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.第8章 終わりと始まり

208 あなたと一緒なら。

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「ソファに行こう」

 私が手を引くと、栄太兄がきょとんとした。

「え、でもコーヒー」
「持ってくればいいじゃん」

 私は唇を尖らせて、ソファに手を引いていく。
 もう触れることを諦めていたその手に、こうして触れられるだなんてーー胸にはくすぐったい喜びがじわじわと広がっていた。
 食卓の椅子の背に栄太兄のジャケットだけを残して、ソファに並んで腰掛けた。
 机越しだと近づけない――もっと近づきたい。
 栄太兄を前にして、自然にそう思う自分がいた。
 慶次郎に抱いていた気持ちと、栄太兄に感じる衝動は全然違う――
 気づいていたはずのことを、改めて自覚して。

 ふたり分の重みで沈むソファのスプリング。体重の違いのせいで、私の身体は、少しだけ栄太兄の方にかしいでいる。
 肩に触れる温もりに、ちらりと栄太兄を見上げては、目が合うと照れてうつむいた。
 気恥ずかしさと喜びに、手にしたコップを無駄に撫でてみる。

「大学、どうや? そろそろ、ゼミが始まるやろ」
「うん。春から……こないだ、説明会があって」
「そうか」

 細めた目が私を映しているのが嬉しくて、うん、とうなずいてはにかむ。
 会わなかった間の二年間を、少しずつ埋めていくみたいに、お互いのことをぽつりぽつりと話した。
 話していると、ときどき、沈黙が訪れる。
 けど、それでも構わなかった。
 少し肩を寄せれば触れ合えるところに栄太兄がいる。
 ただそれだけのことが、こんなにも嬉しいだなんて。

 隣に座った栄太兄を見上げると、栄太兄は目を細めて私の頭をぽんぽんと叩く。
 照れくさくなってうつむくと、笑ってコーヒーを口にする。
 その一挙一動に、栄太兄を感じて嬉しかった。
 栄太兄の隣にいると、ドキドキするのに、肩の力を抜いていられる。今までもずっと一緒にいたような気分になる。そして、もっと、近くにいたくなる。
 コーヒーカップを持ったままうつむいていたら、不意に栄太兄がぽんと膝を叩いた。
 何だろうと見上げれば、照れ臭さをごまかすように、不必要なほど明るい声で言う。

「あの、でも、あれやで。いくら転職して、前ほどひどい働き方はせん言うても、毎週のように会えるわけやないからな」
「分かってるよ。――私も、バイトだってあるし」
「ああ、そうやな。土日はバイトか。せやったら、余計、なかなか会えへんかもな」

 ソファ前に置かれたテレビ台には、家族写真の類がこまごまと並んでいる。
 栄太兄はそれを眺めながら言った。

「休みの日には、じいちゃんたちんとこも様子見に行かなあかんし。礼奈とはなかなか一緒に出掛けられへんかも――」
「なんで?」

 私が首を傾げると、栄太兄が不思議そうにまばたきした。

「だったら、私もおじいちゃんたちのとこ行けばいいだけじゃないの?」
「……そう……やな」

 栄太兄は戸惑ったように私を見ている。
 だって、栄太兄のじいちゃんばあちゃん、ていうのは、私の祖父母なのだ。
 別に、過ごすのは栄太兄と二人きりじゃなくてもいい。祖父母と過ごす時間が増えるのは、私にとっても嬉しいし。
 だけど、栄太兄は私の表情を伺うような顔をした。

「……それで、ええんか?」
「何で? 駄目なの?」

 質問に、質問で返す。
 だいいち、祖父母の家は鎌倉だ。歩いても歩いても、見るべきところはいくらでもある。
 近しい場所だからこそ、なかなか街歩きをしないものだ。見たこともない場所、見るべき場所はきっとたくさんあるだろう。
 私は大きく頷いた。

「うん、いいじゃん。楽しそう。意外とあんまり街歩きしてないしさ、散策しようよ。お店とか、お寺とか」

 私が目を輝かせると、栄太兄は肩の力を抜いたように笑った。

「お前、ほんま前向きやな。その辺は彩乃さんによう似てはる」

 あ、うん。それは、そうかもしれない。
 うちの場合、どっちかっていうと、細かいのは父なんだよね。母の方がざっくりしてて、行き当たりばったりなのを楽しめるタイプ。

「ふふ。なんか、楽しみになってきた。そうだ、おじいちゃんとおばあちゃんも一緒に散歩できるかな。滅多に一緒に出かけることなんてないし……二人も喜んでくれるかなぁ」

 思いつきにご機嫌になった私を、栄太兄は困ったような笑顔で見ている。

「でも、二人きりになれへんやん」
「まあ、それは、そうだけど」

 私が答えると、栄太兄はいたずらっぽい笑顔で「それとも」と私の手に手を絡めた。

「じいちゃんたちと一緒におっても、こういうことする?」

 囁くような声音と、指の絡まった恋人繋ぎ。
 どきんと心臓が高鳴った。

「そ、それは、その……ど、どうかな……」

 どきどき、心臓が暴れ出して、うろたえて目を泳がせる。
 と、私だけじゃなくて栄太兄も、照れたように目を逸らしていた。
 じ、自分で握っといて、何照れてんのよ。
 あまりの不甲斐なさに笑いそうになった。

「栄太兄?」

 黙り込んだのを批難するように膝をつつけば、栄太兄は困ったように顔を逸らした。

「いや……こんな、細っこい手ぇしてんねんなー思うて……身体も小さいし当然やねんけど……」
「チビで悪かったね」

 そりゃ、小学生の頃から比べたら背は伸びたけど、結局160には届かなかった。親戚の男性陣がおおかた180センチを超えている中では、ほとんど小人みたいなもんだろう。
 私は唇を尖らせた。

「どーせ子どもっぽいとか、思ってるんでしょ」
「違うて、そうやなくて」

 むくれた私に、栄太兄がうろたえる。戸惑うように泳がせた視線を、諦めたように私に下ろした。

「――そうやなくて」

 穏やかな声がして、するりと手が解かれる。
 かと思えば、ふわりと身体を包み込まれた。
 頬に触れたワイシャツのぬくもりに、どきんと胸が高鳴る。

「……手も、身体も、すっぽり収まるなと思うて」

 栄太兄の声が、空気越しじゃなく、身体越しに伝わって来る。
 私は今まで感じたことのない、痺れみたいな、悪寒みたいなものを身体に感じて、息を飲んだ。
 恐る恐る、手を伸ばす。栄太兄のワイシャツに触れ、背中へと滑らせる。
 抱き着いた身体は、いつだかと同じように私を受け止めてくれて。
 じわ、と感情が、身体いっぱいに広がっていく。

「……栄太兄」
「なんや」
「……好きだよ」

 小さい声で、囁くように、言葉を紡ぐ。
 栄太兄が、ふっと笑って、私の頭に頬を寄せる。

「……俺も、好きやで」

 ――うわ。
 優しい声が、心からの言葉が、びっくりするほど沁みてくる。
 じわじわと沸き上がった喜びと実感と、どうしようもない感動で、ふるりと震えた私に気づき、栄太兄が気遣わしげに顔を覗き込んできた。

「礼奈?」

 愛嬌のある切れ長の目。私を写した瞳。大好きな人の顔。
 胸の中から、狂暴なほどの幸福感が、身体を叩きつけるように溢れてくる。

「――栄太兄!」
「うわっ、な、何や!?」

 がばっと首に抱き着くと、栄太兄はうろたえた。
 私は肩に額を寄せながら、力いっぱい、栄太兄を抱きしめる。

「ほんとに、ほんとに、ほんとに、栄太兄だぁ」
「何やの、ほんとに」
「だって!」

 だって。
 だって、ずっと会いたかったから。
 会えなかったから。
 諦めて、しまっていたから。
 不器用で、優しくて、お人好しで、お節介で、馬鹿真面目なひと。
 またこみあげた笑いを、くつくつ喉奥で鳴らしていたら、私の髪を撫でていた栄太兄と、ふと目が合った。

 ――あ。
 互いの視線が絡まる。
 自然と、距離が近づく。
 どちらからともなく、目を閉じて。
 唇が、触れ――

 がちゃっ、とドアが開いて、私と栄太兄はぎくりと動きを止めた。

「礼奈ー、俺これからデート行って来っからーー」
「わ、わ、分かった」

 健人兄の声に、ソファの背に隠れるようにしながら頷く。
 栄太兄は真っ赤な顔でそっぽを向いていた。

「うん、じゃ、まーよろしく」

 健人兄はそう言って出て行きかけるや、立ち止まってにやりと笑った。

「栄太兄、さすがに手ェ出すのにリビングはやめとけよ」
「け、健人っ!」
「健人兄!!」

 真っ赤になってたしなめる栄太兄と私に、次兄は軽やかな笑い声をあげながら去って行った。
 兄が家を出て行くと、家にはまた、沈黙が降りる。
 なんとなく気まずくて、互いにじっと座ったままでいた。
 しばらくすると、栄太兄が苦笑した気配がして、顔を上げる。

「……礼奈。今日、予定はあるんか?」
「えっと……午後からバイト」

 私が言うと、栄太兄は微笑んだ。

「そうか。じゃ、まだ時間あるな。少し出かけへん? どこでもええで、礼奈の好きなとこ」

 立ち上がる栄太兄に、私はうろたえる。
 好きなとこ。行きたいとこ。
 思わず笑った。

「どこでもいい」

 栄太兄がまばたきする。
 私はその手を、両手で包む。

「どこでもいい。――栄太兄と一緒なら、どこでもいい」

 栄太兄は私を見下ろしたまましばらく絶句して、「……ほんま、父親に似て天然タラシやな」と目を逸らした。

 けど、そんなこと言われても、気にしない。だって、相手は栄太兄だもん。
 私が一番好きだった、栄太兄だもん。
 だからただ笑って、手を握る手に力を込めた。
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