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.第2章 ゆめ・うつつ

26 恋人

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 その夜、久々に早く寝ようと思った私は、鳴動したスマホに表示されたヤスくんの名前にぎくりとした。
 一日中、折りにつけヤスくんとの別れについて考えていたものだから、虫の知らせでもあったのだろうかと思ったのだ。

 ――まさか。そんなことに敏感なひとじゃないはず。

 半ば自分に言い聞かせながら、スマホを手に取った。
 動揺を落ち着けようと、ひと呼吸置いてから受話ボタンを押す。
 「もしもし」と言い終わらないうちに、例のヤスくんの口調が聞こえた。

『あー、響子ぉ? あのさ、お前、年末年始どっか行く予定あんの?』

 少なからず抱いていた罪悪感は、彼の声を聞いた瞬間、あっさりと四散した。
 伸びた語尾の気持ち悪さを考えないようにして、表情を失ったまま、デスクに置いたカレンダーを見やる。

 そうか……あと二週間で冬休みだもんね。

 スケジュールとしては頭に入っていたのだけれど、仕事の段取りばかりに気を取られて、自分の年末年始を想像してはいなかった。
 想いにふける私に気づく様子もなく、ヤスくんは続ける。

『俺、十日くらい実家に帰るんだけどさぁ。うちのゴミ出しといてくれない?』

 心がすっと冷えていくのが分かった。
 人の予定を聞いておきながら、彼の声音はいつも通り、私が断ることを想定していない。
 彼の自宅の最寄り駅は、私の自宅の最寄り駅からから三十分ほど。ドアトゥドアで一時間かかるかどうか。遠いという距離ではないけど、ただでさえバタついている年末に、わざわざ彼の家にゴミを捨てに行けというのか。
 呆れのあまり言葉を失う。同時に、思い出していた。

 ああ、そうだった。……彼はこういう人だった。

 数ヵ月のうちに、橘くんの穏やかさに慣れてしまっていたらしい。柔らかくほぐれていた心が、じわじわと固くなっていく。
 彼と向き合うには、少し、クールダウンしておく必要がある――今までであれば無意識に採っていたヤスくん用の心構えを、今さら思い出しながら、頭の片隅で答えを考えた。
 断る理由なんて、いくらでもあるはずだった。そう、断ってもいいのだ。
 私の都合も気にしない男を、大切にする理由なんてない。
 ……そう思うのに。

「……生ゴミだけは出してあげるよ。ゴミの日、いつ?」
『最後の回収日が29日みたい』
「わかった。じゃあ、その日の朝に行く」
『あー、よろしく』

 ヤスくんが言って電話を切った。
 繋がりが途絶えるや、深いため息が出る。

 嫌なら断ればよかったのに。
 という私と、
 でも、断ったらどうせ、どんな予定があるのかしつこく聞いてくるに違いない。
 という私が、耳の奥でそれぞれ呟く。

 頭には、車を出すことを断った日のことが残っていた。あのときも、仕事があるから、という断りに、あれこれ物言いをつけるものだから、連絡があまりに直前過ぎることを理由にしてようやく諦めてくれたのだ。
 だからこそ、三週間前の今連絡をしてきたに違いない。予定の有無をを聞いたところで、納得して諦めるならまだしも、自分のゴミ捨てと私の予定の優先順位を勝手に決めるか、私の負担を度外視した両立方法を指示するに違いない。
 つき合いが長くなればなるほど、どんどん卑屈に、扱いにくくなる彼のことを考えて、私は額を押さえた。

「ほんと……なにやってんだか……」

 そのまま、手で目を覆う。仕事の疲れも相まって、ずくずくと目の奥が疼いた。

 ――面倒くさい。

 彼のことが、

「面倒くさい」

 言葉を口に出してみると、思った以上に冷たい声になった。
 突き放すような。心底、嫌悪するような。

 ああ――本当に、面倒くさい。

 今までも、ヤスくんにそう思ったことは確かにあった。冗談めかして友達に言ってみたこともある。
 でも、そのときの私は、こんなにも冷たい気持ちだっただろうか。
 最初は、違った気がする。最初はそれを、彼の愛すべき欠点のように思えていた、気がする。私だけは彼のその短所を受け止めてあげられるのだと、半ば誇らしく思ったこともあった――気がする。
 思えば思うほど、彼とつき合うに至った自分自身の幼さを痛感する。
 私はヤスくんに――「彼氏」に、何を期待していたんだろう。どうなりたかったんだろう。――どう、なりたいんだろう。
 考えても空しくなるだけのような気がして思考を止めた。
 進学先も住む場所も就職も、自分なりに主体的に考えてきたつもりだった。それが、こと恋愛面に関しては、あんまり考えていなかったのかもしれない。
 右手に顎を乗せたまま、机の上に左手を伸ばし、スマホの黒い画面を撫でる。
 指輪は元より、手入れもなにもしていない指先は、紙を扱う仕事のせいで、乾燥してがさついていた。
 恋人になってから五年。
 ヤスくんと過ごす時間は――苦しい。
 でも。
 私の中の善良さが囁く。

 ――私がいなくなったら、彼は誰にゴミ捨てを頼むんだろう。

 傍若無人でありながら、その実、彼が人一倍臆病なことを知っている。潔癖なほどの理想論者だということも。いつでも孤独を感じていることも、知っている。
 そして、五年という節目に、私は思っていたはずなのだ。
 そろそろ、私たちの将来を考えてほしいと。
 ――つまり、彼からのプロポーズを期待していた。 
 冷静に考えれば、彼とのそれは自分で牢獄に入るようなものだ。私は本当にそれでいいんだろうか。本当に、望んでいるんだろうか。望んでいたんだろうか。
 目を閉じる。まぶたには、自分の手の残像が見える。
 自分の手に代わって、橘くんの手が浮かんだ。ペットボトルを2本、危なげもなく持てる大きな手。あたたかい手。
 その手が優しい顔に似ず、ゴツゴツして力強いことを、私は知っている――知ってしまった。
 目を開くと、自分の手の下には、スマホ画面が黒い光沢を放っている。
 無機質なそれは、ヤスくんの声で私の気力を奪って行くことはあっても、橘くんの声で癒してくれることはない。
 その端末をどれだけ探っても、橘くんの情報は何も入ってない。

 ――得られない。

 私が望んでも、手に入らない。
 ――手に入る、はずもない。

 黒い画面が、空虚な穴のように見えた。
 軽く頭を振り、息を吸う。

「……寝よ」

 呟いて、思考を絡め取る沈黙を破ると、少し呼吸が楽になった。
 明日は月曜日。また、一週間が始まる。
 来週もまた、橘くんは訪ねて来てくれるだろうか。どちらにしろ私は、それを心待ちにするんだろう。いつも。――いつまでも。
 スマホをデスクに置いたまま立ち上がり、部屋の電気を消した。
 布団に横になる私の耳に、師走の暗闇がしんしんと響いている。
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