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.第2章 ゆめ・うつつ

37 春を待つ

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 ヤスくんからの連絡は、ぱったりと途絶えた。
 少なからず、私はそれにほっとしていた。別れ話を切り出したとして、彼なら、しつこく連絡を寄越すか、不通になるかのどちらかだろうと思っていたから。
 もしも前者だったら、相当に精神力を消耗していたことだろう。
 その後も、何事もなく一ヶ月が過ぎ、三月が終わりに近づいた。
 学校は春休みに入ったけれど、今年の冬はなかなか去ることがない。桜もまだ蕾のままで、いっそ入学式までもってくれるといいね、と教員仲間と話している。
 学校が長期休暇に入っても、教員には仕事がある。特に春休みは、部活に付き添うだけでなく、新学期の準備があるから、毎年大わらわだ。
 悩んでいる暇もないほど慌ただしい毎日は、橘くんと会っていた頃のように、胸がときめくようなことはないけれど、罪悪感にさいなまれることもない。
 それはそれで、安定した毎日なのだと、そう思うようにしている。

「立花先生。四月の会議の日程なんですけど――」
「あ、はい。ちょっと待ってください」

 同僚の声かけに、卓上のカレンダーに手を伸ばした。
 四月へとめくりながら、ふと気づく。
 橘くんのおばあさまが亡くなったのが二月の上旬だったから、そろそろ四十九日だろうか――
 次いで、苦笑が浮かんだ。
 橘くんと最後に会ってから、もうすぐ四半期が過ぎる。
 何かにつけて橘くんのことを考えては、そんな自分に呆れることにも慣れた。
 同僚の話を聞きながら、会議の日程をメモした。
 再び自分の仕事に戻りながらも、頭の片隅で橘くんを想う。

 不思議というべきか当然というべきか、自分の中にぽっかり空いた空洞は、数年来つき合っていたヤスくんのせいではなかった。
 再会してから約半年、週に1回会うか会わないかの存在だった橘くんの方が、よほど心の中心、奥深くに風穴を空けている。
 けれど、この感覚は身に覚えがあった。私がまだ小学6年生で、橘くんが都内の中高一貫校に進学すると決まったときの喪失感と同じだから。
 だから――知っている。このがらんどうの穴も、少しずつ、時間が解決してくれることを。

 ***

 四月の頭、始業式を翌週に控えたその日も、書類仕事の合間に部活に付き添った。
 職員室から体育館まで向かう道すがら、植えてある桜を見上げると、もうぽつりぽつりと開花し始めている。

「先生、最近ぼーっとしてるよね」

 ミーティングを終えると、意外と鋭い平峯にそう言われた。私は「そう? 花粉症かな」と適当にごまかしたけれど、横から別の生徒が口を挟む。

「もっと気合い入れてよね、次こそ県大行くんだから! そんで、先生の花粉症なんてぶっとばす!」
「花粉症、ぶっとばせんの?」
「気合いでどうにかなる!」
「マジか」

 会話はすぐさま笑いに変わった。無邪気なやりとりに自然と笑いが浮かぶ。
 平峯が「そーだった!」と手を叩いた。

「そうだよね、卒業アルバム、見せてもらう約束してたし!」
「卒業アルバム?」
「あー! 忘れてた!!」

 騒ぎだした生徒たちに、私は肩をすくめる。「先生覚えてた!?」と問い詰められて「忘れてた」と正直に答えた。
 半年来の約束を覚えているだなんて、さっぱりしているように見えて、平峯も意外と執着質だ――そう考えてから、ふと思う。確かに、二十一点を先取すれば勝ちになるバドミントンで、彼女は相手が二十点近くなるととたんに粘り強くなり、ギリギリまでシャトルを拾うのだ。なるほど、選択競技と性格は、少なからず関係しているのかもしれない。

「とりま、準備よろしくね、せんせ!」
「よろしくっ!」
「新人も来るしね!」
「それね! がんばるっきゃない!」

 甲高い生徒たちの声を耳にしながら、私もこんな風だったのかなと笑ってうなずいた。
 橘くんへの淡い想いを抱いていたあの頃。
 まだ少女だった、あの頃。
 橘くんだけじゃない、その頃の私も、もちろん卒業アルバムに写っているはずだ。
 職員室へ戻るとき、再び桜を見上げる。
 今にも花開きそうなつぼみが、センチメンタルな気分を許してくれているような気がした。
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