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.第5章 春休み

115 卒業旅行(10)

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 金田夫妻は、両手を机につき、頭を下げた健人兄の額と互いの顔を見比べてぽかんとしている。
 私は恥ずかしさで顔が燃えるように熱いのを感じつつ、「けけけ健人兄、何言ってるの……」とどもる。
 健人兄はがばっと顔を上げると、満足げににっこりした。
 ……ほんと、一遍死んで来い。
 心の中で呪ってみるけれど、言葉は口をついて出ない。私たちの前で言葉を失ったままの和歌子さんたちを見る勇気も湧かず、半分泣きそうになりながら健人兄を睨みつけていたら、和歌子さんがほぅーと息を吐き出した。

「……最近栄太郎の家を行き来してるのって、そういうことだったの……」

 和歌子さんがはあと頷く。健人兄がちょっと困ったように苦笑した。

「いや、ちょっと待ってくださいね。それはちょっと誤解だと思う」
「え? 違うの? いや、私そういうの、理解がないわけじゃないから大丈夫よ」

 ねぇ孝次郎くん、と隣の夫を見ると、孝次郎さんも黙ったままこくこく頷く。
 理解があったとしても動揺しているのは間違いなさそうだ。
 健人兄は笑った。

「いや、ほんとそれ勘違い。--栄太兄をもらいたいのは礼奈で」
「あああああああ!」

 私は健人兄の言葉を遮り、その襟元を掴んで引き寄せる。
 健人兄は「どうした礼奈」とへらへら笑う。

「あのね……! 誤解を! 産むようなことを! 言わないの……!!」

 できるだけ威圧的な声で言うけれど、もちろん兄にはどこ吹く風だ。
 つーんとわざとらしく唇を尖らせて目を逸らし、「ほーんと、素直じゃないなー」とうそぶく。

「栄太兄のことが好きで好きで仕方ないくせに」
「ばっ!」
「今回だって、お礼参りと称して、栄太兄の足跡を辿る旅してるくせに」
「ちょっ!!」

 口を塞ごうとするけれど、リーチも力も向こうが上だ。
 私は顔が真っ赤になっているのも構わず、どうにか実害を減らそうと試みるけれど、何をしてもあっさりその手に阻まれる。

「落ち着けって、妹よ」
「落ち着いてられるかーっ!!」

 ああああもう、ほんと最悪。つい昨日まで、健人兄と一緒に来てよかったなーなんて平和ボケしていた自分を殴りたい。連れてきたのは間違いだった。かんっっぜんに、間違い!

「あらあら。兄妹喧嘩も新鮮ねぇ」

 珍しくおっとりと和歌子さんが笑う。孝次郎さんも何となく微笑ましげに見守っている。
 ……って! 見守らなくて! いいです!
 私はこの場を取り繕わねばと、手を兄の襟首にかけたまま、金田夫婦に顔を向けた。

「あの! ほんと! 気にしないでください! うちの兄が! 馬鹿なことを!!」
「馬鹿なことって、シツレーじゃない?」
「あんたは! 黙ってろ!!」

 兄の首を、がっくんがっくん前後に揺さぶる。
 「寝違えるからやめてよ」と笑う余裕がまた腹立たしくてーーもう、ほんと、この人、どうシメたら反省するの!?
 思ってたら、「分かった、分かったから」と健人兄は私の手に手を添えた。
 私は揺さぶっていたのを止める。健人兄は押さえられていた喉元に手を添えて、けほ、と咳をした。

「ちょっと落ち着けって。そんなに真っ赤になってたら、もうバレバレだから」

 健人兄がそう笑うので、私はまた腕の動きを再開した。
 おのれ! これでも! まだ言うか!!
 もーほんと、勘弁してよ! 何で!? 何でこの人に、私の複雑な恋心を、相手の親の前で暴露されなきゃいけないの!? マジでありえない! 健人兄! 一生呪ってやる!!
 情けなくて恥ずかしくて悔しくて、心の中はぐっちゃぐちゃだ。ガクガク健人兄の首を揺すっているのもしんどくなって、はぁ、と息をついた拍子に、涙がほろ、と頬を伝った。
 げ、と健人兄が呻く。あら、と和歌子さんが頬に手を添え、孝次郎さんと顔を見合わせた。
 気まずい空気になったのを察しつつ、それでも涙は止まらない。

「けん、にい、ほん、っと、さい、て……」
「ご、ごめん、礼奈。いや、そんなつもりは」

 そんなつもりがなくて、何でそんなこと言えるのよ! デリカシーがないにも程があるでしょ!?

 心の中では絶え間なく浮かぶ罵倒も、嗚咽の合間からではろくに言葉にならない。えぐえぐ泣きながらもうすべてが嫌になってきて、「けんとにぃのばかー」と手で顔を覆った。
 悔しい。こんなことで泣く自分の幼稚さが悔しい。こういうときには、ずぅっと昔、健人兄に言われた嫌味を思い出す。
 --「礼奈はいいよな。泣けばみんなが気遣ってくれて」。
 確か小学校低学年だったそのときも、健人兄のその言葉をたしなめてくれたのは栄太兄だった。「健人。そんな言い方せんでもええやろ」--そう言って、私の前にしゃがみ込み、視線を合わせて優しく微笑み、「よしよし」と頭を撫でてくれた。
 そのときの健人兄はさらにすねてしまって、それ以降、私は健人兄の前で泣くまいとしていたのにーー

「ほんっ、だいっきら、けんとに、やだ、もう、かえる」
「いやいやいや。ほんとごめん。ごめんって、礼奈。謝る。謝るから。なっ?」

 色んな感情がぐちゃぐちゃで、訳の分からないことを口走る私に、健人兄は慌てて手を合わせて謝る。
 頭を撫でて、肩を叩いて、背中をさすって。健人兄が私のご機嫌を取ることなんて滅多にないから、それはまた栄太兄の姿に重なって、さらに感情が溢れてきて止まらない。
 和歌子さんは「あらあらまあまあ」と苦笑すると、立ち上がって私の頭を抱き寄せた。私はほとんどやけになって、すがるようにその背中に手を回す。

「健人くんてば。妹可愛さが過ぎたわね」
「すいません、ほんとに。--こんなになると思わなくて」

 私だって、思わなかった。気づいたら感情の抑えが効かなくなって、涙が止まらなくなったのだ。

「うう、ふ、っぅう」

 和歌子さんにしがみついたまま嗚咽する。こんなの、ほんとに、バレバレだ。私がどんな気持ちで栄太兄を想っているか。
 自分で言い訳の余地をなくしてしまった。しかも、よりによって一番知られたくない人ーー健人兄と、栄太兄の両親の前で。
 ああ、穴があったら入りたい。小さくなって、ひとりで泣いてたい。
 これからどうしろっての。この気まずい場所から、どう抜け出せばいいの。
 ほんと最低。健人兄のせいだ。全部全部、健人兄のせいーー

「礼奈ちゃん」

 優しい声は、私の頭を撫でる和歌子さんからじゃなくて、孝次郎さんから聞こえた。
 私は涙で厚ぼったくなった目をこすりながら、恐る恐る顔を上げる。
 そこには困ったような、でも優しい孝次郎さんの目があって、それが栄太兄の目と似ているから、余計切なくなって、また相好がみっともなく崩れたのを自覚する。
 そのとき、孝次郎さんの手が伸びてきて、私の頬をそっと指先で撫でた。

「そんなに、栄太郎のこと好いてくれてはるん」

 ふわ、と言葉が降って来る。
 なんだか、不思議だった。ちょっとゆっくりめの関西弁は、栄太兄のそれよりも、ヨーコさんのものに近い気がした
 私はまた涙が溢れるのを自覚しながら、頷く代わりにうつむく。孝次郎さんは笑った。

「嬉しいなぁ。栄太郎もそうやって、大切に想ってくれる人がおるんか。それだけでも充分、嬉しいわ。おおきに」

 ぽつりぽつりと語られた言葉に、偽りは感じられない。
 私をゆるく抱きしめた和歌子さんが、ふふふ、と笑う振動が伝わってきた。

「ほんと。こんな可愛い子に、泣くほど想ってもらえるなんて、うちの息子もあながち捨てたもんじゃないわね」
「羨ましいくらいやな」
「あら。孝次郎くんには私がいるじゃない」
「俺のために泣いてくれたことなんてあったっけ?」

 孝次郎さんが首を傾げると、和歌子さんはちょっと唇を尖らせ、わずかに頬を赤らめた。

「あるわよ。--一度、鎌倉に帰ったときに」

 孝次郎さんはちょっと驚いたような顔をして、ふ、と笑った。
 二人にも、何かーーいろいろ、あったんだろうか。まだ、夫婦になるより前に。
 泣き疲れた頭でそんなことを思っていたら、和歌子さんが「よし」と溌剌とした声を出した。戸惑う私の両手を包むように握り、顔を覗き込まれる。

「不肖の息子ですけどね、礼奈ちゃんが欲しいというのなら、のしつけて差し上げるわ。ーーただ、あの子も相当鈍いし、そういうところ、イマイチ子どものままだからねぇ。ちょっとひとがんばり、必要かも。でも、応援するわ」

 和歌子さんはにっこり笑った。ついつられそうになるくらい、明るい笑顔。
 私は涙が止まっていることに気づいた。和歌子さんは私の目を見て続ける。

「結構面倒くさいところもある子だけど、礼奈ちゃんならいいところも悪いところも知ってるから安心して任せられるわ。母親の応援があるなんて、強力な後ろ盾でしょ」

 ぱちんとひとつウィンクをされると、なんだかうまく行きそうな気がする。
 こういうエネルギーが和歌子さんの魅力なのだろう。父や栄太兄が恐れるのもまた、こういう、強引なまでに人を引っ張っていく力なのかもしれない。
 私は笑った。力ない笑顔だったけど、和歌子さんが本気で言ってくれてるのは分かった。
 それを栄太兄が望むかどうかは別だけど、和歌子さんは私にとって味方でいてくれるつもりらしい。
 それだけでも、確かにありがたかった。
 父が甥の栄太兄を可愛がっているのと同じように、この伯母も私を可愛がってくれている。そう分かったのが嬉しかった。

「……がんばります」

 私は答えて、それから笑った。
 不意に、慌てふためいた健人兄の姿が滑稽に思えたからだ。

「なんだよ……びっくりしたなぁ」

 健人兄はそう言って、苦笑しながら頭後ろを掻く。孝次郎さんは笑って、健人兄の空いたグラスに缶ビールを注いだ。健人兄が肩をすくめる。

「すみません、いただきます」
「もう、健人兄大嫌い。ほんと、許さないから」
「あーはいはい、怖い怖い」
「あかんで、健人くん。女の恨みは本気やからな。いくら妹やからって、舐めた態度取ったら後が怖いで」

 「それ、経験談ですか」と健人兄が孝次郎さんに問う。孝次郎さんは「当然やろ」と答えて、和歌子さんに睨まれて黙った。
 私はそのやりとりに笑いながら、少しだけ心が軽くなったことに気づいた。
 確かに、健人兄が言っていた通り、私は深刻に考えすぎていたのかもしれない。
 栄太兄を想うことそのものは、決して栄太兄の迷惑になることじゃないんだからーー
 そう気づかせてくれたのはありがたいけれど、でも、やっぱりしばらくは許してあげない。
 軽口を叩きながらも、泣き腫らした私の目をちらちら見てくる健人兄の優しさには、あえて気づかないふりに徹した。
 たまには反省しなさいっ。
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