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.第2章 ゆめ・うつつ
24 IDLE
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二ヶ月が経ち、冬が近づいた。
橘くんとの関係は、相変わらずだ。週に一度、土曜か日曜。長くて二時間ほど、外で話す。
ただそれだけで、何という変化も進展もない。
ヤスくんの方も、忙しいのか何なのか、珍しく連絡が途絶えていた。
車の一件を断って以来、もしかしたらふてくされているのかもしれない。でも、そのおかげで、私は彼のことを気にせず済んでいた。
橘くんと過ごす時間は、不思議だった。
一緒にいるときはゆったりしているのに、過ぎるとあっという間で。
こんな時間は、今まで一度も、経験したことがない。
橘くんと話していると、小さなことに胸がうずいた。
彼と会わずにいた十五年。私は気づかないうちに、大人になって「しまった」んだってこと。
人とのつき合い方。距離の取り方。ものごとの考え方。
橘くんのそれは不器用とも思えたし、同時に、誠実に見えた。
ひとつひとつに喜び、傷つき、悩んで、また前向きに明日を見据える。
その姿は私を勇気づけ、同時に、なあなあなまま、ただ過ぎ去るのを待つことを覚えてしまった自分に切なさも感じた。
十一月に入った頃、もう一度、連絡先を聞いてみた。
毎週会う楽しみがふくらんでいく一方で、その機会が彼の意思ひとつに任されていることが不安だった。少しでも繋がりを増やしたかったのだ。
それまでも、私の出がけに来られて、泣く泣く挨拶だけで別れたこともあった。泣く泣く――といっても、落胆しているのは私の方で、橘くん自身は、別に平気な顔をしているのだけれど。
それが土曜で、「明日のこの時間なら開いてるから」と言っても、橘くんは来てくれない。勤務の関係なのかもしれないし、顔を見せるのは週に一度だけと決めているのかも知れない。それは私には分からなかった。
不在のときに来ていることもあるんじゃないかと思ったから、「事前に連絡くれれば、時間作るから」と言ってもみたけど、橘くんは穏やかに首を振るだけだった。
「いいんだ。今のままで」
照れくさそうに、けれど嬉しそうに、橘くんはそう笑う。
彼が眩しいほど無垢に笑うたび、私の抱く罪悪感は積もった。
橘くんと一緒にいたい。
できるだけ長く、この時間を過ごしたい。
そんな想いは、二ヶ月経った今も、私に彼氏の存在を打ち明けさせずにいた。
言うタイミングを逃して。自分から話すのも自意識過剰な気がして。
理由はいくらでも浮かぶけど、それがただの言い訳であることも自覚している。
言うべきことを隠したまま、二人で過ごしている――
それがスパイスになるひともいるのだろうけれど、私にはそうではなかった。
ときが経てば経つほど、先延ばしにしている事実が、頭の隅に重く滞っていく。
楽しく充実した時間を過ごすほど、罪悪感は強まった。
それでも、やっぱり自分から言い出すことはできない。
橘くんが私を必要としてくれているなら、応えてあげたい。
今の時間を、壊したくない。
知れば不機嫌になるであろうヤスくんには、心の中でこう自己弁護をしていた。
旧友と会って、楽しく話してるだけだ。やましいことはなにもない。悪いことをしている訳じゃない。
それに、どうせ――と、私は自分に、何度となく言い聞かせている。
どうせ、この時間は今だけだ。
橘くんが、私のことを好きになることなんて、ないのだから。
きっと。絶対。
――どんなに足掻いても、私なんかに、振り向いてくれるはずがない。
あんなに素敵な男性が――私を女として求めてくれる、わけがない。
***
「じゃあ、またね」
「うん。気をつけて帰ってね」
「うん、ありがとう」
十一月の最終週、約束していた本を貸した。
橘くんは去り際にふと思い出したような顔をした。
「そうだ。来月から、来るの控えるね」
「えっ? なんでっ?」
さっと、顔から引くのが分かった。もう、私はお役御免なんだろうか。誰か他に、話を聞いてくれる人ができたんだろうか。そんな不安が一気に胸を駆け巡った。
橘くんは困ったような笑顔を浮かべて肩をすくめた。
「だってほら……師も走る季節だし……学校、忙しいかなと思って。先生って、年賀状とか、たくさん書くでしょ」
「え? あ、ああ……」
まあ、全く無くはないけれど、もうそんな慣習も過去の遺物になりつつある。昔の教師のように、百枚とか二百枚とか、そんな量ではない。
「大丈夫だよ、気にしないでいいよ」
「そうかなぁ」
橘くんは首を傾げる。その目が心配そうに、私を見下ろす。
「立花さん、無理とか駄目とか、言わなそうだから。ただでさえ、せっかくの休日なのに、俺、こんなしょっちゅう顔出してるし――迷惑……でしょ?」
ちょっと視線を逸らして聞くのは、気まずいからだろう。私ははっきりと首を横に振った。
「そんなこと、ない。全然、迷惑じゃない。ほんとだよ。嘘じゃない」
「そう?」
力強く断言すると、ようやくほっとしたらしい。ふにゃりという擬音がぴったりな笑顔に、片えくぼが浮かんだ。
「……よかった。じゃあ……また」
「うん、待ってる」
答えてから、慌てて唇をつぐんだ。
待ってる。毎週、毎週、私は橘くんとの時間を待ってる。
――きっと彼が考えているよりずっと重い感情で、私は彼を待っている。
口から転がり出たその言葉が、深い意味なく聞こえたことを祈った。
「うん。また、来るね。本、ありがとう」
見上げた橘くんの顔は、幸せそうにほころんでいた。
私もつられて笑いそうになり、同時に泣きそうになる。
どうして、橘くんはこうも、私を気にかけてくれるんだろう。
去って行く大きな背に、心の中で呼びかける。
ねえ、橘くん。
どうして毎週、私を訪ねて来るの?
私なんかと話していて、なにが楽しいの?
怖くて聞けない問いを、心の中だけで繰り返し訊ねる。
橘くんに悪意がないことは、よく分かっている。
私に好意を持ってくれていることも分かっている。
けど、ただそれだけ――それ以上ではないはずだ。
それ以上――女としての好意、ではない。友人としての好意。
だから、期待なんてしちゃいけない。
この二ヶ月、何度も何度も自分に言い聞かせた言葉を、再び繰り返した。
橘くんが訪れてくれなければ、私たちの関係はそこまでだ。
私の気持ちを悟られて、重いと思われてはいけない。
それなのに――橘くんの顔を見る度、言葉を交わす度に、想いは募り、ふくらんでいく。
胸の奥に埋まった種が、肉を割いて芽を出そうとしているのを、私はすんでのところで押し込んでいる。
私には、過ぎた人だ。
分かってる。分かっている。
これは、憧れ。
手の届かない、アイドルへの、ただの、憧れだ。
ただの――
橘くんとの関係は、相変わらずだ。週に一度、土曜か日曜。長くて二時間ほど、外で話す。
ただそれだけで、何という変化も進展もない。
ヤスくんの方も、忙しいのか何なのか、珍しく連絡が途絶えていた。
車の一件を断って以来、もしかしたらふてくされているのかもしれない。でも、そのおかげで、私は彼のことを気にせず済んでいた。
橘くんと過ごす時間は、不思議だった。
一緒にいるときはゆったりしているのに、過ぎるとあっという間で。
こんな時間は、今まで一度も、経験したことがない。
橘くんと話していると、小さなことに胸がうずいた。
彼と会わずにいた十五年。私は気づかないうちに、大人になって「しまった」んだってこと。
人とのつき合い方。距離の取り方。ものごとの考え方。
橘くんのそれは不器用とも思えたし、同時に、誠実に見えた。
ひとつひとつに喜び、傷つき、悩んで、また前向きに明日を見据える。
その姿は私を勇気づけ、同時に、なあなあなまま、ただ過ぎ去るのを待つことを覚えてしまった自分に切なさも感じた。
十一月に入った頃、もう一度、連絡先を聞いてみた。
毎週会う楽しみがふくらんでいく一方で、その機会が彼の意思ひとつに任されていることが不安だった。少しでも繋がりを増やしたかったのだ。
それまでも、私の出がけに来られて、泣く泣く挨拶だけで別れたこともあった。泣く泣く――といっても、落胆しているのは私の方で、橘くん自身は、別に平気な顔をしているのだけれど。
それが土曜で、「明日のこの時間なら開いてるから」と言っても、橘くんは来てくれない。勤務の関係なのかもしれないし、顔を見せるのは週に一度だけと決めているのかも知れない。それは私には分からなかった。
不在のときに来ていることもあるんじゃないかと思ったから、「事前に連絡くれれば、時間作るから」と言ってもみたけど、橘くんは穏やかに首を振るだけだった。
「いいんだ。今のままで」
照れくさそうに、けれど嬉しそうに、橘くんはそう笑う。
彼が眩しいほど無垢に笑うたび、私の抱く罪悪感は積もった。
橘くんと一緒にいたい。
できるだけ長く、この時間を過ごしたい。
そんな想いは、二ヶ月経った今も、私に彼氏の存在を打ち明けさせずにいた。
言うタイミングを逃して。自分から話すのも自意識過剰な気がして。
理由はいくらでも浮かぶけど、それがただの言い訳であることも自覚している。
言うべきことを隠したまま、二人で過ごしている――
それがスパイスになるひともいるのだろうけれど、私にはそうではなかった。
ときが経てば経つほど、先延ばしにしている事実が、頭の隅に重く滞っていく。
楽しく充実した時間を過ごすほど、罪悪感は強まった。
それでも、やっぱり自分から言い出すことはできない。
橘くんが私を必要としてくれているなら、応えてあげたい。
今の時間を、壊したくない。
知れば不機嫌になるであろうヤスくんには、心の中でこう自己弁護をしていた。
旧友と会って、楽しく話してるだけだ。やましいことはなにもない。悪いことをしている訳じゃない。
それに、どうせ――と、私は自分に、何度となく言い聞かせている。
どうせ、この時間は今だけだ。
橘くんが、私のことを好きになることなんて、ないのだから。
きっと。絶対。
――どんなに足掻いても、私なんかに、振り向いてくれるはずがない。
あんなに素敵な男性が――私を女として求めてくれる、わけがない。
***
「じゃあ、またね」
「うん。気をつけて帰ってね」
「うん、ありがとう」
十一月の最終週、約束していた本を貸した。
橘くんは去り際にふと思い出したような顔をした。
「そうだ。来月から、来るの控えるね」
「えっ? なんでっ?」
さっと、顔から引くのが分かった。もう、私はお役御免なんだろうか。誰か他に、話を聞いてくれる人ができたんだろうか。そんな不安が一気に胸を駆け巡った。
橘くんは困ったような笑顔を浮かべて肩をすくめた。
「だってほら……師も走る季節だし……学校、忙しいかなと思って。先生って、年賀状とか、たくさん書くでしょ」
「え? あ、ああ……」
まあ、全く無くはないけれど、もうそんな慣習も過去の遺物になりつつある。昔の教師のように、百枚とか二百枚とか、そんな量ではない。
「大丈夫だよ、気にしないでいいよ」
「そうかなぁ」
橘くんは首を傾げる。その目が心配そうに、私を見下ろす。
「立花さん、無理とか駄目とか、言わなそうだから。ただでさえ、せっかくの休日なのに、俺、こんなしょっちゅう顔出してるし――迷惑……でしょ?」
ちょっと視線を逸らして聞くのは、気まずいからだろう。私ははっきりと首を横に振った。
「そんなこと、ない。全然、迷惑じゃない。ほんとだよ。嘘じゃない」
「そう?」
力強く断言すると、ようやくほっとしたらしい。ふにゃりという擬音がぴったりな笑顔に、片えくぼが浮かんだ。
「……よかった。じゃあ……また」
「うん、待ってる」
答えてから、慌てて唇をつぐんだ。
待ってる。毎週、毎週、私は橘くんとの時間を待ってる。
――きっと彼が考えているよりずっと重い感情で、私は彼を待っている。
口から転がり出たその言葉が、深い意味なく聞こえたことを祈った。
「うん。また、来るね。本、ありがとう」
見上げた橘くんの顔は、幸せそうにほころんでいた。
私もつられて笑いそうになり、同時に泣きそうになる。
どうして、橘くんはこうも、私を気にかけてくれるんだろう。
去って行く大きな背に、心の中で呼びかける。
ねえ、橘くん。
どうして毎週、私を訪ねて来るの?
私なんかと話していて、なにが楽しいの?
怖くて聞けない問いを、心の中だけで繰り返し訊ねる。
橘くんに悪意がないことは、よく分かっている。
私に好意を持ってくれていることも分かっている。
けど、ただそれだけ――それ以上ではないはずだ。
それ以上――女としての好意、ではない。友人としての好意。
だから、期待なんてしちゃいけない。
この二ヶ月、何度も何度も自分に言い聞かせた言葉を、再び繰り返した。
橘くんが訪れてくれなければ、私たちの関係はそこまでだ。
私の気持ちを悟られて、重いと思われてはいけない。
それなのに――橘くんの顔を見る度、言葉を交わす度に、想いは募り、ふくらんでいく。
胸の奥に埋まった種が、肉を割いて芽を出そうとしているのを、私はすんでのところで押し込んでいる。
私には、過ぎた人だ。
分かってる。分かっている。
これは、憧れ。
手の届かない、アイドルへの、ただの、憧れだ。
ただの――
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