5 / 71
.第1章 憧れ
05 お節介
しおりを挟む
お盆が明けると、夏休みも終わりに近い。
子どもたちは宿題のラストスパートをかけているらしく、部活の後に居残ることはなくなった。
夏休み中も教師は仕事だけれど、比較的休みが取りやすくなる。まだ休暇が消化しきれていないので、夏休みの最後に少し息抜きでもしようと、午前中の部活の後で、半休をとった。
足を向けたのは、都内の国立博物館だ。源氏物語に関する企画展があると知って、たまには行ってみようと思い立ったのだ。
大学で専攻したのは近代文学だったけれど、国語という教科を担当している身としては興味がある。
そうは言っても、何も無ければ、片道一時間をかけて足を運ぶほどではなかっただろう。
本音を言えば、ついでの用を作りたかったのだ。
旅行の終わりに預かった、ヤスくんの服。それが、洗い終えたまま家にあった。
部屋の中で目につくたびに、ヤスくんの顔がちらついた。せめて夏の間に届けなくては、また文句を言われるだろうと気になっていたのだ。
ヤスくんは予定があると聞いていたから、預かっていた鍵で家に入った。
玄関先に服を置き、雑多な部屋を少しだけ片付けて博物館へ向かう。
お盆とずらしたからもう少し空いていることを期待したけれど、博物館は思った以上の人混みだった。展示を見に来たのか、人に揉まれに来たのか分からない。それでもとりあえず見るべきものは見て、帰路についた。
都内に通っていた頃は何ともなかったのに、この程度で人いきれするなんて。
急に老いたようにすら感じる。
地元でも、駅周辺は人が多い。けれど、仕事を始めて以降、自家用車で周辺を行き来するだけの生活をしているから、不慣れになっているのは間違いなかった。
味気ない日々に半ば反省しながら、自宅までの道を歩いていく。
家を前にしたとき、時計はまだ午後六時を示していた。日が落ちるのが早まってきたとはいえ、まだ外は明るい。
気乗りしない用を片付けた開放感と、博物館で知的好奇心を満たした満足感で、気分は軽かった。
ちょっとはしゃれた一日になったし。
自己満足に浸る。
小さく歌でも歌いたい気分だ。
ヤスくんの服がなくなった部屋を思い浮かべて、ふと口元が緩む。
久々に、自炊でもしようかな。
冷蔵庫に何があったか思い出そうとして、やめる。どうせ、これという食材は入っていない。
まだ明るいし、買い物に行ってもいいかもしれない。そう思っていたら、スマホが鳴った。
手にした瞬間目に入った、ヤスくんの名前に眉を寄せる。
何だろう。
不安と困惑が脳裏をよぎった。
かかってくるとしたら、服のことか。まさか、ヤスくんがお礼のために電話してくるとも思えないけれど――
『響子。お前、俺の部屋、勝手に片付けた?』
受話ボタンをタップしたとたん、彼のとげとげしい声がした。
軽やかに弾んでいた腹の奥が、ずんと重くなっていく。
彼のいらだちを助長しないよう、慎重に言葉を選んで口にした。
「片付けた……ってほどじゃないよ。目につくゴミをゴミ箱に捨てたら、ゴミ箱がいっぱいだったから、袋変えただけ……」
『ゴミって何だよ』
「丸まって転がってた紙とか……レシートじゃないかな」
『馬鹿野郎!』
苛立ったような怒号に、電話越しとはいえ肩が震えた。
『くっそ。じゃあゴミの中から探さないといけないのかよ……』
「……なにを?」
ぶつぶつ言うヤスくんに、おそるおそる訊ねる。
『こないだ買ったパンツ、直してもらったはずの裾の長さが合わねぇの! 返品しようと思ったんだよ!』
裾直しをしたパンツなんて、返品できるんだろうか。
よぎった考えは、口には出さない。彼を不機嫌にするだけだろう。
「そ、そっか……」
『レシートないと返品できないだろ。――ったく、なんで俺が、ゴミあさりなんかしなきゃいけねぇんだよ。しかもご丁寧に袋までくくりやがって……このお節介』
こうなると、ヤスくんの不満は永遠に続く。私は目を閉じた。まぶたの裏に、昼に見た彼の部屋を思い出してみる。
物があふれかえり、服があちこちに四散した、雑多な部屋。
きっと、彼の頭の中もこんな風なんだろう――そう納得したことを思い出す。
大事なモノも、捨てるべきモノも、なんの秩序もなくただそこにある。それで、彼は居心地がいいのだろうか。――少なくとも、私だったら苦痛でしかない。
『今後、俺の部屋のものに勝手に触んな。いいか!?』
「……わかった」
『言うのはそれだけかよ!?』
鍵は返したから、もう勝手に入ったりしないよ。
そう言いたかったけれど、言うのはやめた。
私は一度息を飲み込んで、小さな声で吐き出した。
「ごめん」
ヤスくんはふんと鼻で息をついて電話を切った。私はスマホを持つ手を力なく下ろし、ふぅー、と息を吐き出す。
閉じたまぶたの裏には、玄関先に置いた紙袋が浮かんでいた。
旅行の初日に、彼が着ていた服。
私が洗濯して、畳んだ服。
わざわざ足を運んで、家まで届けた、服。
一言のお礼すら、ない。
期待なんてしないつもりだったのに、改めて虚しさが胸にしみた。
最後にお礼を言われたのなんて、いつだっけ。
ふっとそんな問いが浮かぶや、次いで笑いがこみ上げてきた。
「……馬鹿みたい」
いったい、何を期待してるんだか。
相手はヤスくんなのに。
くすくす笑いながら、私は顔を上げた。
自宅のマンションはもう目の前に見えている。まだ、日は落ちきっていない。
一度帰宅するつもりだったけれど、気が変わった。今、ひとりになったらろくでもないことばかり考えてしまいそうだ。
「買い物、行こ」
思考をヤスくんから切り離すために、あえて口に出してみた。
冷蔵庫も冷凍庫も空っぽだ。一週間分の買い物ついでに、夕飯も食べて帰って来よう。
夏休みももう終わる。有給を使えるタイミングは、またしばらく先になるだろう。それなら、今日は少し自分を甘やかしてもいいんじゃないか。新学期に備えて――
頭の中で、早口の言い訳が過ぎて行く。考えない、考えない。ヤスくんのことは。
私が考えたって、どうせ何の意味も無いんだから。
子どもたちは宿題のラストスパートをかけているらしく、部活の後に居残ることはなくなった。
夏休み中も教師は仕事だけれど、比較的休みが取りやすくなる。まだ休暇が消化しきれていないので、夏休みの最後に少し息抜きでもしようと、午前中の部活の後で、半休をとった。
足を向けたのは、都内の国立博物館だ。源氏物語に関する企画展があると知って、たまには行ってみようと思い立ったのだ。
大学で専攻したのは近代文学だったけれど、国語という教科を担当している身としては興味がある。
そうは言っても、何も無ければ、片道一時間をかけて足を運ぶほどではなかっただろう。
本音を言えば、ついでの用を作りたかったのだ。
旅行の終わりに預かった、ヤスくんの服。それが、洗い終えたまま家にあった。
部屋の中で目につくたびに、ヤスくんの顔がちらついた。せめて夏の間に届けなくては、また文句を言われるだろうと気になっていたのだ。
ヤスくんは予定があると聞いていたから、預かっていた鍵で家に入った。
玄関先に服を置き、雑多な部屋を少しだけ片付けて博物館へ向かう。
お盆とずらしたからもう少し空いていることを期待したけれど、博物館は思った以上の人混みだった。展示を見に来たのか、人に揉まれに来たのか分からない。それでもとりあえず見るべきものは見て、帰路についた。
都内に通っていた頃は何ともなかったのに、この程度で人いきれするなんて。
急に老いたようにすら感じる。
地元でも、駅周辺は人が多い。けれど、仕事を始めて以降、自家用車で周辺を行き来するだけの生活をしているから、不慣れになっているのは間違いなかった。
味気ない日々に半ば反省しながら、自宅までの道を歩いていく。
家を前にしたとき、時計はまだ午後六時を示していた。日が落ちるのが早まってきたとはいえ、まだ外は明るい。
気乗りしない用を片付けた開放感と、博物館で知的好奇心を満たした満足感で、気分は軽かった。
ちょっとはしゃれた一日になったし。
自己満足に浸る。
小さく歌でも歌いたい気分だ。
ヤスくんの服がなくなった部屋を思い浮かべて、ふと口元が緩む。
久々に、自炊でもしようかな。
冷蔵庫に何があったか思い出そうとして、やめる。どうせ、これという食材は入っていない。
まだ明るいし、買い物に行ってもいいかもしれない。そう思っていたら、スマホが鳴った。
手にした瞬間目に入った、ヤスくんの名前に眉を寄せる。
何だろう。
不安と困惑が脳裏をよぎった。
かかってくるとしたら、服のことか。まさか、ヤスくんがお礼のために電話してくるとも思えないけれど――
『響子。お前、俺の部屋、勝手に片付けた?』
受話ボタンをタップしたとたん、彼のとげとげしい声がした。
軽やかに弾んでいた腹の奥が、ずんと重くなっていく。
彼のいらだちを助長しないよう、慎重に言葉を選んで口にした。
「片付けた……ってほどじゃないよ。目につくゴミをゴミ箱に捨てたら、ゴミ箱がいっぱいだったから、袋変えただけ……」
『ゴミって何だよ』
「丸まって転がってた紙とか……レシートじゃないかな」
『馬鹿野郎!』
苛立ったような怒号に、電話越しとはいえ肩が震えた。
『くっそ。じゃあゴミの中から探さないといけないのかよ……』
「……なにを?」
ぶつぶつ言うヤスくんに、おそるおそる訊ねる。
『こないだ買ったパンツ、直してもらったはずの裾の長さが合わねぇの! 返品しようと思ったんだよ!』
裾直しをしたパンツなんて、返品できるんだろうか。
よぎった考えは、口には出さない。彼を不機嫌にするだけだろう。
「そ、そっか……」
『レシートないと返品できないだろ。――ったく、なんで俺が、ゴミあさりなんかしなきゃいけねぇんだよ。しかもご丁寧に袋までくくりやがって……このお節介』
こうなると、ヤスくんの不満は永遠に続く。私は目を閉じた。まぶたの裏に、昼に見た彼の部屋を思い出してみる。
物があふれかえり、服があちこちに四散した、雑多な部屋。
きっと、彼の頭の中もこんな風なんだろう――そう納得したことを思い出す。
大事なモノも、捨てるべきモノも、なんの秩序もなくただそこにある。それで、彼は居心地がいいのだろうか。――少なくとも、私だったら苦痛でしかない。
『今後、俺の部屋のものに勝手に触んな。いいか!?』
「……わかった」
『言うのはそれだけかよ!?』
鍵は返したから、もう勝手に入ったりしないよ。
そう言いたかったけれど、言うのはやめた。
私は一度息を飲み込んで、小さな声で吐き出した。
「ごめん」
ヤスくんはふんと鼻で息をついて電話を切った。私はスマホを持つ手を力なく下ろし、ふぅー、と息を吐き出す。
閉じたまぶたの裏には、玄関先に置いた紙袋が浮かんでいた。
旅行の初日に、彼が着ていた服。
私が洗濯して、畳んだ服。
わざわざ足を運んで、家まで届けた、服。
一言のお礼すら、ない。
期待なんてしないつもりだったのに、改めて虚しさが胸にしみた。
最後にお礼を言われたのなんて、いつだっけ。
ふっとそんな問いが浮かぶや、次いで笑いがこみ上げてきた。
「……馬鹿みたい」
いったい、何を期待してるんだか。
相手はヤスくんなのに。
くすくす笑いながら、私は顔を上げた。
自宅のマンションはもう目の前に見えている。まだ、日は落ちきっていない。
一度帰宅するつもりだったけれど、気が変わった。今、ひとりになったらろくでもないことばかり考えてしまいそうだ。
「買い物、行こ」
思考をヤスくんから切り離すために、あえて口に出してみた。
冷蔵庫も冷凍庫も空っぽだ。一週間分の買い物ついでに、夕飯も食べて帰って来よう。
夏休みももう終わる。有給を使えるタイミングは、またしばらく先になるだろう。それなら、今日は少し自分を甘やかしてもいいんじゃないか。新学期に備えて――
頭の中で、早口の言い訳が過ぎて行く。考えない、考えない。ヤスくんのことは。
私が考えたって、どうせ何の意味も無いんだから。
0
お気に入りに追加
61
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
お嬢様、お仕置の時間です。
moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。
両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。
私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。
私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。
両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。
新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。
私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。
海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。
しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。
海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。
しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。
【R-18】クリしつけ
蛙鳴蝉噪
恋愛
男尊女卑な社会で女の子がクリトリスを使って淫らに教育されていく日常の一コマ。クリ責め。クリリード。なんでもありでアブノーマルな内容なので、精神ともに18歳以上でなんでも許せる方のみどうぞ。
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる