初恋旅行に出かけます

松丹子

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第四部

16 行ってらっしゃい。行ってきます。

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 山ちゃんと私は、一つのベッドに横になった。
 仰向けになった山ちゃんの腕に抱き着いて、ときどき思い出したように声をかけてみたけど、その返事が段々ぼんやりして来るのが分かって、私は黙った。
 山ちゃんはしばらくすると寝息を立てはじめた。深い呼吸を聞きながら、私も目を閉じる。
 山ちゃんに触れたところがやたらと熱かった。
 男の人は筋肉質だから体温が高いのだろうか。温泉に入ったから熱いのだろうか。
 それとも……もっと違う理由だろうか。
 腕に絡めていた手をほどき、そっと肩へと伸ばす。胸へ、みぞおちへと、順に手を置く。
 女とは違う硬さを持つ胸。次いでみぞおちに触れた手からは、山ちゃんの心臓の鼓動が伝わってきた。
 すっかり寝入っている山ちゃんを、ちらりと見上げる。閉じた目に震えるまつげが見えた。柔らかく閉じられた口に、人差し指を乗せる。
 柔らかい唇。
 そういえば、一度も私からキスをしたことがなかった。
 そろりと身体を起こし、顔を近づける。
 それでも唇を合わせることはためらわれて、鼻頭に鼻頭をつけた。
 山ちゃんは気づくことなく、すやすやと眠りつづけている。
 それを見下ろして微笑んだ。
 じわりと胸に広がる温かさ。
 山ちゃんの首元に、顔を寄せる。
 こんなに近くにいるのは、初めてだ。
 頬を擦り寄せるようにして、手を首に触れた。
 どくん、どくん、と脈打つ動脈が、手の平に伝わって来る。
 脈の打ち方が、女の私よりも力強く感じた。
 私は思い切り息を吸い、吐き出して、胸上に頭を乗せ、抱き着いた。
 のそ、と山ちゃんの肩が動く。少し顔を上げると、山ちゃんがうっすら目を開けて微笑んでいた。
 私の肩に腕を回し、また目を閉じる。
 私も微笑んで、また胸の上に寄り掛かった。
 山ちゃんの鼓動が聞こえる。
 触れたすべてのところから、山ちゃんの熱を感じる。
 包まれているような安心感に、目を閉じた。

 山ちゃんはすやすや眠ってたけど、私はやっぱり暑くて眠れず、早めにベッドから出た。
 ベッドのふちに腰掛けて、ぼんやり山ちゃんの寝顔を見下ろす。
 大学生になって、山ちゃんの髪は少し短くなった。それを一つまみ、引っ張ってみる。
 身じろぎもせず口をうっすら開いて眠る山ちゃんに笑って、いたずら心がわいた。
 鼻の頭に指先を置いたり、眉毛を撫でたり、あっちこっち触れてみる。それでも山ちゃんが起きる気配はなくて、私はくすくす笑いながら、その頬にキスをした。
「ーー好きだよ、山ちゃん」
 息だけで囁いたとき、山ちゃんが身じろぎする。
「……ん……」
 ごろんと寝返りを打ち、またすやすやと眠りはじめた。
 私は笑って、その頭を撫でる。
 堅めの髪が手の平にちくちくした。
「朝風呂行ってくるね」
 聞こえてるはずもないけど、一応囁いて、私は部屋を出た。

 戻って来ると、山ちゃんはベッドのふちに腰掛けてぼんやりしていた。
 髪はあっちこっちはねていて、浴衣も寝乱れたままだ。膝を広げているせいで、ほとんど下着まで見えそうだったので、私はあえて顔だけを見るように意識した。
「おはよ。起きたんだ」
「うん……」
 山ちゃんは寝ぼけた顔で私を見て、少し唇を尖らせた。
 私は首を傾げる。
「何?」
「いや……」
 山ちゃんはふて腐れたように俯く。
「おらんかったから」
「え?」
「起きたらおらんかったから、つまらんかった」
 私は目を数度またたかせた。
「だって、山ちゃん寝てたし。私あんまり眠れなくて」
「……うん」
 私はゆっくり山ちゃんに近づいて行って、その頭を撫でた。
「山ちゃん、よく寝てたね」
「……昨日が、あんまり眠れんかったけん」
 ふて腐れたまま、山ちゃんが言う。
 私はふふ、と笑って、その頭を抱きしめた。
 山ちゃんは一瞬の間の後、私の背中に手を回す。
「帰ってきたら、また旅行に行こうね」
 山ちゃんはこくりと頷いた。
「今度はどこに行こうね。考えといて」
 また、黙ったまま頷く。
 と、顔を上げて私を見た。
「……そのときには……抱かせてくれるん?」
 照れ草さを押し殺して平然を装ったと分かる表情に、私は噴き出す。
「どうかなぁ。そのときの気分次第」
 山ちゃんはまた唇を尖らせた。

 * * *

 その日も少し観光して、私たちは駅へ向かった。
 名古屋駅からは、それぞれ逆側の新幹線に乗る。
 次に会うのは、私が帰国した後になるだろう。
「じゃあ、元気で」
 恋人への挨拶にしては淡泊に、私は別れの言葉を告げた。
 離れたくない。別れたくない。
 いつだって感じてきた気持ちが、今日は一段と強い。
 だからこそ、それを押し隠して、私は笑う。
「ぐっちゃんも……気をつけてな」
 山ちゃんに言われて、私は頷いた。
 山ちゃんの唇が一瞬開き、また閉じられる。
 何か言いたげだけど、言葉が見つからないのだろう。
 昨夜触れた唇の柔らかさを思い出す。
 同時に、私からキスをしたことがなかったことも。
「山ちゃん」
 山ちゃんがうつむきがちだった顔を上げた。
 私は一歩近づき、そのシャツの裾をつかむ。
 背伸びをして、背の高い彼の顔に照準を定めて。
 掠め取るように、キスをした。
 恥ずかしさと切なさと喜びがごちゃまぜの感情で笑顔を浮かべて、彼から離れた私は手を振る。
「行ってきます!」
 山ちゃんはぽかんとして、唇を押さえた。
 そしてその手を翻し、私に振った。
「行ってらっしゃい」
 私はホームへと走り出す。山ちゃんの声が追って聞こえた。
「ーー待ってるからな!」
 私はぐっとお腹に力をこめた。振り返り、できるだけの笑顔で手を振る。山ちゃんが手を振り返すのを見て、ホームを駆け上がっていく。
 涙が込み上げてきて、必死でおさえた。
 好き。好きーー好き。
 文句の一つも言わず、私のことを応援してくれる山ちゃんの優しさが嬉しい。愛しい。

 どうかーーどうか。
 また、会えますように。
 また二人で、楽しい時間を過ごせますように。
 私が帰国した後にもーー

 あふれてきた涙を、手でおさえた。

 これは彼の優しさに喜ぶ涙だと、自分に言い聞かせながら。
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