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.第2章 ゆめ・うつつ

23 種を蒔く君

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 この日を境に、橘くんはほぼ毎週、うちに来てくれるようになった。
 来訪は、土曜のときもあれば日曜のときもある。たぶん、勤務との兼ね合いなのだろう。
 私の都合に配慮してくれているのか、時間は正午前後のことが多かった。
 午後に部活があるときには、ほとんど話せないこともある。それでも、私の顔を見るだけで、ほわりと笑顔になる橘くんは、正直、教え子と同じかそれ以上に可愛く見えた。
 無邪気な好意を示されて、私だって嬉しくないはずもない。二週間も続くと、翌週には彼の来訪を心待ちにするようになり、土曜に会えなければ今週は来ないのかと気落ちしたりもした。
 とはいえ、酔ってうちに泊まったあの日以降、橘くんは家の中に入ろうとしない。「忙しい?」と私の予定を確認した上で、「女性の家に上がるのは申し訳ないから」と外に誘い出してくれる。
 近くの公園でお茶をしたり、カフェでお昼を一緒に食べたり、ただぶらぶらと散歩したり。
 何ということのない会話を交わすこともあれば、黙って歩くこともある。
 橘くんとの沈黙は、不思議なほど居心地がよかった。

 もともとよく話す方ではない橘くんだけれど、外では仕事のことを話さない主義なのか、愚痴を聞くことはなくなった。
 そうなると、話題は自然と家族の話や学生時代のことになる。
 会わなかった十五年間を埋めるように、身近な出来事を話した。
 特に家族の話は、嬉しそうに話してくれるし聞いてくれる。
 前に聞いていた妹さんの結婚以外にも、弟さんが都内の区役所に勤めていること、じき退職するお父さんが鎌倉で小さなカフェを始めようとしていること、非番の日はだいたい老人ホームにいるおばあさんを訪ねていること――
 彼から聞く家族の話は、とても自然で、暖かかった。家族を貶めるような感情は露ほども感じられなくて、それは会話する私の気持ちをも、安心させてくれる。
 ゆんちゃんだか紀美だかは、「ガードが固い」と言っていた気がするけれど、話しているとそんなこともない。橘くん自身は、他人に壁を作ったりしなくて、それは昔から変わらないことの一つだ。
 大学の話になったとき、橘くんは興味ありげな視線を私に向けた。

「立花さん、担当教科が国語でも、専攻はあるんでしょ。卒論は何だったの?」
「えーと……一応、樋口一葉」

 答えると、橘くんが「『たけくらべ』」と代表作の名前を口にする。うなずくと、「文学史とか、懐かしい」と頬を緩ませた。

「樋口一葉……五千円札になったのは意外だったね。あとは……母性保護論争……は平塚らいてうか」
「ふふ、そうだね」

 よくそんなこと知ってるね、と言うと、気恥ずかしそうに後ろ頭を掻いた。

「おば二人が女子大出身で、文系だったから。酔っ払って、熱く語り合ってたのが印象的で」
「へぇ」

 酔ってそんな話をするだなんて、まるで学生みたい。面白い親戚だ。

「どんな話してたんだろ、気になる」
「うん、俺も気になる。聞いたのは子どものときだったし、あのときはよく分かんなかったから」

 子どものときに聞いて、キーワードを覚えていたというのもすごい。さすがは橘くんだ。
 一方的に聞かれるのもどうかと気づき、「橘くんは?」と聞いてみた。

「えーと……災害救助法に関すること、かな」
「法学部だったの?」
「うん、まあ……」

 そんなとこ、と言葉を濁される。はぁ、と感嘆の声を漏らした。

「すごいね」
「え? いや、まだ何も言ってないよ」
「いや、なんか……法律ってだけですごい」

 私にとっては未知の領域だ。感覚じゃなくて、頭で理解する文章っていうのは、なんともこう、システマチックで理系的で。
 そう言うと、返ってきたのは笑いだった。

「すごいことじゃないよ。結局、今の仕事に通じるっていうか。公助、自助、共助の各国比較と、そのための法整備とか、その考え方とか……そういうのに、興味があって」
「はぁ……」

 考えたこともないテーマだから、自然と自分の目が丸くなる。
 ついでに、橘くんがいつも以上にきらきらして見えた。
 ついつい、鍛えられた身体の方に意識が向いてしまうけど、考えてみたらそうだよね、成績だってよかったんだもの。博学に違いない。
 そう思って見ていたから、尊敬のまなざし、ってやつになっていたのかもしれない。橘くんは、照れたように頬を掻いた。

「……あの、えと。ほんと、そんなすごいことしてないからね。俺からしたら、立花さんの方がすごいよ。――どうして、樋口一葉だったの?」
「えっ? えーと」

 再び聞かれて、自分のことに意識を戻す。考え考え言葉を紡いだ。

「何だろ……文語体のリズムがいいなーっていうのもあるし……なかなか女性が認められない社会で、評価されたっていうのもすごいと思うし……」

 橘くんは、ふぅん、と柔らかいあいづちを打った。それが先を促すものだと分かって、おずおずと先を続ける。

「一葉は……あんまり裕福な家じゃなくってね。高等教育は受けてないの。学のある女っていうのは、うとまれる時代だったし……」

 って、それは今でもそうか――と、脳裏をよぎったヤスくんの顔は、まばたきをして意識から払う。

「それでも、筆一本で……上流階級の人とも縁をつくって、認められて……かといって、私には世渡り上手になれたようにも見えないんだ。根は素朴な、田舎娘って感じで」

 そこに、ちょっと共感するのかもしれない。話しながらそう気づいた。
 不器用で、自分のすべきことに一途であろうとしたひと。
 恋よりも、家族のために仕事を選び、早世した作家――

「そっかぁ。樋口一葉……まだ、読んだことないな。『たけくらべ』って、悲恋の話なんだっけ?」
「あ、うん。まあ、そう読むこともできるんだけど……社会に翻弄される子どもたちの話、ていう方が近いかな。やっぱり世の中の歪みって、子どもたちに影響するよなって、身につまされる感じもあって……」
「教師として、考えさせられる?」
「うん、そうかも」

 なんだか、ついつい話しすぎてしまった。私は取りつくろうように笑って、橘くんを見上げる。

「でも、こんな話、しても楽しくないでしょ」
「なんで?」

 橘くんはの口からは、ためらいもなく言葉が続いた。

「自分が学べることって、限界があるからさ。人が学んだことを聞けるのって、なんか、ちょっと得した気分になるよね。新しい世界っていうか。それが、誰かとの会話の醍醐味じゃないかな」

 ふっ、と、息が止まった。話す彼の横顔には、力みがない。本音を口にしているだけだと分かる。
 橘くんは、当然のように私の世界に歩み寄ってくれるのか。
 ヤスくんは……私が知識を披露したとたん、憎悪するような目で見てくるのに。
 止めていた息を、ゆっくり吐き出す。
 橘くんは無邪気に「樋口一葉かぁ」と繰り返す。

「今度、読んでみようかな。俺、あんまり小説とか読まないんだけど、理解できるかな。……有名な作品だし、図書館にある?」
「え、あの……もしよければ私、持ってるから貸せるけど……」
「ほんと?」

 私を見下ろす柔らかな笑み。
 本当に読みたいと思っているんだろうか。それとも、話を合わせてくれているだけだろうか。
 取りつくろっているようには見えないけれど、あまりに優しく流れる会話に、それが本音と思っていいのか判断に迷う。
 ヤスくんなら絶対にありえないことだから、取るべき態度がわからなかった。
 思えば、優しい橘くんのことだ。私の話に水を差さないように、会話を続けてくれているだけかもしれない。
 そうだ、そうに違いない。それなのに、押し売りしちゃ申し訳ない。だいたい――

 迷惑がられては、もう来てくれなくなるかもしれない。

 それが、一番の本音だった。
 何かにつけ頭に浮かぶ打算が、私をますます、いたたまれない気分にさせる。

「あの……そんな、無理しなくていいよ。読みやすい本じゃないし、どっちかっていうと暗い話だし、人との話題が広がるほどメジャーでもないし……」
「ううん、嬉しいよ」

 取りつくろう私の早口を、橘くんはにこにこしながら遮った。

「本との出会いもさ、人と同じで、一期一会だと思うんだ。だって、世の中、読み切れないくらいに本があるじゃない。それが、近しい人に勧めてもらったら、じゃあ読んでみようかな、ってなるよね。ちょっと、身近な本になるっていうか。それって、いいなって思うんだ」

 ――近しい人。
 さらっと口にされたその言葉が、心にまっすぐ、落ちてくる。
 私の中の柔らかなところに、ずぶずぶと埋まっていく。
 私は、橘くんの近しい人、になれているんだろうか――
 橘くんの言葉はいつも、不意打ちすぎて、私にガードする隙を与えてくれない。

「そ、そう……かもね」

 心の奥に埋まったその種は、橘くんと会う度にじわじわと膨らみ、芽を出そうとする。
 私はそれを、理性で無理矢理押さえつけている。
 その芽の生長を、素直に喜んでいいのか、分からない。
 分からないのに、ただひたすらに、橘くんとの週一の逢瀬を心待ちにする――この平穏が、いつまでも続けばいいと願いながら。
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