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.第3章 新しい日常

43 片付け

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 床にぶつけた後頭部は、なおも熱を持って痛む。
 手を当てて探ってみると、少したんこぶになっているようだ。
 冷蔵庫から保冷剤を取り出して、タオルに巻いて頭に当てた。
 頭を冷やしながら、部屋の隅に腰掛ける。
 じっとしているうちに、段々と気持ちは落ち着いてきた。
 正面にあるカーテンの先からは、日差しがこぼれていた。今日は、いい天気のようだ。差し込む光はもう真上を過ぎていて、ベランダには少し陰ができはじめている。
 外から突然、甲高い子どもの歌声がした。小学校の入学を喜ぶ歌。もう少し小さな声で歌うよう、親にたしなめられている。現実に引き戻された私は、頭に添えていた手を降ろした。
 痛みはだいぶ引いたようだ。

「よっこらせ」

 わざと声を出して、強ばった身体に言い聞かせるように立ち上がった。
 保冷剤を冷凍庫に放り込むと、中から一食分のご飯を取り出しかけて、手を止めた。

 ――コップとか、取りに来た。

 ヤスくんの言葉が、脳裏によみがえる。
 実際には毒だけを吐き出して去ったのだから、それが言い訳に過ぎないことは分かっていた。けれど、確かにこの部屋には、「ヤスくんのもの」が散在している。そう気づくと、気持ちは休まらなかった。
 小さく息をついて、部屋を見渡す。
 ヤスくんは、また来るだろうか。私と話しに。
 話、なんてものじゃない。一方的な押しつけに。五年にわたって私にかけてきた、あの、幼稚な呪いをかけに。

 ――彼なら、やりかねない。

 そう考えるだけでうんざりした。
 ――それなら。
 おもむろに、袖をまくった。

 私に会いに来る言い訳を、残さなければいいだけのことだ。
 ふぅっと強く息を吐いて、食事よりも先に片付けにとりかかった。
 まずは食器棚代わりの引き出しを開ける。
 中にあるのはマグカップ。
 その奥に、しまいこんだままのシンプルな皿が目について、ふと思い出した。
 パンの袋についた点数でもらえるオマケの皿は、彼に集めろと言われたのだった。引き換えたはいいものの、結局全然使わないままだった。
 皿を手に取る。もらった後、彼に見せたかどうかは覚えていない。昼食で、よくパンを買うと言ったら、「もらえるもんはもらっとけ」と馬鹿にするように言われたのだ。
 どうして、私にそんな指図をしたんだろう。おとなしく従った自分も、そんな指示をした彼も、今となっては幼稚で馬鹿馬鹿しい。
 そういうひとつひとつが、彼にとっては確認だったんだろうか。私が言うことを聞くか。彼に従う人間なのか。
それを試すための「命令」だったんだろうか。
 胸にもやもやしたものがこみ上げた。けれども今はそのもやもやすら、懐かしい感情に思える。
 これから、すべてを過去にしていく。
 マグカップと白い皿。
 座卓の上にふたつを並べて、次に向かったのはクローゼットだった。
 いつだか、橘くんに貸したTシャツとジャージを取り出す。
 ヤスくんが着た記憶は、もう遙か彼方だった。橘くんには、丈が足りなかったことを思い出す。それでもヤスくんよりはよほど着映えがしていたけれど。
 そういえば、橘くんはこれを誰のものと思って借りたんだろう。彼氏の存在に気づいていなかったのだから、元彼のものとでも思ったんだろうか。
 ――そのうち、橘くん用の部屋着を買いに行こう。
 これからのことを思うと、少しだけ口の端が緩んだ。
 机の上には、遊園地のキャラクターが描かれたペン立て。家にあったから持ってきた、と、置いていったものを、捨てていいのかいけないのか、分からずにこうして使っていた。
 ひとつひとつ、ヤスくんとの思い出を集めて机の上に並べていきながら、首を傾げた。
 どれが私へのプレゼントで、どれが貸しているものだったんだろう。全然、その違いが分からなかった。
 不器用な人だ、と思ってはいた。けれど、考えてみれば、贈り物らしい贈り物をされた記憶がない。
 中には、本当に私を思って渡してくれたものもあったのかもしれない。プレゼントしたつもりのものを返されたら、ショックだろうか――思ったけれど、この際、それはもう些末な問題だった。疑わしきは全部、詰め込んでしまおう。
 それがヤスくんとの関係を清算することなのだろうと思えた。

 次に手にしたのは一番のオオモノ。部屋の端に置いていたミニコンポだ。
 音楽を聴くのが好きな彼が、少しいい音が出るステレオを買えと言うから買ったものだった。お金を出したのは私だけれど、彼の指図がなければ買うこともなかった。
 テレビにも繋げるからと言われたけれど、結局、面倒でそのまま、部屋の隅に置きっぱなしにしていた。
 彼はほとんど家に来なかったから、結局宝の持ち腐れだ。それなりの値段はしたけれど、私にとっては不要だから、餞別に一緒に入れることにした。

 一通りモノを集め終わって、量の目安をつけたところで、近所のコンビニで段ボールと発送伝票をもらった。
 梱包材の代わりに、旅行先で彼が手にしては渡してきたパンフレットの類いを丸めて入れる。
 パンフレットに紛れて、一枚、写真が挟まっていた。私もヤスくんも写真に撮られるのが苦手だから、二人で撮った写真はほとんどないけれど、見てみれば、つき合って初めての冬――クリスマスのイルミネーションを観に行ったとき、イベントのスタッフがインスタントカメラで撮ってくれた一枚だ。
 まだ学生の面影を残した二人が、ぎこちない距離で並んでいる。私はかろうじてはにかんだ笑みを浮かべているけれど、ヤスくんは気恥ずかしそうな仏頂面のままだった。
 写真と箱を見比べる。
 中に入れようか迷った後、そのままゴミ箱へ手を伸ばした。
 手のひらサイズの写真が、ゴミ箱へと吸い込まれる。
 ありがとう。さようなら。
 心の中でそう言って、もう目にしなくて済むよう、ゴミ袋をしばった。

 箱を閉め終わったときには、やたらとすっきりした気分になっていた。
 部屋を見渡しても、そう大きな変化はない。一番存在感があったのはミニコンポだけれど、それも端っこにあっただけだから、見た目はそう変わらない。それなのに、気持ちは全然違うのだ。

 ――これで、本当にさよならなんだ。

 その想いに名残がなさ過ぎて、逆に切ないほどだった。
 私の五年間。ヤスくんの五年間。それが、たった一つの段ボールで片付いてしまう。それっぽっちの関係しか、私たちは築けなかった――そういうこと、なのかもしれない。
 配送伝票に必要事項を書いて、閉めた箱に貼り付ける。
 持ち上げてみれば、箱は重くも軽くもない。コンビニまで徒歩五分の道のりを思い浮かべ、車を使おうかと迷った。
 けれど結局、自力で持って行こうと決めた。
 財布とカギだけを手に玄関を出る。コンビニの店員は機械的に小包を受け付けた。
 会計を済ませながら、受け取ってくれるかなと一瞬脳裏をよぎる。けれど、配送業者に突っ返すほど強気な人ではないはずだ。そう思い直して店を出た。
 帰り道の身軽さに、鼻歌が出た。さっき、子どもが大声で歌っていた、小学生になることを喜ぶ歌。
 ――友達百人、できるかな。
 そのフレーズまで歌って、ふふっと笑う。
 風が吹いた。まだどこかに残っていた桜が、道の先へと舞い往く。握りしめたカギが、ちゃり、と音を立てた。
 ヤスくんには一度も渡さなかった、そのスペアキーを持っているひとを、想う。

 神奈川から、東京まで。荷物は翌日には届いたはずだけれど、ヤスくんからの連絡はなかった。
 ちゃんと届いたか、確認はしていない。
 けれど、戻って来ないということは、たぶん受け取ってくれたんだろう。
 あとは、心置きなく――橘くんの帰りを待つばかりだ。

 荷物を送り返すことより、その帰りを待つ方が、よほど切なく、緊張感を孕んでいた。
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