

「……栄太兄も、ありがとう」
「お易い御用や」

 膝の上で手を握って微笑み合うと、母の背中を撫でていた父が笑った。

「そう笑ってられるのも今の内だぞ。礼奈、もう体調はいいのか?」
「え? う、うん……」
「そうか、ならよかった」

 父は冗談めいた笑顔で、私と母に目をやった。

「彩乃が本気になったら、休んでる暇なんてないからな。振り落とされないようにがんばれよ」

 私がきょとんとしていると、唇を尖らせた母がふんと鼻を鳴らした。

「当然でしょ。ビシバシ行くわよ」

 私と栄太兄は思わず顔を見合わせる。苦笑した栄太兄が「お手柔らかに……」と言うと、「聞こえませーん」と母がそっぽを向いて、父が笑った。
 机の下で繋いだ手に力をこめる。栄太兄とわずかに目が合って、どちらからともなく笑った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】愛も信頼も壊れて消えた

miniko
恋愛
「悪女だって噂はどうやら本当だったようね」 王女殿下は私の婚約者の腕にベッタリと絡み付き、嘲笑を浮かべながら私を貶めた。 無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。 だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。 婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。 私は彼の事が好きだった。 優しい人だと思っていた。 だけど───。 彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。 ※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。

心の声が聞こえる私は、婚約者から嫌われていることを知っている。

木山楽斗
恋愛
人の心の声が聞こえるカルミアは、婚約者が自分のことを嫌っていることを知っていた。 そんな婚約者といつまでも一緒にいるつもりはない。そう思っていたカルミアは、彼といつか婚約破棄すると決めていた。 ある時、カルミアは婚約者が浮気していることを心の声によって知った。 そこで、カルミアは、友人のロウィードに協力してもらい、浮気の証拠を集めて、婚約者に突きつけたのである。 こうして、カルミアは婚約破棄して、自分を嫌っている婚約者から解放されるのだった。

なりゆきで、君の体を調教中

星野しずく
恋愛
教師を目指す真が、ひょんなことからメイド喫茶で働く現役女子高生の優菜の特異体質を治す羽目に。毎夜行われるマッサージに悶える優菜と、自分の理性と戦う真面目な真の葛藤の日々が続く。やがて二人の心境には、徐々に変化が訪れ…。

選ばれたのは美人の親友

杉本凪咲
恋愛
侯爵令息ルドガーの妻となったエルは、良き妻になろうと奮闘していた。しかし突然にルドガーはエルに離婚を宣言し、あろうことかエルの親友であるレベッカと関係を持った。悔しさと怒りで泣き叫ぶエルだが、最後には離婚を決意して縁を切る。程なくして、そんな彼女に新しい縁談が舞い込んできたが、縁を切ったはずのレベッカが現れる。

裏切りの代償

志波 連
恋愛
伯爵令嬢であるキャンディは婚約者ニックの浮気を知り、婚約解消を願い出るが1年間の再教育を施すというニックの父親の言葉に願いを取り下げ、家出を決行した。 家庭教師という職を得て充実した日々を送るキャンディの前に父親が現れた。 連れ帰られ無理やりニックと結婚させられたキャンディだったが、子供もできてこれも人生だと思い直し、ニックの妻として人生を全うしようとする。 しかしある日ニックが浮気をしていることをしり、我慢の限界を迎えたキャンディは、友人の手を借りながら人生を切り開いていくのだった。 他サイトでも掲載しています。 R15を保険で追加しました。 表紙は写真AC様よりダウンロードしました。

公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-

猫まんじゅう
恋愛
 そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。  無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。  筈だったのです······が? ◆◇◆  「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」  拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?  「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」  溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない? ◆◇◆ 安心保障のR15設定。 描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。 ゆるゆる設定のコメディ要素あり。 つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。 ※妊娠に関する内容を含みます。 【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】 こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)

【完結】烏公爵の後妻〜旦那様は亡き前妻を想い、一生喪に服すらしい〜

七瀬菜々
恋愛
------ウィンターソン公爵の元に嫁ぎなさい。 ある日突然、兄がそう言った。 魔力がなく魔術師にもなれなければ、女というだけで父と同じ医者にもなれないシャロンは『自分にできることは家のためになる結婚をすること』と、日々婚活を頑張っていた。 しかし、表情を作ることが苦手な彼女の婚活はそううまくいくはずも無く…。 そろそろ諦めて修道院にで入ろうかと思っていた矢先、突然にウィンターソン公爵との縁談が持ち上がる。 ウィンターソン公爵といえば、亡き妻エミリアのことが忘れられず、5年間ずっと喪に服したままで有名な男だ。 前妻を今でも愛している公爵は、シャロンに対して予め『自分に愛されないことを受け入れろ』という誓約書を書かせるほどに徹底していた。 これはそんなウィンターソン公爵の後妻シャロンの愛されないはずの結婚の物語である。 ※基本的にちょっと残念な夫婦のお話です

夫の不貞現場を目撃してしまいました

秋月乃衣
恋愛
伯爵夫人ミレーユは、夫との間に子供が授からないまま、閨を共にしなくなって一年。 何故か夫から閨を拒否されてしまっているが、理由が分からない。 そんな時に夜会中の庭園で、夫と未亡人のマデリーンが、情事に耽っている場面を目撃してしまう。 なろう様でも掲載しております。

処理中です...