上 下
34 / 368
.第2章 高校2年、夏休み

31 地区大会(2)

しおりを挟む
 廊下から、また裏へと入っていく。パーカッション系の大きな楽器はそのまま控室へ持って行く。大会が終わったら、トラックに乗せて学校へ持ち帰るのだ。
 誰も何も言わなかったけど、だからこそだろう、譜面台を倒した1年生が泣き出した。その肩を、同じパートの2年生が抱く。

「すみません、すみません、すみません……」
「あやまんないで」
「いいよ……演奏、楽しかったし」
「うん、今までで一番よかった」

 次々、すすり泣き始める。私も涙が溢れそうになり、唇を噛み締めてうつむいた。

「……ごめんね」

 隣を歩いていたナルナルの、震える声がした。

「テンポを……速めようかとも、思ったんだけど」

 私はうつむいたまま、首を振る。

「馬鹿言うな」

 強がる声は、コアラのものだ。
 それでもやっぱり、震えていた。

「やろうって言ってた演奏、できたじゃん。本番にハプニングはつきものだよ。今までで最高の出来じゃね? どうよ、ナーガ先生。目標、達成した?」
「なんだよ……目標って」

 ナーガはふて腐れたように目を反らす。泣きそうなのを堪えているのだろう。

「楽しむ、ってやつでしょ。楽しめたら、最強なんでしょ。誰も文句言えないんでしょ。あんたがそう言ったんじゃんよ」

 コアラが言いながら、ナーガの首を閉める。「やめろよ」とあばれるナーガに、みんな笑う。コアラがそうやって場を和ませようとしてくれていることを、みんな察しているのだ。

「楽しかったよ、私」

 強がっていたけど、コアラの声は震えていた。

「楽しかったから、最強でしょ。誰も文句言わせないよ。うちの演奏、最高だった!」

 コアラの目から涙が溢れる。他にも、部員の嗚咽が聞こえた。

「うん……楽しかった」

 ぽつりと、はしもっちゃんが言った。ぎゅっと唇を閉ざして、涙を堪えていたけど、その目は晴々としていた。

「やっぱ、合奏っていいわ。最高だった。勝負の結果はどうあれ」
「どうもこうも、タイムオーバーだから失格だってば」

 横からコアラが笑う。はしもっちゃんが苦笑を浮かべた。

「うん。失格でも……楽しかった。ありがと、ナルナル」

 ナルナルは泣き笑いのような顔をした。その笑顔を見た瞬間、私の目からも涙が溢れそうになり、慌てて逸らす。
 さざ波のような嗚咽が聞こえる。歩きながらシャツの袖で溢れる涙を拭う人。両手いっぱいに楽器を抱え、涙を拭うこともできずに頬を濡らす人。唇を噛み締め、涙をこらえて歩く人。

 勝ちたかった、というよりも、もう一度、演奏したかった。
 もう一度、舞台で演奏できたなら、もっと、いい演奏になっただろう。
 涙が次から次に溢れて、楽器を下ろしてみんなで泣いた。
 楽しかった。
 最高だった。
 だからこそ。
 ナルナルの指揮を、私たちの音をーーもっとたくさんの人に、見て、感じてもらいたかった。
 拍手の音が、耳に残っている。舞台の床から響いてくるパーカッションの音も、閃くヴァイオリンの弦も、ホールにおんおん響く管楽器の音色も、楽器同士の共鳴する音もーー
 もう、知らない誰かに聞いてもらえる舞台で、同じメンバーが演奏する機会はない。あとは定期演奏会と卒業式。いずれも学校関係者だけに披露する舞台だ。

 それが終われば、2年生の私たちは受験モードに切り換えることになる。
 こうして、一つ一つ、終わっていくのだ。高校生、という時間が。そして、社会、へ近づいていく。一歩、また一歩。
 平凡な私は、きっと無難な道を選んでいくんだろう。
 道はどんどん、狭く窮屈になっていくーー

 ***

 みんなと分かれた後も、私はそのまま家に帰る気にはなれなかった。
 かといって、他の部員と寄り道する気力もない。自宅最寄り駅で降りると、ホームのベンチに腰掛けた。
 スマホの連絡帳を眺めて、ある人の名前で目を止めた。
 少しためらった後で、コールボタンを押して耳に当てる。ワンコール、ツーコール……数回鳴って、左手首の腕時計を確認した。
 夜7時。学生にとってはそこそこの時間だけど、社会人にとってどういう時間にあたるのかは分からない。
 電話に誰かが出る気配はなかった。私はため息をついて立ち上がる。帰らなければ、と思うけれど、落ち込んだ表情を見た家族がどう言うか考えると気が重い。
 演奏で集中したこともあって、気持ちを言葉にする気力もなかった。何か聞かれても、まともに答えられる気がしない。
 私はスマホを握りしめたまま、ぼんやりと家へ歩き始めた。普通に歩いて10分くらいの距離を、倍の時間をかけて歩いていく。
 途中には昔よく遊んだ公園があった。ゴールもないのに、兄たちとバスケをしたのを覚えている。半円のジャングルジムには、登ったはいいけど降りられなくなって泣いた。私を見て、悠人兄は下ろし方が分からず、泣きながら助けを求めた。健人兄は強がっていたけど不安そうな顔をしていた。

 そんな3人を見た彼が、私を抱き上げて笑った。
 その声が、耳によみがえる。
 ナルナルの笑い声によく似たーーああ、そうだ。あの声は。

 スマホが震えた。びくりと肩を震わせて、スマホの画面を見る。そこにはさっき私がコールした名前が表示されている。
 受話ボタンを押す私の指は、小刻みに震えていた。

「ーーもしも」
『どうかしたか?』

 私の声を最後まで聞かず、優しい声が戸惑ったように問うた。語尾に向けて上がるイントネーションは、関東のものと違う。ずぐりと胸が疼いた。その瞬間、どうにか留めていた涙が、一気に溢れ出す。

「……なんで、電話、すぐ出ないのよぅ」
『んっ、えっ? あ、あぁ……わ、悪かったな』

 私の声はみっともなく震えていたけど、嗚咽を飲み込む気もなかった。えぐえぐと泣く私に、電話の向こうの声は思いっきり戸惑っている。

『な、なんや? どないした? 礼奈ーー』
「勝手に、見に、来るから、負けちゃった、じゃん」

 ひっく、うっく、と嗚咽の合間に言うと、相手はうろたえて言葉を続ける。

『そ、それ俺のせいやの?』

 そんなわけない。冗談だ。責任転嫁だ。
 こんなわがまま、他の人には言わない。
 彼にしか、言わない。

『えーと、いい演奏やったで。他の学校聞いてへんし、音楽のことよぅ分からへんけど、なんやみんな楽しそうやったし、いい顔してはってーー』

 私の涙はますます溢れて止まらない。他の人の前で頑なな鎧が、彼の前ではいつもあっさり取り払われてしまう。
 礼奈、と声がした。私はえぐえぐ言う合間に、息を吸う。

「来て、くれて、ありがとうーー栄太兄」

 栄太兄の言葉が止まった。私の嗚咽だけが、しばらく二人の間に響く。スピーカー越しにも、自分の泣き声が聞こえた。

『お疲れさん、礼奈』

 私の嗚咽が落ち着いてきた頃、栄太兄が言った。

『よう、がんばったな』

 うん、と頷く。

 がんばったよ。
 私なりに、できることはした。
 みんなも、がんばったんだよ。
 だから後悔はないんだ。
 後悔は……しちゃ、いけない。

 悲しんでいる姿を見せれば、ミスをした後輩を傷つけるだろう、と思った。だから涙は見せなかった――後輩を責めるわけにはいかなかったし、傷つけたくなかったから。
 ーーでも、今は。
 私はしばらく泣き続けた。栄太兄は黙ってつき合ってくれた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】愛も信頼も壊れて消えた

miniko
恋愛
「悪女だって噂はどうやら本当だったようね」 王女殿下は私の婚約者の腕にベッタリと絡み付き、嘲笑を浮かべながら私を貶めた。 無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。 だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。 婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。 私は彼の事が好きだった。 優しい人だと思っていた。 だけど───。 彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。 ※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。

心の声が聞こえる私は、婚約者から嫌われていることを知っている。

木山楽斗
恋愛
人の心の声が聞こえるカルミアは、婚約者が自分のことを嫌っていることを知っていた。 そんな婚約者といつまでも一緒にいるつもりはない。そう思っていたカルミアは、彼といつか婚約破棄すると決めていた。 ある時、カルミアは婚約者が浮気していることを心の声によって知った。 そこで、カルミアは、友人のロウィードに協力してもらい、浮気の証拠を集めて、婚約者に突きつけたのである。 こうして、カルミアは婚約破棄して、自分を嫌っている婚約者から解放されるのだった。

なりゆきで、君の体を調教中

星野しずく
恋愛
教師を目指す真が、ひょんなことからメイド喫茶で働く現役女子高生の優菜の特異体質を治す羽目に。毎夜行われるマッサージに悶える優菜と、自分の理性と戦う真面目な真の葛藤の日々が続く。やがて二人の心境には、徐々に変化が訪れ…。

裏切りの代償

志波 連
恋愛
伯爵令嬢であるキャンディは婚約者ニックの浮気を知り、婚約解消を願い出るが1年間の再教育を施すというニックの父親の言葉に願いを取り下げ、家出を決行した。 家庭教師という職を得て充実した日々を送るキャンディの前に父親が現れた。 連れ帰られ無理やりニックと結婚させられたキャンディだったが、子供もできてこれも人生だと思い直し、ニックの妻として人生を全うしようとする。 しかしある日ニックが浮気をしていることをしり、我慢の限界を迎えたキャンディは、友人の手を借りながら人生を切り開いていくのだった。 他サイトでも掲載しています。 R15を保険で追加しました。 表紙は写真AC様よりダウンロードしました。

選ばれたのは美人の親友

杉本凪咲
恋愛
侯爵令息ルドガーの妻となったエルは、良き妻になろうと奮闘していた。しかし突然にルドガーはエルに離婚を宣言し、あろうことかエルの親友であるレベッカと関係を持った。悔しさと怒りで泣き叫ぶエルだが、最後には離婚を決意して縁を切る。程なくして、そんな彼女に新しい縁談が舞い込んできたが、縁を切ったはずのレベッカが現れる。

公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-

猫まんじゅう
恋愛
 そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。  無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。  筈だったのです······が? ◆◇◆  「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」  拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?  「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」  溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない? ◆◇◆ 安心保障のR15設定。 描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。 ゆるゆる設定のコメディ要素あり。 つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。 ※妊娠に関する内容を含みます。 【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】 こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)

【完結】烏公爵の後妻〜旦那様は亡き前妻を想い、一生喪に服すらしい〜

七瀬菜々
恋愛
------ウィンターソン公爵の元に嫁ぎなさい。 ある日突然、兄がそう言った。 魔力がなく魔術師にもなれなければ、女というだけで父と同じ医者にもなれないシャロンは『自分にできることは家のためになる結婚をすること』と、日々婚活を頑張っていた。 しかし、表情を作ることが苦手な彼女の婚活はそううまくいくはずも無く…。 そろそろ諦めて修道院にで入ろうかと思っていた矢先、突然にウィンターソン公爵との縁談が持ち上がる。 ウィンターソン公爵といえば、亡き妻エミリアのことが忘れられず、5年間ずっと喪に服したままで有名な男だ。 前妻を今でも愛している公爵は、シャロンに対して予め『自分に愛されないことを受け入れろ』という誓約書を書かせるほどに徹底していた。 これはそんなウィンターソン公爵の後妻シャロンの愛されないはずの結婚の物語である。 ※基本的にちょっと残念な夫婦のお話です

夫の不貞現場を目撃してしまいました

秋月乃衣
恋愛
伯爵夫人ミレーユは、夫との間に子供が授からないまま、閨を共にしなくなって一年。 何故か夫から閨を拒否されてしまっているが、理由が分からない。 そんな時に夜会中の庭園で、夫と未亡人のマデリーンが、情事に耽っている場面を目撃してしまう。 なろう様でも掲載しております。

処理中です...