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.第3章 新しい日常

49 ハジメテ

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 食事を終えた私たちは、橘くんの提案で互いにお茶を淹れ合うことにした。
 私は橘くんの。橘くんは私の。
 以前、できずじまいになったティータイムのやり直しだ。
 引き出しを開け、あのとき取り残されたままになったふたつのコップを取り出す。
 食器が減ったその引き出しに、ふと思い立って顔を上げた。

「橘くん、今度コップ買いに行こうか」
「コップ?」
「うん」

 橘くんが不思議そうに私を見る。ヤスくんのものを送り返した今、我が家の中には、私のものしかない。そこに……

「橘くんのものがあると、ちょっと嬉しいかなって思って」

 見上げれば、橘くんはまた頬を赤らめている。
 かと思えば、子どもっぽく唇を尖らせた。

「……なんか、それ、ずるいな」
「ずるい?」
「だって……」

 橘くんはちらりと私を見る。

「俺の家には……立花さんのもの、ないのに」

 そんなことを言うなんて、あまりにかわいい。思わず噴き出した。

「そんなこと言ったって。訪ねて行ったこともないのに」
「じゃあ、今度来る?」

 さらりと問われて、ぎくりと身をすくめた。

「い、行くって……実家でしょ?」
「うん、そうだよ」
「……ご両親」
「いるかもね」

 橘くんはあっさりうなずいて、淹れ終えたお茶を私に差し出した。
 私もお茶を橘くんに渡しつつ、差し出されたコップを両手で受け取る。

「……あの……橘くん……それって……」

 どぎまぎと、橘くんの顔とお茶を見比べた。橘くんは私が淹れたお茶を一口すすって、「美味しい」と微笑む。
 その笑顔にきゅんとしながら、熱を持った顔をうつむけた。
 そこでようやく、橘くんは私の戸惑いに気づいたらしい。「あ」と口を開けたかと思えば、「そっか、ごめん」と頭を掻く。
 私が顔を上げると、困ったように顔を逸らした姿があった。

「つい、そういうもんだと思っちゃってたけど……そうか、普通そうじゃないんだね。ごめん。そういうの、ほんと慣れてなくて――」
「……そういうもんって?」
「え? いや……恋人になるなら、いずれは結婚、とか」

 赤い顔でもごもごと言う橘くんを見上げた。

 そんなことを思うのは、女子だけだと思ってたけど――違うの?

 ぽかんとして言葉を失っている私に、橘くんは取りつくろうように続けた。

「あの、妹が結婚したの、イトコだったからさ。告白とプロポーズがほとんど一緒っていうか……もう最初から、結婚前提で、って話してて……だから、そういうもんだと思ってたっていうか。でも、そうだよね。普通、違うのかも。勝手に先走って、ごめん。――あの、座って飲もうよ」

 橘くんは気まずそうに、私の袖を引いた。私は黙ってそれに従い、橘くんと並んで腰かける。
 互いに何かを考えているのが分かった。それぞれがお茶をすする音だけが部屋に響く。
 私と橘くんが座った位置は、拳ひとつ分離れていた。それが物足りなくて、そっと肩を寄せる。
 橘くんは驚いたようにびくりと振り返った。

「……ごめん」
「い、いや、違うんだ。いいんだ、けど……」

 私が肩をすくめると、橘くんが目を泳がせて、私を見つめる。
 一気に空気が濃くなって、どちらからともなく顔が近づく。
 唇が重なった。
 触れるだけのキスが、一度ゆっくりと離れる。間近なまま、目が合う。彼の目の奥に見える切ない熱。きっと私の目にも、同じものが浮かんでいるんだろう。
 身体が小さく、期待に震える。
 まだ半ばお茶の残ったコップを、座卓に置いた。
 鍛えられた腕に手を添える。
 再び、唇を重ねると、橘くんが私の頬に手を添えた。

「……立花さん」

 呼ばれて、微笑む。彼の目の中に私が――私だけが映っていることが、くすぐったくて、幸せだ。
 橘くんは私の目を見つめて、うろたえたように目を泳がせた後、顔を赤くしてうつむいた。

「……橘くん?」

 私が首を傾げると、しばらく思案した橘くんが、一気にあおったコップを座卓に置く。
 かと思えば、座りなおして正座で私に向き直った。

「その……一応、言っておきたいことがあるんだ」

 改まった態度に、私も「はい」と膝を正す。
 橘くんは口を開きかけて閉じ、視線のやり場に困ったようにうつむいた。

「あの……俺……言った通り、何かと、経験、なくて……だからその……そういう、ことも……」

 上手く……できないと思うんだけど。
 うなだれた彼のかぼそい声に、噴き出しそうになるのを堪えた。

 笑っちゃいけない。笑っちゃ失礼だ。橘くんは真剣に言ってるんだから。

 私は口元に微笑みを浮かべたまま、息を吸った。

「それなら私も、橘くんに言っておきたいことがあります」

 真似をして、背筋を伸ばした。橘くんが再び、ぴしっと背を伸ばす。
 鍛えられた身体はブレることなく、静止して私に向き直った。
 私は笑いを堪えながら、口を開いた。

「私は未経験じゃありません」
「……? うん」

 彼氏がいたことは知っているのだから、想定の範囲内だったのだろう。
 困惑して首を傾げた橘くんを見上げて、私はまた笑う。

「よかったね、初めてじゃなくて」

 橘くんは、私の意図をくみ取りきれていないようだ。考えるようにまばたきしているのを見ながら、私は笑った。
 優しい橘くんのことだ、私が痛がったらもう、怖くなってやめてしまうことだろう――そう思ってのセリフだったけれど、彼にはそれすらも分からないのかもしれない。

「それは……あの、いろいろ教えてもらえる、ってこと?」

 期待したように頬を染める橘くんが、とてつもなく可愛い。
 私は我慢するのを諦めて噴き出した。笑いながら、引き締まった身体に抱き着く。

「教えられるほどの経験もないけど。……残念?」
「ううん」

 橘くんは言って、首を横に振った。

「立花さんだったら、なんでもいいよ」

 細められたアーモンド形の目には、私が映っている。
 ひたすら優しい表情に、胸がぎゅぅっと苦しくなった。

 ――そういう反則なことを、そんなに幸せそうに言うんだから。

 不意に、視界が歪んだ。
 それをごまかすように、橘くんの胸に顔をうずめる。
 橘くんは少しためらってから、私の頭をそっと撫でてくれた。

「……立花さん? どうかした?」
「ううん……何でもない」

 何でもない。
 けど、でも、だからこそ――

「……橘くんといられて、うれしい」

 身体中に広がる想いを、ぽつりと呟く。
 こんなに柔らかくて優しい時間、ほんの数か月前には、想像もしていなかった。

「うん、俺も」

 照れ臭そうに、でも幸せそうにうなずいた橘くんが、私の髪を撫でる。
 ゆっくりと。
 優しく。
 そして、髪を辿るように、手が頬に触れた。
 それを合図に、私はそっと顔を上げる。
 橘くんの端正な顔が近づいてくる。
 目を閉じる。
 まぶたが光をさえぎっても、怖くなんてない。
 触れた温もりが――橘くんの心臓の音が、私を包んでくれている。

「……好きだよ、立花さん」

 囁いた橘くんの声が、あまりに甘くて、優しくて、知らないうちにまた一粒、涙が頬を伝い落ちた。

 その日、私の肌に触れた橘くんの手はたどたどしくて不器用で、でも、どこまでも私への気遣いにあふれていた。
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