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.第2章 ゆめ・うつつ

31 年始

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 母から「おせち、作りすぎたから、戻っておいで」と控えめな誘いがあったので、年が明けて早々、実家へ向かった。
 実家までは車で二十分ほどだ。近いからいつでも帰れる、と安心してしまって、逆にほとんど帰ることがない。
 就職してしばらくの間は、母も気にして「どうせろくなもの食べてないんでしょ」とおかずを分けてくれたけれど、受け取りに行くのすら面倒くさくなった今は、それもすっかりご無沙汰している。

「あけましておめでとう」
「おめでとう」
「ことよろー」

 テレビに向いたまま手を振るのは妹だ。「もう、昌子」と呆れた顔をすると、母はお茶を出しながら私の顔色をうかがった。

「あんた、また痩せたんじゃない? ちゃんと食べてるの?」
「食べてるよ」

 主にしらすご飯、納豆ご飯、卵かけご飯の繰り返しだけど。ときどきインスタント味噌汁や冷や奴もつける――とは、褒められたものではないだろうから、心の中で付け足した。
 今年から小学校の教頭になったという父は、存分に休日の惰眠を貪っているらしい。

「挨拶くらいすればいいのにね」
「いいよ。忙しいのは分かってる」

 小学校と中学校の違いがあるとはいえ、だいたい生活スタイルは分かっている。私のフォローに、母が困ったような笑顔で肩をすくめた。
 母と食卓でお茶をすすっている間も、妹が見ているテレビからは、空々しい笑いが聞こえてきた。

「――そういえば、響子。あれ、持って行かなくていいの? 卒業アルバム」

 母に聞かれて、一瞬何のことかとまばたきした。母が呆れたように笑う。

「生徒にお願いされたって言ってたじゃない。小学生のときの」
「ああ……」

 そういえば、そんなこともあった。
 私は泳がせた目を、手元の湯飲みに落とした。薄緑色の水面に、私の白い顔が写っている。
 今そんなものを手にしたら、すぐに往時の橘くんを探してしまうだろう。
 そこに想い人の面影を見て、ただの過去として懐かしむ余裕は、まだなかった。

「ごめん。また……今度、持って帰るよ」
「そう? まあ、いつでもいいけど」

 母がお茶をすする。テレビの中の笑い声に、妹の笑い声が重なった。
 私と母の間に降りた一瞬の沈黙が、緊張感を孕んでたゆたう。

「そういえば……ヤスくんは元気?」

 母が言うタイミングをうかがっていたのは、そのことのようだ。
 私は「うん」とうなずいてから、「たぶん」と付け足した。

「たぶんて」

 笑ったのは妹だった。テレビを見ているものとばかり思っていたけれど、こちらの会話も聞いていたらしい。器用なものだ。
 妹はテレビ前にあぐらをかいたまま、首をひん曲げてこちらを向いた。
 都内でOLをしている日頃は、母が引くほどばっちり化粧をしているそうだけれど、外に出る予定がない今日はルームウェアにすっぴん姿だった。見るからにだらしないので、母から「あんたねぇ、正月くらいきちっとした格好しなさいよ」とお小言をもらっているが、気にした風もない。

「ヤスくんて、例のDV彼氏?」
「DVでは……ないよ」

 妹の言葉に、唇を尖らせてお茶に息を吹きかける。
 確かにちょっと、扱いが雑ではあるけど。雑用、押しつけてくることもあるし――ゴミ捨てとか。
 そんなことを、ぽつりぽつりと口にしたら、妹が呆れたように眉を寄せた。

「ゴミ捨てぇ? カノジョに? 何それ、便利屋とでも思ってんの? お姉ちゃん、それ引き受けたの?」

 ゆるい妹らしからぬ剣幕でまくしたてられて、私はうろたえる。

「でも……お礼、言ってくれたし」
「はぁ……?」

 勢い込んで横までやってきた妹が、言葉を失くして母と顔を見合わせた。

「……お姉ちゃんさ。まさかと思うけど、その人と結婚とか、考えてんの?」
「こら、昌子しょうこ

 低い声で言う妹を、母がたしなめる。妹は私と母を見比べ、「ま、私にはカンケー無いけど」と鼻を鳴らすと、またテレビの方へ行ってしまった。
 黙ってお茶をすする私に、母が気の弱そうな笑みを浮かべる。

「あなたが自分で決めたことなら、お母さんは反対しないからね」
「……うん」

 母の気遣うような微笑みは、妹の毒舌よりも胸にこたえた。
 うなずきながら飲んだお茶は、ほとんど何の味も感じなかった。

 ***

 実家から帰って来ると、久々に読書でもしようかと、本棚を眺めてみた。
 他と比べて薄い背表紙が目を引いて、そっと手を伸ばす。
 橘くんに貸した『たけくらべ』。
 遊女になるべく育った少女と、寺の僧侶として生きる少年。
 分け隔て無く遊んでいた二人が、そうと知らずに道を分かつ切なさを、ふと自分に重ね合わせてみた。
 清廉な少年の姿は、確かに橘くんと重なった。
 けれど、少女と自分を重ね合わせるには、ちょっと無理がある。
 運命に翻弄された少女とは違い、私は自分で選んで、今こうしているのだから。
 どこで、道が分かれてしまったんだろう。
 文語体のリズムをぼんやりと眺めながら、橘くんのことを考える。
 私は私なりに、真面目に、誠実に過ごしてきたつもりだった。
 誰のことも傷つけないよう、懸命に自分を殺したりもして。
 けれど、橘くんの無垢さの前では、私はずいぶん、汚れているように思えた。

 大人にならなくちゃ、と思っていた。
 大人になれば、誰しもこうなるんだと思っていた。
 それなのに、橘くんは、そうじゃなかった。どうすれば、ああも綺麗なままでいられるんだろう。
 彼は彼のまま、汚れないでいてほしい。けれど、あのままで大丈夫なんだろうか。

 諦める、鈍感になる――生が長くなるにつれ、人がそうなるには、それだけの理由がある。
 それを、橘くんは意図してかどうか、見につけないまま大人になっているように見えた。
 肩を落として話す、整った横顔を思い出し、胸が締め付けられた。
 けれど、それを心配する権利は、もう私にはない。
 支えられる力も、私にはない。
 手にした本の、最後の一文を指で辿った。
 互いに互いを想いながら、違う道を歩んでいく少女と少年――
 救いの手を差し伸べる人もなく、そのまま、物語は終わる。

 ……さよなら、橘くん。

 声は出さずに、息だけで呟いた。
 目の奥にしぶとく残っていた涙が、また一粒、頬を滑り落ちた。
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