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.第12章 親と子

342 説得

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 日曜日、栄太兄が我が家に来たのはお昼過ぎだった。
 駅に着いたという連絡があって、居間でそわそわしながら待っていた私は、チャイムが鳴ると同時に玄関へ駆けて行く。
 ドアを開けると、そこにはスーツ姿の栄太兄がいた。

「……栄太兄、スーツ……?」
「そりゃそうやろ。『結婚のご挨拶』に伺うのにパーカーでは来ぃへんわ」

 ドキドキしながら見上げた私に、栄太兄は柔らかく微笑む。私の後ろから階段を降りてくる音がしたと思ったら、「栄太兄、おつー!」と健人兄が手を挙げた。
 栄太兄が呆れた顔で健人兄を見る。

「……お前、何でおんねん」
「えー? いいじゃーん。たまの土日くらい実家でゆっくりさせてよ」

 へらりと笑う兄だけれど、毎週帰ってきているわけじゃない。栄太兄が来ると聞いて帰って来たに違いなかった。

「……お兄ちゃん、邪魔しないでよ」
「邪魔なんてしないよー。あ、そうだそうだ、栄太兄、婚約おめでと!」
「……ほんまお前、人のペースがんがん崩して来るな……」

 栄太兄の呆れ顔に、健人兄が「あっはっは」と笑う。
 そこに、居間から父が顔を出した。

「栄太郎、いらっしゃい」

 父はいつも通りの穏やかさで栄太兄を見つめたけれど、栄太兄はふと表情を引き締めて頭を下げた。

「今日はお時間いただきありがとうございます。お邪魔します」

 思わずまばたきした私は、健人兄と顔を見合わせて栄太兄と父を見比べる。父は笑って「いいから上がれ」と栄太兄の肩を叩いた。

「健人。お前は部屋にいなさい。俺たちは少し話があるから」
「……ふぇーい」

 父に言われて、兄が不承不承頷く。
 「んじゃ、俺上行くね。がんば」と栄太兄の肩を叩くと、トントンと階段を登って行った。
 その背中を見上げて、やれやれとため息をつく。
 そんな私を見て、父が笑った。

「礼奈。ちゃんと案内してやれよ。――あくまで、お前の婚約者なんだから」

 私ははっと背筋を伸ばして、栄太兄と父の顔を見比べる。栄太兄はそんな私を面白がるように目を細めた。

 ***

「――先日は失礼しました。今日は改めてご挨拶に参りました」

 両親と私たちの4人で食卓を囲むと、栄太兄はそう言って静かに頭を下げた。
 母は無言のまま、じっと椅子に座っていて、栄太兄の言葉に頷いたのは父だった。
 栄太兄は下げた頭を上げる。
 膝の上で握った拳が、少しだけ震えているのが見えた。
 両親と、栄太兄と、私――今までだって何度もこの家で一緒に食卓を囲んだことがあるのに、こんなに緊張した空気は初めてだった。それは、栄太兄のことを、甥っ子としてではなくて、娘の婚約者として扱っているからなのだろう。
 私はそわそわしながら、栄太兄の横顔と両親の顔を見比べていた。
 自分は何を言う訳でもないのに、心臓がドキドキと落ち着かない。
 栄太兄が息を吸うのが分かって、私も息を止めた。

「礼奈――娘さんとの結婚をお許しください」

 はっきりと聞こえた栄太兄の台詞が、ずんと腹の底に響く。
 心臓の音が、お腹の下から聞こえてくるような気がした。
 母はじっと黙っている。父も黙って、手元のカップを撫でている。
 父がゆっくりと口を開きかけたとき、母が口を開いた。

「――結婚自体には、反対しません」

 その声は硬かった。まだ母は納得していないのだと、その一言だけで察して、背中がすぅっと冷たくなる。
 思わずうつむく私に構わず、母ははっきりと続けた。

「けど、その時期については……もう少し、待つべきだと思います」

 私はうつむいたまま、膝上の拳を握った。
 唇を引き結び、力をこめる。
 母のため息が聞こえた。

「……おじいちゃんの寿命と、あなたたちの結婚は、話が別よ」

 静かな声で、母は言った。そこには硬さはなくて、母として、叔母としての情が少しだけ混ざっている。
 私は唇を噛み締めた。
 ――そうかもしれない。
 確かに、そうだと思う。
 祖父の死と、私たちの結婚は、関係がない話だ。
 ――けど。

「彩乃さん」

 栄太兄の声が、私の横で静かに切り出す。
 そこでようやく、今までなんとなく目を逸らしていた母が、栄太兄をしっかりと見つめたのが分かった。
 栄太兄はまっすぐに、母を見て口を開く。

「礼奈がどんな仕事に就くかも、どんな生活になるかも、まだ分からない。それが安定してるかどうかも、続けられるかも――それが不安だとおっしゃるのは、もっともです。でも、それが何だって言うんでしょう」

 私は黙って、栄太兄の横顔を見つめていた。
 口下手なはずの従兄がそんな風に話すのを、私は初めて目にした気がして。

「たとえ礼奈が仕事してはっても、同じです。一年後、二年後、十年後、二十年後、いったいどうなってるかなんて分からへんやないですか。俺かてそうです。けど、一つだけ、確かなことがあるとしたら、そのときでも、俺は礼奈と一緒にいます。礼奈は俺と一緒にいてくれます。そんなん、何で断言できるんやって、思わはるでしょうけど、でも、断言できます。俺にとっては、礼奈は――」

 栄太兄は不意に言葉を止めて、視線を机の上に落とした。
 はっとする間に、その目に涙が浮いてくる。

「――礼奈は、俺にとって、誰とも比べられんくらい大事な子です。産まれたときからこのかた、ずっと見守ってきました。それは妹みたいな感情やろうって、ずっと思うてたけど、今はもう違う――誰にも渡しません。誰にも、触れさせたくない。俺が……俺じゃ……」

 頬に涙が滑り落ちた。私も思わず、うつむく。
 こみ上げた涙に耐えられず、口元を手で押さえた。

「俺じゃ、力不足やと思うてはるのかもしれません。俺もときどき、そうやないかとも思います。けど、俺は俺にできる全力で、礼奈と一緒にいます。礼奈を笑わせます。礼奈を――幸せに、します。就職とか、環境とか、そんなん、俺にはどうだってええんです。礼奈が――礼奈に、笑っていて、もらえたら――俺の、傍で――」

 栄太兄の言葉が震えて、鼻をすする音が聞こえる。
 私も両手で顔を覆って、嗚咽をかみ殺していた。

「笑って、俺の傍にいてくれるんなら、他に何もいりません――だから俺は」

 栄太兄が顔を上げたのが分かった。涙で濡れた顔のまま、まっすぐに母を見つめて言う。

「結婚式のことを思い出すたび、礼奈が、じいちゃんに見せられんかった後悔を感じるのは絶対に嫌です――いや、式の日に、心の底から笑ってもらえへんかったら、俺はずっと後悔します――せやから、どうか――どうか、許したってください」

 栄太兄はまた頭を下げた。
 母は何も言わない。
 私は乱暴に手で涙を拭って、「お母さん」と震える声で言った。

「このままじゃ――このまま、おじいちゃんが先に死んじゃったら、私、たぶん一生、お母さんを許せない――」

 一生に一度の日だ。
 親に感謝して、今まで受け取った愛情を糧に、巣立つ日だ。
 それなのに、その日に母のことをうらめしく思うだなんて――そんなの、絶対に――

 私は首を振って、机に手をついた。

「お母さん、お願い――」
「分かってるわよ……」

 目を逸らした母が、小さく呟く。
 私が「え?」と動きを止めると、母が私を睨むように見据えた。
 その目は今にも涙が溢れそうになっていて、頬も目尻も赤い。

「分かってるって言ってるの! 私だって……」

 母は悔しそうに下唇を噛み締めて、流れた涙を手で拭う。
 父が苦笑しながら、そっとティッシュ箱を引き寄せた。

「私だって、そんなこと分かってるわよ! けど、だからって、はいそうですか、なんて甘いこと言えないじゃない! ――あんたが、将来苦しむかも知れないことを!」

 母はそう言い切って、父の引き寄せたティッシュを数枚引き抜き、顔を拭う。

「でも――でも、そこまで言うなら、覚悟してるんでしょう? 覚悟がないとは言わせないんだからね! 就活も卒論も手を抜かないで、全力でやりきりなさいよ! ――分かった!?」

 分かった、と私は頷く。
 母は私をキッと振り返って、はっきりと言い放った。

「いい、礼奈。やるとなったら、後悔するんじゃないわよ! やりたいことは全部やりなさい。お金なら私が出すから――後から文句なんて、絶対に、ぜっったいに、言わせないからね!!」

 びしっ、と指を突き付ける母の顔は、涙でぐしょぐしょだった。
 私は思わず、笑いそうになる。
 悩んで、苦しんでいたのは、私だけじゃない。
 母も、同じくらい悩んで、苦しんでいたんだ――
 そう気づいて、また涙がこみ上げた。

「うん、分かった。――ありがとう、お母さん」

 私は笑って、隣に座る栄太兄を見上げる。栄太兄は少しぽかんとしてから私を見下ろして、頬を緩めた。まだ泣き顔のままの情けない笑顔に、愛おしさがこみ上げて手を伸ばす。

「……栄太兄も、ありがとう」
「お易い御用や」

 膝の上で手を握って微笑み合うと、母の背中を撫でていた父が笑った。

「そう笑ってられるのも今の内だぞ。礼奈、もう体調はいいのか?」
「え? う、うん……」
「そうか、ならよかった」

 父は冗談めいた笑顔で、私と母に目をやった。

「彩乃が本気になったら、休んでる暇なんてないからな。振り落とされないようにがんばれよ」

 私がきょとんとしていると、唇を尖らせた母がふんと鼻を鳴らした。

「当然でしょ。ビシバシ行くわよ」

 私と栄太兄は思わず顔を見合わせる。苦笑した栄太兄が「お手柔らかに……」と言うと、「聞こえませーん」と母がそっぽを向いて、父が笑った。
 机の下で繋いだ手に力をこめる。栄太兄とわずかに目が合って、どちらからともなく笑った。
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