31 / 71
.第2章 ゆめ・うつつ
31 年始
しおりを挟む
母から「おせち、作りすぎたから、戻っておいで」と控えめな誘いがあったので、年が明けて早々、実家へ向かった。
実家までは車で二十分ほどだ。近いからいつでも帰れる、と安心してしまって、逆にほとんど帰ることがない。
就職してしばらくの間は、母も気にして「どうせろくなもの食べてないんでしょ」とおかずを分けてくれたけれど、受け取りに行くのすら面倒くさくなった今は、それもすっかりご無沙汰している。
「あけましておめでとう」
「おめでとう」
「ことよろー」
テレビに向いたまま手を振るのは妹だ。「もう、昌子」と呆れた顔をすると、母はお茶を出しながら私の顔色をうかがった。
「あんた、また痩せたんじゃない? ちゃんと食べてるの?」
「食べてるよ」
主にしらすご飯、納豆ご飯、卵かけご飯の繰り返しだけど。ときどきインスタント味噌汁や冷や奴もつける――とは、褒められたものではないだろうから、心の中で付け足した。
今年から小学校の教頭になったという父は、存分に休日の惰眠を貪っているらしい。
「挨拶くらいすればいいのにね」
「いいよ。忙しいのは分かってる」
小学校と中学校の違いがあるとはいえ、だいたい生活スタイルは分かっている。私のフォローに、母が困ったような笑顔で肩をすくめた。
母と食卓でお茶をすすっている間も、妹が見ているテレビからは、空々しい笑いが聞こえてきた。
「――そういえば、響子。あれ、持って行かなくていいの? 卒業アルバム」
母に聞かれて、一瞬何のことかとまばたきした。母が呆れたように笑う。
「生徒にお願いされたって言ってたじゃない。小学生のときの」
「ああ……」
そういえば、そんなこともあった。
私は泳がせた目を、手元の湯飲みに落とした。薄緑色の水面に、私の白い顔が写っている。
今そんなものを手にしたら、すぐに往時の橘くんを探してしまうだろう。
そこに想い人の面影を見て、ただの過去として懐かしむ余裕は、まだなかった。
「ごめん。また……今度、持って帰るよ」
「そう? まあ、いつでもいいけど」
母がお茶をすする。テレビの中の笑い声に、妹の笑い声が重なった。
私と母の間に降りた一瞬の沈黙が、緊張感を孕んでたゆたう。
「そういえば……ヤスくんは元気?」
母が言うタイミングをうかがっていたのは、そのことのようだ。
私は「うん」とうなずいてから、「たぶん」と付け足した。
「たぶんて」
笑ったのは妹だった。テレビを見ているものとばかり思っていたけれど、こちらの会話も聞いていたらしい。器用なものだ。
妹はテレビ前にあぐらをかいたまま、首をひん曲げてこちらを向いた。
都内でOLをしている日頃は、母が引くほどばっちり化粧をしているそうだけれど、外に出る予定がない今日はルームウェアにすっぴん姿だった。見るからにだらしないので、母から「あんたねぇ、正月くらいきちっとした格好しなさいよ」とお小言をもらっているが、気にした風もない。
「ヤスくんて、例のDV彼氏?」
「DVでは……ないよ」
妹の言葉に、唇を尖らせてお茶に息を吹きかける。
確かにちょっと、扱いが雑ではあるけど。雑用、押しつけてくることもあるし――ゴミ捨てとか。
そんなことを、ぽつりぽつりと口にしたら、妹が呆れたように眉を寄せた。
「ゴミ捨てぇ? カノジョに? 何それ、便利屋とでも思ってんの? お姉ちゃん、それ引き受けたの?」
ゆるい妹らしからぬ剣幕でまくしたてられて、私はうろたえる。
「でも……お礼、言ってくれたし」
「はぁ……?」
勢い込んで横までやってきた妹が、言葉を失くして母と顔を見合わせた。
「……お姉ちゃんさ。まさかと思うけど、その人と結婚とか、考えてんの?」
「こら、昌子」
低い声で言う妹を、母がたしなめる。妹は私と母を見比べ、「ま、私にはカンケー無いけど」と鼻を鳴らすと、またテレビの方へ行ってしまった。
黙ってお茶をすする私に、母が気の弱そうな笑みを浮かべる。
「あなたが自分で決めたことなら、お母さんは反対しないからね」
「……うん」
母の気遣うような微笑みは、妹の毒舌よりも胸にこたえた。
うなずきながら飲んだお茶は、ほとんど何の味も感じなかった。
***
実家から帰って来ると、久々に読書でもしようかと、本棚を眺めてみた。
他と比べて薄い背表紙が目を引いて、そっと手を伸ばす。
橘くんに貸した『たけくらべ』。
遊女になるべく育った少女と、寺の僧侶として生きる少年。
分け隔て無く遊んでいた二人が、そうと知らずに道を分かつ切なさを、ふと自分に重ね合わせてみた。
清廉な少年の姿は、確かに橘くんと重なった。
けれど、少女と自分を重ね合わせるには、ちょっと無理がある。
運命に翻弄された少女とは違い、私は自分で選んで、今こうしているのだから。
どこで、道が分かれてしまったんだろう。
文語体のリズムをぼんやりと眺めながら、橘くんのことを考える。
私は私なりに、真面目に、誠実に過ごしてきたつもりだった。
誰のことも傷つけないよう、懸命に自分を殺したりもして。
けれど、橘くんの無垢さの前では、私はずいぶん、汚れているように思えた。
大人にならなくちゃ、と思っていた。
大人になれば、誰しもこうなるんだと思っていた。
それなのに、橘くんは、そうじゃなかった。どうすれば、ああも綺麗なままでいられるんだろう。
彼は彼のまま、汚れないでいてほしい。けれど、あのままで大丈夫なんだろうか。
諦める、鈍感になる――生が長くなるにつれ、人がそうなるには、それだけの理由がある。
それを、橘くんは意図してかどうか、見につけないまま大人になっているように見えた。
肩を落として話す、整った横顔を思い出し、胸が締め付けられた。
けれど、それを心配する権利は、もう私にはない。
支えられる力も、私にはない。
手にした本の、最後の一文を指で辿った。
互いに互いを想いながら、違う道を歩んでいく少女と少年――
救いの手を差し伸べる人もなく、そのまま、物語は終わる。
……さよなら、橘くん。
声は出さずに、息だけで呟いた。
目の奥にしぶとく残っていた涙が、また一粒、頬を滑り落ちた。
実家までは車で二十分ほどだ。近いからいつでも帰れる、と安心してしまって、逆にほとんど帰ることがない。
就職してしばらくの間は、母も気にして「どうせろくなもの食べてないんでしょ」とおかずを分けてくれたけれど、受け取りに行くのすら面倒くさくなった今は、それもすっかりご無沙汰している。
「あけましておめでとう」
「おめでとう」
「ことよろー」
テレビに向いたまま手を振るのは妹だ。「もう、昌子」と呆れた顔をすると、母はお茶を出しながら私の顔色をうかがった。
「あんた、また痩せたんじゃない? ちゃんと食べてるの?」
「食べてるよ」
主にしらすご飯、納豆ご飯、卵かけご飯の繰り返しだけど。ときどきインスタント味噌汁や冷や奴もつける――とは、褒められたものではないだろうから、心の中で付け足した。
今年から小学校の教頭になったという父は、存分に休日の惰眠を貪っているらしい。
「挨拶くらいすればいいのにね」
「いいよ。忙しいのは分かってる」
小学校と中学校の違いがあるとはいえ、だいたい生活スタイルは分かっている。私のフォローに、母が困ったような笑顔で肩をすくめた。
母と食卓でお茶をすすっている間も、妹が見ているテレビからは、空々しい笑いが聞こえてきた。
「――そういえば、響子。あれ、持って行かなくていいの? 卒業アルバム」
母に聞かれて、一瞬何のことかとまばたきした。母が呆れたように笑う。
「生徒にお願いされたって言ってたじゃない。小学生のときの」
「ああ……」
そういえば、そんなこともあった。
私は泳がせた目を、手元の湯飲みに落とした。薄緑色の水面に、私の白い顔が写っている。
今そんなものを手にしたら、すぐに往時の橘くんを探してしまうだろう。
そこに想い人の面影を見て、ただの過去として懐かしむ余裕は、まだなかった。
「ごめん。また……今度、持って帰るよ」
「そう? まあ、いつでもいいけど」
母がお茶をすする。テレビの中の笑い声に、妹の笑い声が重なった。
私と母の間に降りた一瞬の沈黙が、緊張感を孕んでたゆたう。
「そういえば……ヤスくんは元気?」
母が言うタイミングをうかがっていたのは、そのことのようだ。
私は「うん」とうなずいてから、「たぶん」と付け足した。
「たぶんて」
笑ったのは妹だった。テレビを見ているものとばかり思っていたけれど、こちらの会話も聞いていたらしい。器用なものだ。
妹はテレビ前にあぐらをかいたまま、首をひん曲げてこちらを向いた。
都内でOLをしている日頃は、母が引くほどばっちり化粧をしているそうだけれど、外に出る予定がない今日はルームウェアにすっぴん姿だった。見るからにだらしないので、母から「あんたねぇ、正月くらいきちっとした格好しなさいよ」とお小言をもらっているが、気にした風もない。
「ヤスくんて、例のDV彼氏?」
「DVでは……ないよ」
妹の言葉に、唇を尖らせてお茶に息を吹きかける。
確かにちょっと、扱いが雑ではあるけど。雑用、押しつけてくることもあるし――ゴミ捨てとか。
そんなことを、ぽつりぽつりと口にしたら、妹が呆れたように眉を寄せた。
「ゴミ捨てぇ? カノジョに? 何それ、便利屋とでも思ってんの? お姉ちゃん、それ引き受けたの?」
ゆるい妹らしからぬ剣幕でまくしたてられて、私はうろたえる。
「でも……お礼、言ってくれたし」
「はぁ……?」
勢い込んで横までやってきた妹が、言葉を失くして母と顔を見合わせた。
「……お姉ちゃんさ。まさかと思うけど、その人と結婚とか、考えてんの?」
「こら、昌子」
低い声で言う妹を、母がたしなめる。妹は私と母を見比べ、「ま、私にはカンケー無いけど」と鼻を鳴らすと、またテレビの方へ行ってしまった。
黙ってお茶をすする私に、母が気の弱そうな笑みを浮かべる。
「あなたが自分で決めたことなら、お母さんは反対しないからね」
「……うん」
母の気遣うような微笑みは、妹の毒舌よりも胸にこたえた。
うなずきながら飲んだお茶は、ほとんど何の味も感じなかった。
***
実家から帰って来ると、久々に読書でもしようかと、本棚を眺めてみた。
他と比べて薄い背表紙が目を引いて、そっと手を伸ばす。
橘くんに貸した『たけくらべ』。
遊女になるべく育った少女と、寺の僧侶として生きる少年。
分け隔て無く遊んでいた二人が、そうと知らずに道を分かつ切なさを、ふと自分に重ね合わせてみた。
清廉な少年の姿は、確かに橘くんと重なった。
けれど、少女と自分を重ね合わせるには、ちょっと無理がある。
運命に翻弄された少女とは違い、私は自分で選んで、今こうしているのだから。
どこで、道が分かれてしまったんだろう。
文語体のリズムをぼんやりと眺めながら、橘くんのことを考える。
私は私なりに、真面目に、誠実に過ごしてきたつもりだった。
誰のことも傷つけないよう、懸命に自分を殺したりもして。
けれど、橘くんの無垢さの前では、私はずいぶん、汚れているように思えた。
大人にならなくちゃ、と思っていた。
大人になれば、誰しもこうなるんだと思っていた。
それなのに、橘くんは、そうじゃなかった。どうすれば、ああも綺麗なままでいられるんだろう。
彼は彼のまま、汚れないでいてほしい。けれど、あのままで大丈夫なんだろうか。
諦める、鈍感になる――生が長くなるにつれ、人がそうなるには、それだけの理由がある。
それを、橘くんは意図してかどうか、見につけないまま大人になっているように見えた。
肩を落として話す、整った横顔を思い出し、胸が締め付けられた。
けれど、それを心配する権利は、もう私にはない。
支えられる力も、私にはない。
手にした本の、最後の一文を指で辿った。
互いに互いを想いながら、違う道を歩んでいく少女と少年――
救いの手を差し伸べる人もなく、そのまま、物語は終わる。
……さよなら、橘くん。
声は出さずに、息だけで呟いた。
目の奥にしぶとく残っていた涙が、また一粒、頬を滑り落ちた。
0
お気に入りに追加
61
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
お嬢様、お仕置の時間です。
moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。
両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。
私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。
私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。
両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。
新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。
私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。
海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。
しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。
海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。
しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。
隣の席の女の子がエッチだったのでおっぱい揉んでみたら発情されました
ねんごろ
恋愛
隣の女の子がエッチすぎて、思わず授業中に胸を揉んでしまったら……
という、とんでもないお話を書きました。
ぜひ読んでください。
マイナー18禁乙女ゲームのヒロインになりました
東 万里央(あずま まりお)
恋愛
十六歳になったその日の朝、私は鏡の前で思い出した。この世界はなんちゃってルネサンス時代を舞台とした、18禁乙女ゲーム「愛欲のボルジア」だと言うことに……。私はそのヒロイン・ルクレツィアに転生していたのだ。
攻略対象のイケメンは五人。ヤンデレ鬼畜兄貴のチェーザレに男の娘のジョバンニ。フェロモン侍従のペドロに影の薄いアルフォンソ。大穴の変人両刀のレオナルド……。ハハッ、ロクなヤツがいやしねえ! こうなれば修道女ルートを目指してやる!
そんな感じで涙目で爆走するルクレツィアたんのお話し。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる