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.第12章 親と子

333 不安(2)

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 その頃、奈良から様子を伺っていた和歌子さんと孝次郎さんが関東にやってきた。
 孝次郎さんは日帰りだったそうだけれど、鎌倉で1泊した和歌子さんは、奈良へ帰る前、わざわざ我が家まで足を伸ばしてくれた。

「栄太郎ってば礼奈ちゃんのこと心配で心配で仕方ないみたい。様子見てきてくれって。自分で来ればいいのにね。私を遣うだなんて、いい身分になったもんだわ」

 そう冗談を言う和歌子さんは、いつも通りの快活な笑みを浮かべていた。
 その日は平日だったから、両親は仕事、悠人兄は勤務明けで、部屋で寝ていた。
 私が和歌子さんに紅茶を出すと、和歌子さんは「ありがと」とにこりと笑ってカップを手にした。すらりと長い指、その薬指に、シンプルなリングが見える。ふとそれを見つめて、おずおずと口を開いた。

「……その指輪は、和歌子さんが選んだんですか?」

 和歌子さんはきょとんとしてから、私の言葉を理解したようにふふっと笑った。

「うん、そうよ。彼に似合いそうなのを買ったの」
「孝次郎さんに?」
「そう。ペアリングだからね」

 頬杖をついた和歌子さんは、手をかざして透かし見るように指輪を見た。いたずらっぽい目をして、「ま、私は何でも似合うから」と笑う。私も微笑んだ。
 けれど、和歌子さんはその質問に何か思い当たったらしい。はっとした顔をして身を乗り出した。

「――もしかして、あれ? 礼奈ちゃん元気ないの、栄太郎が私の指輪そのまま渡したから?」
「え? ち、違います」

 慌てて両手を振るけれど、和歌子さんは困ったような顔をして腕組みをした。

「確かに、もしよければ礼奈ちゃんに、って、指輪は渡したんだけど、まさかそのまま渡すとは思わなかったのよ。――ああ、いや、磨いてはもらったらしいんだけどね。でも、やっぱりほら、女の子にとっては結構大事なイベントじゃない? 形だけって言っても、せめて何か――」
「あ、あの、ほんとに、違うんです」

 つらつらと息子への不服を述べる和歌子さんに、手も首も振ってアピールする。和歌子さんはようやく私の否定に気づいて、「そう?」と首を傾げた。私はこくこく頷く。

「あの、それは、嬉しかったです――だって、和歌子さんは、私の憧れで――だからその、むしろ、ほんとに貰っていいのかなって――二人の、大事な思い出の品だから――」
「やーね。だからこそ、次の世代に繋ぐのよ。大事にタンスにしまっとくより、かわいい子に使ってもらった方が指輪だって喜ぶじゃない?」

 和歌子さんはそう笑う。それを聞いてほっとした。
 「ありがとうございます。大事にします」と頭を下げると、和歌子さんは優しい目で私の目を覗き込んできた。

「――それで? どうかしたの?」

 穏やかな微笑みは、義母でも伯母でもなく、ただの一人の先輩としての表情だった。和歌子さんになら、話していいんじゃないか。本当だったらこんなこと、話すべきではないのかもしれないけど――そう、ためらいながら、少しずつ、自分の気持ちを言葉にしていく。
 高校生のときに聞いた、祖父の台詞。私の気持ち。母の考え――どれも、間違ったものではなくて、当然の想いだと思う。それぞれが、それぞれの立場で、それぞれの幸せを望んでいるのだ。
 ――でも、だからって、黙って母の言うことを聞くべきなんだろうか。
 最後の言葉は口に出せずに、ふっつりと口を閉じる。
 黙って相槌を打っていた和歌子さんは、私の物憂さを気にもしないように、あっさり言った。

「彩乃さんがそう考えるのも当然よ。私だってそう思うもの。性別とか関係なく、ちゃんと自立できる基盤があるかどうかは大事なことよ。そうなると、学生結婚大歓迎、とは言えないわよね」

 私は黙ってうつむく。和歌子さんなら、たぶんそう言うだろう、とどこかで分かっていた。
 母と和歌子さんは似ている。ひとりで生きていけること、についての価値観はたぶん一緒だ。
 黙り込んだ私を気遣う気配もなく、和歌子さんは続けた。
 
「本当に二人で生きて行こうと思うなら、彩乃さんが納得する日まで待った方がいいと思うな。一生の中の4、5年なんて、あっという間のことよ。別に結婚そのものに反対してるわけじゃないんだし――親が望むのは、子どもの幸せなんだから」

 そうかもしれない。
 確かに、そうかもしれない。
 私と栄太兄のことだけなら、それでいいんだと思う。
 ――けどそのとき、祖父が元気でいるかどうかは、誰にも分からない。

 ――栄太郎は、タキシード姿も似合うだろうな。
 ――じいちゃんは、晴れ姿を見られるかなぁ。

 不意にそのときの声音がまざまざとよみがえって、息が詰まった。
 そのとき握った祖父の手の温もり。さらにその上に、朝子ちゃんが手を重ねて励ましたことを思い出す。
 祖父母の家で立ち働いていた従姉は、まるでその家の住人のようだった。――栄太兄と同じく。
 また、ざらついた感情が、胸を撫でていく。
 ――私が、学生じゃなければ。

「もし……相手が……もっと、年上の人だったら……」

 うつむいた先で、手が、震えている。
 喉の奥から、水分がどんどん奪われて行く。
 心臓の音が、頭の中で鳴っている。
 いつか見た、並んで歩く二人の背中。
 スーツ姿の栄太兄と、ロングワンピースの朝子ちゃん――

「おじいちゃんに……見せて……あげられたかも……」

 うつむいた目に、涙が浮いてくる。視界が歪んでいく。
 でも、私はそれを言えない。
 栄太兄には、言えない。
 だって……誰にも、譲りたくないから。
 譲りたくないから――栄太兄の笑顔を――手のひらのぬくもりを――誰にも、朝子ちゃんにだって、譲りたくないから――
 大粒の涙が、頬を滑り落ちて行った。
 私は、ずるい。
 だって、知っているのに。祖父の願いは、私じゃなければ、叶えられるんだって。
 知っているのに、知らないふりをしている。
 ――栄太兄を渡したくなくて、気づかないふりをしている。

 握り締めた拳に、ぽつぽつと涙が落ちる。和歌子さんは一度言葉を失い、そして、慎重に口を開いた。

「それ……もしかして、朝子ちゃんのこと……言ってるの?」

 私は何も言わない。何も言えない。頷いてしまったら、きっと栄太兄にも知れてしまう。――嫌だ。朝子ちゃんに、栄太兄を取られてしまうなんて、嫌だ――
 ぎゅっと目を閉じる。ぼろぼろと涙が、次から次にあふれる。私は、栄太兄のことになると、すぐに涙のダムが決壊してしまう。ぐずぐずと鼻を鳴らす私を、和歌子さんはしばらく見つめていたけれど、しばらくするとやれやれとため息をついた。

「――まったく、あの子ってば、ちゃんと言ってないの?」

 それは、呆れているような声だった。私に、じゃない。栄太兄に。
 涙を拭いながら見上げれば、和歌子さんが苦笑している。

「礼奈ちゃん。確かにあの子は優柔不断だけどね、そういうところでいい加減なことをする子ではないわよ」

 そう言って、呆れたように肩をすくめた。

「栄太郎が、何て言ったのかは分からないけど――今まで会った女の子の中で、礼奈ちゃんだから一緒にいたいと思ったはずよ。朝子ちゃんでもいい、だなんて、言ってた?」

 私はふるふると首を横に振る。「でしょ?」と和歌子さんは笑う。
 けど。
 栄太兄は、朝子ちゃんの気持ち、どの程度知ってるか分からないし。
 朝子ちゃんは、そういうんじゃないって言ってたけど――でも、やっぱり、お似合いだと思うし。
 私なんかよりも、よっぽど、朝子ちゃんの方が、栄太兄のこと、支えてあげられる――

「おーい、礼奈ちゃん?」

 負のスパイラルに陥る私の思考に気づいたのか、和歌子さんが目の前で手を振った。私がおずおずと目を上げると、にっこりといつも通りの快活な笑顔。

「とにかく、自分ひとりで考えてちゃ駄目よ。もし、ほんとに栄太郎と夫婦になろうって思うなら、ひとりで抱えないことは大事。まあ、あの子鈍いから、ちゃんと言わなきゃ伝わらなくて面倒かもしれないけど、それも含めて練習だから」
「そんなこと」

 私は勢いよく言いかけて、はっと声を落とした。

「……栄太兄は、ちゃんと……私のこと、考えてくれます……」

 和歌子さんは私の言葉を最後まで聞くと、「それなら余計」と微笑む。

「栄太郎のこと、信じてやって。――誰かの代わりじゃない、礼奈ちゃんだから、栄太郎はプロポーズしたはずよ」

 私は力なく頷いた。和歌子さんは笑ってこちらに回り込むと、目線を合わせて私の手を握る。

「笑って、礼奈ちゃん。――ほら」

 涙で濡れた顔のまま、どうにか笑って返す。情けない顔になったのが分かったけど、和歌子さんは親指と人差し指で丸を作って、「そうそう、その調子」と笑った。

「礼奈ちゃんが笑っててくれれば、栄太郎は何でもできるんだから。――ほんとよ。見てなさい」

 そう言って片目を閉じた伯母は、きっとただ私を元気づけようとしているんだろう、と思っていたけれど――
 その言葉の意味が分かったのは、それから数日後のことだった。
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