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.第3章 新しい日常

42 関係の清算

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 翌日から、時間があれば橘くんのことを考えていた。
 ちょこちょこ被災地の様子を気にかけるものだから、他の教員に不思議がられたくらいだ。
 「東北に親戚でもいたっけ?」と尋ねられたけれど、あいまいな苦笑でごまかした。
 新聞、ラジオ、テレビ、webニュース――少しでも橘くんのいる現地の様子を知りたくて、空いた時間は情報収拾に努めた。
 被害の大きな地域は、一カ所ではなく、いくつかに分散しているらしい。都心はそうでもないが、山奥は高齢化が進んでいて逃げそびれた人も多かったようだ。
 どのメディアにも、被害の甚大さを物語る写真が掲載されていた。震災による家屋倒壊。山の土砂崩れ。それによる河川氾濫――それぞれの地域で、それぞれの被害状況が報告されていく。日に日に、行方不明者の数が減っていき、死者や怪我人の数が増えていく。
 その救助の一端を、橘くんが担っているはずだ。
 被災から二日が経つと、救命の可能性がぐっと下がる――そんなことを、ニュースキャスターが口にしていた。
 助け出すのは、生きている人だけではないだろう。亡くなった人の収容――それも、きれいな遺骸ではないかもしれない。
 そんな現場に、彼はいる。動揺している暇もないほどのめまぐるしさで、凄惨な場面を次々に目にしているだろう。

 ――大丈夫だろうか、橘くんは。

 思い出すのは、彼の優しすぎる笑顔。
 ――また、あの笑顔を見られるだろうか。
 不安を、無理矢理祈りに変えて過ごす。

 授業はともかく、デスクワークはうまく捗らなくて、週末に仕事を持ち帰った。
 それでも、ニュースはつけたままだ。ときどきちらちら見るものだから、効率が上がるはずもない。
 こんなんじゃ、橘くんに呆れられてしまうな。
 反省はしても、気になるのだから仕方ない。今はこういうものだと諦めて、できることに取り組んでいた。
 昼のニュース番組が終わりを告げたとき、間延びしたチャイム音がして、動きを止めた。
 既視感のある音に忘れかけていた人を思い出し、はっと息を止める。
 思わずリモコンに手を伸ばしてテレビを消すと、一気に部屋に静寂が訪れた。
 のぞき穴を見ずとも、来訪したのが誰かは察しがついている。

 ――居留守を使おうか。

 一瞬そう頭をよぎったけれど、それも無意味だと頭を振った。
 逃げれば逃げただけ、問題の解決が遅れるだけのこと。
 そう学んだのは、そんなに昔のことじゃない。
 腹をくくって、唾を飲み込み、玄関へと向かった。
 のぞき穴の先には、案の定、ふてくされた顔のヤスくんが立っている。
 呼吸と気持ちを整えて、手を伸ばし、鍵を開ける。
 カ、チャン……
 固い音が、私の気持ちを代弁してくれているようだった。

「――いらっしゃい」

 とりつくろったつもりの声は、思いの外冷たく響いた。
 招かざる客の来訪に、警戒心が剥き出しになっている。
 内心自嘲したけれど、それと同時に開き直った。
 もう、彼に何かを取りつくろう必要も、ご機嫌を取る必要もない。
 ヤスくんも、そんな開き直りに気づいたのか、一瞬、威圧されたように目を泳がせた後、低い声で言った。

「……コップとか、取りに来た」

 言い訳だとはわかっているけど、あえてつっこむ気はない。
 「そう」と短いあいづちを打って、中へ通す。
 ヤスくんは、息を潜めるようにして、私の様子を伺いながら入ってきた。
 獲物を狙う蛇のような息づかいには、内心、辟易しながらも気づかないふりをする。
 彼の後ろで、パタンと戸が閉まる音がする。
 ――二人きり。
 とたんに、部屋の空気の重量が増したように感じた。
 今までなんとも感じなかった彼との距離が、いやに近く感じる。
 少しでも彼から離れようと、さりげなさを装って台所に立った。

「お茶でもいれようか?」
「いや、いい」

 短く答えて、ヤスくんは断りもなく座卓の前に腰を降ろした。
 粗雑に見える態度だけど、その目は私からそらしたままだ。

「……座れば?」

 しばらく彼を見下ろしていたら、ヤスくんがちらと私を見上げた。
 その表情を眺めていた私は、突然、彼が哀れに思う。
 自分から歩み寄るのが初めてで、どういう態度を取ればいいのか分からないのだ。
 ふてくされたようなこの態度も、悪気がある訳ではない。
 そう分かった。――だからこそ、たちが悪い。
 私はため息をかみ殺し、諦めて座った。座卓を挟んで、彼の真正面に。
 二人の間に、沈黙がずっしりと落ちる。
 心を決めたからか、その沈黙もさほど気詰まりには思わなかったけれど、重くはあった。
 黙って相手の出方を待つ。

「……どうしてた」
「別に、どうも」

 中途半端な問いに、無愛想に答えてから気づいた。
 面倒くさがらず、きちんと橘くんのことを言っておくべきだ。
 そう思い直して、口を開いた。

「……例の、同級生と」
「あのイケメン?」

 即座にそう評するヤスくんの顔は、変に歪んでいた。
 その挑発には反応せず、私はうなずく。

「つき合う、ことになったから」

 ヤスくんは動きを止めた。
 空気が凍り付く。
 見開かれた目から注がれる視線を感じながら、膝上の手に目線を落とした。

「だからもう……ヤスくんとは会えないよ」

 前と同じ言葉を、静かに繰り返した。
 ヤスくんは止めていた息を吐き出す。彼につられて動揺しないよう、私はお腹に力を入れた。
 不穏な気配に、負けてはいけない。
 自分にそう言い聞かせて、顔を上げた。

「ふざっ、けんな……!」

 バン、とヤスくんの手が机を払う。机は倒れ、私と彼の間を遮るものはなくなった。
 ヤスくんの憤りを見て取って、身体がすくむ。
 その姿は私の目に、数割膨れ上がったように見えた。

「俺――俺がせっかく――今年は私立学校でも地元じゃなくても、受けてみようって気になったのに――」

 うめくようなその声も、押し退けた机に置いたその手も、わなわなと震えている。
 拳も同じく震えて、甲には筋が浮き上がっていた。

 ――また、殴られるのかな。

 彼の拳を見つめながら、意外なほどに冷静な自分に気づいた。
 やりたいようにすればいい。
 それで、満足するのなら。
 彼がなにをしたところで、もう、私は元に戻ることはない。
 ――絶対に。
 黙ったまま、静かにヤスくんを見つめる。

「五年も一緒にいたのに――そんなにあっさり――あり得ねぇ――」

 激昂しすぎて、言葉がまとまらないのだろう。悲痛な叫びに動じることもなく、私は赤らんだヤスくんの顔を眺めていた。
 五年を一緒にいたと言っても、その間彼がどれくらい、私のことを考えてくれただろう。
 いつも、私が我慢する側だった。彼が求めるものを察して、気遣って。
 気づけば、互いにそれが当然のようになってしまった。
 最初は自ら望んでやっていたはずなのに、私は知らないうちに、自分で自分の首を絞めていた。
 何の感謝も思いやりもなく、当然のように奉仕を求められて。
 どうしてここまで彼に尽くさなくてはいけないんだろうと、そう思うようになっていた。
 長く一緒にいたように見えて、実際に気持ちが寄り添っていたのは最初の一、二年だけだったのかもしれない。いや、一年間ですら、あったものかどうか――

「……ごめんね」

 謝罪の言葉は、別れを告げたことに対してではない。むしろその逆だ。
 今まで自分の気持ちをあいまいにしていたこと。「面倒だから」という理由で彼と向き合おうとしなかったこと。
 そのせいで、私だけでなく彼にとっても、「無駄な日」を過ごすことになった。
 そのことに対しての謝罪。
 彼が「くそ」と低く呻いて、私の方へ手を伸ばした。殴られる。ぎゅっと目をつぶったけれど、予想に反して彼の手は私の手首を強く握り、もう一方の手で肩を押した。
 押し倒された、と気づいたのは、背中が床に押し付けられたときだ。
 怪我しかねないほど、強く床に頭を打ち付けられて、一瞬目の前に白が飛んだ。
 壁際でなくてよかった。周りに何もなくてよかった。――そんなことを思う間に、ヤスくんが私の上に馬乗りになっていた。
 ヤスくんはそのまま、片手で私の肩を押さえ、片手で服の裾に手をかける。
 力任せな動き。悪寒がした。肩に彼の指が食い込み、服が破れそうなくらいにはりつめる。

「待って」

 その手を押さえても、動きは止まることがない。緩まない力に、止められない、と悟る。
 圧倒的な力の差。ヤスくんは男で、私は女なのだ――当然のことを、改めて痛感する。

「――無茶苦茶にしてやる」

 ヤスくんが低くうなった。
 その声には、どこか悲痛な響きがある。据わった目は、私を写しているのにどこかうつろだ。

「やめて」

 声はかすれた。
 お互い、初めて身体を重ねた相手だった。最初の夜はただ求められ、断る理由も浮かばずに抱かれた。
 その後も求められるときにだけ応え、自分から求めたことは一度もない。
 「こんなもんか」としか思えなかった行為。ただ体力と気力を奪うだけ。彼のストレス発散につき合っているだけ。そう割りきっていた。
 その時間に愛情や快感を感じたことなど、一度もない。
 私を見下ろすヤスくんの表情は強ばり、激高のためか青黒く見えた。その顔に入り乱れた感情に、多少は、私への情を見て取る。
 最後に黙って抱かれるべきか――一瞬だけ、同情が脳裏をよぎった。

「……ヤスくん」

 発した声は不思議なほど優しかった。ヤスくんがびくりと身体を震わせる。
 探るような、怯えるような目の色に、私はようやく理解する。

 ここでためらってはいけない。
 ちゃんと、けじめをつけなければ。
 同情こそが、彼をさらに苦しめてしまう。
 心を決めて、息を吸った。

「やめて。私はもう、ヤスくんと一緒にはいられないの」

 できるだけきっぱり言うと、ヤスくんは息を吸い、吐き出した。
 その身体は、かわいそうなくらい震えている。
 実際、かわいそうなことをしたのかもしれない。彼は私に拒まれたことがないのに。私が拒まないからこそ、私は彼にとっての唯一の居場所だったのだろうに。
 でも、私はもう謝らない。謝ってはいけない。私が彼を傷つけたのと同じくらい、私も彼に傷つけられた。私たちは互いに傷つけ合ってきた。もう、それをやめなくてはいけない。
 私はヤスくんの身体を押し退けるようにして起き上がる。ヤスくんの身体に、もう私を押さえつける力はなかった。
 ヤスくんがずるりと後ろに引いた。私の服の裾をつかんだままの手に、そっと手を添える。

「離して」

 冷たく言うと、ヤスくんは一度私の目を見て、すぐに顔を反らした。
 一瞬の後、払うように手を離し、ふん、と鼻で笑う。

「お前みたいな女、どうせすぐ捨てられるだけだ」

 ほとんど呪文のように言いながら、彼は玄関へ向かった。

「後から泣きついてきたって、もう相手にしねぇからな――ブスで可愛げもない、お前みたいな奴」

 何も言わずにヤスくんを見送った。彼は尚もブツブツ言いながら家を出ていく。

「調子に乗りやがって、自意識過剰なクソ女」

 彼が言うのを、私は黙って聞き流す。
 その背が玄関から消えた瞬間、ガン、とドアが外から蹴られた。

「せいぜいクズみたいに捨てられろ、マグロ女!」

 見えない彼が吠える声が、胸に刺さる。
 言葉そのものではない。その奥に潜む彼の悲鳴が聞こえた。

 支えてくれるんじゃなかったのかよ、俺の夢を。――

 息を潜めている間に、荒々しいヤスくんの足音は遠ざかり、聞こえなくなった。
 音がしないよう、そっと玄関の鍵をかけた私は、へなへなと座り込む。
 とたんに緊張がほどけ、自分の心臓が足早に脈打つ音が聞こえてきた。
 床に手をついたまま息を吐き出すと、じわり、と眼前が歪む。目をつぶって、ふぅ、と細く息を吐き出した。
 固い床の上に拳を握る。
 手が震えていることに気づくと、震えは末端から身体中に広がった。
 自分の身体を抱き締めて、何度も呼吸を繰り返す。
 ひっ――はぁ――ふぅ――
 必死に呼吸を繰り返すうち、息が乱れて涙が溢れた。

 ……怖かった。

 震える息を吐き出す。

 でもそれ以上に、胸がひりひりと痛んだ。
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