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.第7章 大学1年、後期

167 幻影

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 その後、私が鎌倉の祖父母宅を訪れたのは、夏休みが終わる直前だった。
 行かなきゃ、行きたい――と思っていながら、ついつい先延ばしにしていたのは、行けばきっと、栄太兄の幻影を見るだろうと思ったからだ。
 けれど、そう逃げてばかりもいられない。祖父母は栄太兄の祖父母でもあるけれど、もちろん私の祖父母でもある。母方の祖父母がもういない私にとっては、かけがえのない人たちだ。
 それは栄太兄にとっても同じだろうし、祖父母にとっても、私たちは同じように大事に想っているのだろう。最初、栄太兄への想いに気づいたとき、考えたのと同じく、大切な人たちの関係を犠牲にするようなことはしてはいけない、と今でも思っている。
 私は電車に揺られて、鎌倉へと向かった。

 もう九月末だというのに、その日はたまたま、夏のような気候だった。
 さすがに湿度は落ち着いてきたけれど、温度は三十度ほどありそうだ。
 祖父母の家に着いた頃には、私もしっかり汗をかいていた。玄関先に植えられたキンモクセイが香っていて、ひと息ついてからチャイムを鳴らす。
 出迎えてくれた祖母は、「お疲れさま」と迎えてくれた。
 祖父母に会うのは新年以来だ。どこか疲れたような顔をしていたから、年齢だろうかとドキリとしたけど、「夏バテよ」と笑われてほっとする。

「今年、暑かったもんね。今日も暑いし。ちゃんとクーラー入れてる?」
「入れたり、入れなかったりしてたら、栄太郎に怒られたのよ。年寄りの空調は24時間管理が原則って。だからもう、暑い日は入れっぱなしにしてる」
「それがいいよ」

 栄太兄に怒られたって、どういうことだろう。
 いきなり耳にした名にどきりとしつつ、私も同意して頷いた。
 特製の梅ジュースを口にしつつ、ちらりと祖母を見上げる。

「……栄太兄、元気?」

 祖母は「まあね」と微笑んだ。

「これからは、気持ちを入れ替えて、ちょこちょこ顔見せるって。ほんとに、毎月1回顔出すようになったのよ」
「え、そうなの?」
「そうそう。社畜の汚名は返上だ、とかなんとか」

 そんなこと言うあたり、相変わらず子どもっぽいわよね、と祖母が笑う。
 そしてふと思い出したように私を見つめた。

「そういえば、8月に集まったか何かしたの? 朝子と何か話してたみたいだから」
「あ、うん……健人兄の壮行会、的な」
「ああ、なるほど」

 祖母は納得したように頷いた。私の心中がざわめく。
 やっぱり、朝子ちゃんは来てたんだ。
 何か話してたって、何を話してたんだろう。
 二人が仲良さそうに笑い合う姿を想像して、胸が苦しくなった。

「どんな、話してたの?」
「ん?」
「栄太兄と……朝子ちゃん」

 ひかえめに問うと、祖母はまばたきして「そうねぇ」と首を傾げた。

「詳しくは聞こえなかったけど、朝子が『えらい』って褒めてたの。どうも、人助けでもしたみたいねぇ」
「人助け? あの日に?」
「その日なのかどうか、分からないけど」

 私はそれを聞いて気づいた。
 そういえば、あの日、栄太兄は遅れる理由を言っていなかった。いや、メッセージを受け取ったのは悠人兄たちだから、言っていなかったかどうかは分からないけど、少なくとも私は聞かなかった。私たちがただ勝手に「仕事だろう」と納得しただけで。

「まあ、栄太郎の性格なら、人が倒れてたら見過ごせないだろうし、そうかもしれないねぇ」

 祖母は何の気なく言う。その声音には、孫を思う優しさが込められていた。私は不意に感じた息苦しさを、ジュースで飲み込む。両手に持ったグラスが、温度差で汗をかいている。つめたい水滴を指先で救い取った。

「でも、少し吹っ切れたみたいな顔してるのよ、栄太郎。何か心境の変化かしらねぇ」

 祖母が言う。テレビを見ていると思っていた祖父も聞いていたのか、「まあ、あの歳ならまだどうとでもなる」と言ってきた。祖母が「おじいちゃんこそ、一番心配していたくせに」と笑うと、祖父は困ったように頭を掻いた。
 いつも通りの祖父母の家。時間がゆっくりと流れ、すべて受け止めてもらえているような気分になる。私は黙って、コップを口元に運んだ。
 氷がコップの中で転がって、カランと音を立てた。

「礼奈も、そろそろ夏休みは終わり?」
「うん、そう。……来週から、学校」
「そう。大学生の夏休みは長かったでしょう。楽しめた?」
「うん……たぶん」

 頷きはあいまいになった。だって、基本的にはバイトしていた記憶しかない。
 正直にそう訂正すると、祖母は笑った。「それも大学生の醍醐味よ。政人だってそうだったわ」と言われて、ちょっとほっとした。

「色んなことを経験しておくといいわ。社会に出れば、初めて経験することばかりだから。一つでも知っていることがあると、それだけでちょっと安心でしょ」
「うん……」

 誰かにつけ言われる言葉を繰り返され、私は頷く。祖父母とはその後も他愛のない話をして、帰路についた。
 気づいたら、もう空は茜色に染まっていた。時計を見るとまだ六時。夏の長日は過ぎ去ったんだなぁ、と思いながら歩いて行って、ふと、空にぷかりと、半月が浮いているのが見えた。
 そういえば、花火大会のとき、この道を、栄太兄と歩いたのだった。
 一気に記憶が蘇る。二人で月を見たこと。痛む足。玄関先で、ためらいもなく触れた栄太兄の手に、どきりとしたこと。
 私は細く長く、息を吐き出した。
 そうしなければ、思ってしまうから。

 ――栄太兄に、会いたいって、思ってしまうから。
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