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.第8章 終わりと始まり

196 自分勝手

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 私はその後、しばらく泣きじゃくって、もうどうしようもなくなって、でも栄太兄に甘える訳にもいかないと、必死でその場にうずくまっていた。
 困り切った栄太兄は、健人兄に電話した。とりあえず来てくれと言うと、しばらくして、健人兄が小走りにやって来た。

「なーにしてんの。犬が動かなくなっちゃった散歩みたいだね」
「お前なぁ。よくまあ口を開けば、そういう軽口ばっかり浮かぶな」

 栄太兄の呆れ顔に健人兄は悪びれず笑って、「ほら礼奈、忘れ物」と私のスマホを差し出した。私はぐずぐず鼻を鳴らしながら、それを手にする。「ありがとう」と声を絞り出すと、健人兄が笑った。

「あっはっは、ひっでー顔」
「うるさい」

 怒りを隠しもせず答えたけど、健人兄はなおも笑っている。栄太兄が呆れた顔で健人兄を小突くと、ようやく肩をすくませた。

「だって、どーすんの、それ。帰ってもみんな気ィ遣うだけじゃん」
「分かってるよ」

 私は言って、膝に顔を埋める。

「分かってるよぅ……馬鹿」

 健人兄はため息をついて、頭の後ろに手を当てた。

「何。彼と何かあった?」
「――ッ!!」

 ばっ、と顔を上げると、兄はにやにやしたまま立っている。
 どうして。このタイミングで。栄太兄の前で。
 かっ、と頭に血が上って、お腹に力を入れて立ち上がった。

「健人兄は、どうしていっつもそう――」

 一歩踏み出そうとしたら、慣れないヒールにふらついた。とっさに栄太兄が手を伸ばして、私の身体を支えてくれる。

「……大丈夫か? あんまり急に立たん方が」

 心配する顔がすぐ目の前にあって、顔が瞬時に熱を持つのが分かった。

「っ、大丈夫だから!」

 ぱっ、とその手を振り払って距離を取ると、栄太兄は困惑したような、傷ついたような顔をする。
 私は半ば八つ当たりにも似たいら立ちを感じて、二人を睨みつけた。

「とにかく、いいから! 私のことは、放っておいて!!」

 ほとんど悲鳴のような叫びに、自分でも苛立つ。
 何をそんな。悲劇のヒロインを気取って。
 振り回したのは、自分なのに。
 慶次郎を。栄太兄を。そうと分かっていて、振り回したのは、私自身なのに。
 腹が立つ。自分自身に腹が立つ。悔しい。自分の幼稚さが、馬鹿さが恨めしい。
 私は唇をかみしめて、拳を握った。

「別にお前がどうしようと勝手だけどさ」

 健人兄はさも面倒臭そうにため息をつく。

「振り回される方の身にもなれよな。――俺には関係ないけど」

 ひょい、と肩をすくめた健人兄は、さっさと背を向けて歩き出した。

「あ、おい、健人!?」
「栄太兄も、行くよー。放っておけって言ってるんだから、そうしてあげなきゃ。ほらほら、朝子チャンが待ってますよっと」
「と、朝子は関係ないやろ」
「関係あるある~。ばあちゃん、昔の和歌子さんの服出してきたらしくって、栄太兄にも見せたがってたよ」
「母さんの? そんなんあったんか?」

 健人兄と栄太兄のやりとりに、ずきりと胸が痛む。
 和歌子さんの浴衣をもらったときの高揚感を思い出して。

「あったらしいよ。ほら、身長もおんなじくらいだしさ、よく似合ってた。見てあげなよ、喜ぶから」
「何で俺が……」
「そりゃ、女子たちの憧れの栄太兄だからでしょ」

 栄太兄が私を気遣いながら、健人兄の背中を数歩追う。けれど、立ち止まってまた、私の方を向いた。

「礼奈。とりあえず、帰らへんか? みんな心配するで――」
「いーじゃん、礼奈だってもうガキじゃないんだから、一人で帰れるよ。とりあえず駅の方向だけ教えてやるよ。どーせ迷ってたんだろ? こっちまっすぐ行ったら、たぶん人の流れがあるから、あとは分かるよ。分かんなかったら連絡して。スマホは渡したし、財布もICカードもあるでしょ」
「おい、健人。お前茶化すのもほどほどに――」

 栄太兄が戸惑いながら健人兄をたしなめる。その言葉を、私の声が遮った。

「……分かった」
「礼奈!?」

 栄太兄が驚いたように私を見る。私は自分の足元を見ながら、もう一度頷いた。

「分かった。みんなによろしく伝えて。今日は、もう、帰る」
「れ、礼奈。そんな意地張らんでも――」
「ごめん、栄太兄。意地張るとかじゃないから。ちょっと、一人で考えたいの」

 言いながら、自分に呆れる。
 最悪だ。新年からこんな、自分勝手にふるまって。ほんと、最低。
 来週には、成人式を控えているというのに。
 成人を前にしても、まだ自分がこんなに幼稚な人間だなんて、笑っちゃう。
 情けなさに、また涙が込みあげる。けれど、それが落ちるよりも先に、きびすを返した。

「探しに来てくれて、ありがと。もう、一人で大丈夫だから。バイバイ」

 顔を見ないままそう言って、歩き出す。栄太兄が「礼奈」とまた呼んだのが聞こえたけど、健人兄が引き留める声がした。
 私は黙って、できるだけ大股で歩いて行く。
 戻ったところで、耐えられない。耐えられるわけがなかった。和歌子さんの服を来た朝子ちゃんの姿を見ることも、それを見た栄太兄の反応を耳にすることも、今の私には、耐えられそうになかった。
 本当に、子どもじみている。慶次郎も栄太兄も、どっちも手に入れたいだなんて、思っていたんじゃないか。
 なんて自分勝手なんだろう。なんて――
 そう自分をののしりながら、心のどこかで、なおも少し期待している自分がいた。
 健人兄を振り切って、栄太兄が追いかけてきてくれないか。私を抱きしめて、心配だと言ってくれないか。――いっそ、愛を囁いてくれないか。
 でも、実際にはそんなことはなかった。私は一人で、人込みの中を駅へと辿り着き、寿司詰めの電車に揺られて、一人で薄暗い家に帰宅した。
 暖房を切った家の中は、どこもひんやりとしていて、私は玄関に座り込んだまま、しばらくそこでまた泣き続けた。

 どうして、私は栄太兄が好きなんだろう。
 どうして、慶次郎じゃないんだろう。

 ――だけど、気づいてしまった今、慶次郎との関係は、終わらせなくちゃいけないのだ。
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