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.第1章 憧れ

05 お節介

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 お盆が明けると、夏休みも終わりに近い。
 子どもたちは宿題のラストスパートをかけているらしく、部活の後に居残ることはなくなった。
 夏休み中も教師は仕事だけれど、比較的休みが取りやすくなる。まだ休暇が消化しきれていないので、夏休みの最後に少し息抜きでもしようと、午前中の部活の後で、半休をとった。
 足を向けたのは、都内の国立博物館だ。源氏物語に関する企画展があると知って、たまには行ってみようと思い立ったのだ。
 大学で専攻したのは近代文学だったけれど、国語という教科を担当している身としては興味がある。
 そうは言っても、何も無ければ、片道一時間をかけて足を運ぶほどではなかっただろう。
 本音を言えば、ついでの用を作りたかったのだ。
 旅行の終わりに預かった、ヤスくんの服。それが、洗い終えたまま家にあった。
 部屋の中で目につくたびに、ヤスくんの顔がちらついた。せめて夏の間に届けなくては、また文句を言われるだろうと気になっていたのだ。
 ヤスくんは予定があると聞いていたから、預かっていた鍵で家に入った。
 玄関先に服を置き、雑多な部屋を少しだけ片付けて博物館へ向かう。
 お盆とずらしたからもう少し空いていることを期待したけれど、博物館は思った以上の人混みだった。展示を見に来たのか、人に揉まれに来たのか分からない。それでもとりあえず見るべきものは見て、帰路についた。
 都内に通っていた頃は何ともなかったのに、この程度で人いきれするなんて。
 急に老いたようにすら感じる。
 地元でも、駅周辺は人が多い。けれど、仕事を始めて以降、自家用車で周辺を行き来するだけの生活をしているから、不慣れになっているのは間違いなかった。
 味気ない日々に半ば反省しながら、自宅までの道を歩いていく。
 家を前にしたとき、時計はまだ午後六時を示していた。日が落ちるのが早まってきたとはいえ、まだ外は明るい。
 気乗りしない用を片付けた開放感と、博物館で知的好奇心を満たした満足感で、気分は軽かった。
 ちょっとはしゃれた一日になったし。
 自己満足に浸る。
 小さく歌でも歌いたい気分だ。
 ヤスくんの服がなくなった部屋を思い浮かべて、ふと口元が緩む。
 久々に、自炊でもしようかな。
 冷蔵庫に何があったか思い出そうとして、やめる。どうせ、これという食材は入っていない。
 まだ明るいし、買い物に行ってもいいかもしれない。そう思っていたら、スマホが鳴った。
 手にした瞬間目に入った、ヤスくんの名前に眉を寄せる。
 何だろう。
 不安と困惑が脳裏をよぎった。
 かかってくるとしたら、服のことか。まさか、ヤスくんがお礼のために電話してくるとも思えないけれど――

『響子。お前、俺の部屋、勝手に片付けた?』

 受話ボタンをタップしたとたん、彼のとげとげしい声がした。
 軽やかに弾んでいた腹の奥が、ずんと重くなっていく。
 彼のいらだちを助長しないよう、慎重に言葉を選んで口にした。

「片付けた……ってほどじゃないよ。目につくゴミをゴミ箱に捨てたら、ゴミ箱がいっぱいだったから、袋変えただけ……」
『ゴミって何だよ』
「丸まって転がってた紙とか……レシートじゃないかな」
『馬鹿野郎!』

 苛立ったような怒号に、電話越しとはいえ肩が震えた。

『くっそ。じゃあゴミの中から探さないといけないのかよ……』
「……なにを?」

 ぶつぶつ言うヤスくんに、おそるおそる訊ねる。

『こないだ買ったパンツ、直してもらったはずの裾の長さが合わねぇの! 返品しようと思ったんだよ!』

 裾直しをしたパンツなんて、返品できるんだろうか。
 よぎった考えは、口には出さない。彼を不機嫌にするだけだろう。

「そ、そっか……」
『レシートないと返品できないだろ。――ったく、なんで俺が、ゴミあさりなんかしなきゃいけねぇんだよ。しかもご丁寧に袋までくくりやがって……このお節介』

 こうなると、ヤスくんの不満は永遠に続く。私は目を閉じた。まぶたの裏に、昼に見た彼の部屋を思い出してみる。
 物があふれかえり、服があちこちに四散した、雑多な部屋。
 きっと、彼の頭の中もこんな風なんだろう――そう納得したことを思い出す。
 大事なモノも、捨てるべきモノも、なんの秩序もなくただそこにある。それで、彼は居心地がいいのだろうか。――少なくとも、私だったら苦痛でしかない。

『今後、俺の部屋のものに勝手に触んな。いいか!?』
「……わかった」
『言うのはそれだけかよ!?』

 鍵は返したから、もう勝手に入ったりしないよ。
 そう言いたかったけれど、言うのはやめた。
 私は一度息を飲み込んで、小さな声で吐き出した。

「ごめん」

 ヤスくんはふんと鼻で息をついて電話を切った。私はスマホを持つ手を力なく下ろし、ふぅー、と息を吐き出す。
 閉じたまぶたの裏には、玄関先に置いた紙袋が浮かんでいた。
 旅行の初日に、彼が着ていた服。
 私が洗濯して、畳んだ服。
 わざわざ足を運んで、家まで届けた、服。

 一言のお礼すら、ない。

 期待なんてしないつもりだったのに、改めて虚しさが胸にしみた。

 最後にお礼を言われたのなんて、いつだっけ。

 ふっとそんな問いが浮かぶや、次いで笑いがこみ上げてきた。

「……馬鹿みたい」

 いったい、何を期待してるんだか。
 相手はヤスくんなのに。
 くすくす笑いながら、私は顔を上げた。
 自宅のマンションはもう目の前に見えている。まだ、日は落ちきっていない。
 一度帰宅するつもりだったけれど、気が変わった。今、ひとりになったらろくでもないことばかり考えてしまいそうだ。

「買い物、行こ」

 思考をヤスくんから切り離すために、あえて口に出してみた。
 冷蔵庫も冷凍庫も空っぽだ。一週間分の買い物ついでに、夕飯も食べて帰って来よう。
 夏休みももう終わる。有給を使えるタイミングは、またしばらく先になるだろう。それなら、今日は少し自分を甘やかしてもいいんじゃないか。新学期に備えて――
 頭の中で、早口の言い訳が過ぎて行く。考えない、考えない。ヤスくんのことは。
 私が考えたって、どうせ何の意味も無いんだから。
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