初恋旅行に出かけます

松丹子

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第四部

15 君の隣で過ごす夜

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 部屋に戻ると、着替えを片付けたり歯を磨いたり、お茶を飲んだりした。
 互いにどこかそわそわして、あえてベッドは見ないようにしている。
 部屋はさすがにツインベッドを選んだ。宿を手配したのは私なのだ。正直、ここまでが限界だった。
 何かを期待してると思われたくもないし、かといって何もないままであっては欲しくない。
 複雑な心境でいると、山ちゃんがベッドに腰掛けた。
 立ったままの私を見上げて、隣をぽんと叩く。
「座らんね?」
 私は頷いて、そろそろと隣に腰掛けた。
 いつもよりも、少しだけ空間を空けて。
 心臓がドキドキ言っている。どんな顔をしていればいいのかわからず、黙ってうつむいて。
 山ちゃんも、黙っていた。
 しばらく二人で座っていると、山ちゃんがちょっと唇を尖らせて言った。
「……なんでそんな、遠いん」
 私はちらりと山ちゃんを見て、拳ひとつ近づいた。
「まだ遠い」
 山ちゃんがむくれる。
「そんなん言うなら、山ちゃんがこっち来てよ」
 私が言うと、山ちゃんは少しだけ眉を寄せてから、私の方に近寄った。
 でも、何となく身体ごとそっぽを向いている。
 私はその肩を見ながら、噴き出した。
「な、なんや」
「だ、だって」
 私はくつくつ笑いながら、その肩に額を乗せる。笑いは止まず、震えながら肩に手を添えた。
「近づいたって、そっぽを向くんじゃ意味ないじゃん」
 笑い続ける私に、山ちゃんは気まずそうな顔をしている。私はその顔を見てまた笑った。
「はー。ああ、可笑しい」
 私が落ち着くのを待つ山ちゃんの顔は真剣みを帯びていた。
 私をまっすぐ見てくる目に、私も笑いを引っ込める。
「ぐっちゃん」
 山ちゃんはじっと私の目を見つめた。
「……いい?」
 私は俯いて、こくりと頷く。
 山ちゃんが私を抱きしめた。
 どきん、と心臓が大きく鳴る。
 薄い浴衣越しに感じる山ちゃんの身体は、私よりも硬くて、ごつごつしている。
 力強くて、お腹の下がぞくぞくした。
 いつだったか感じた、女の自分の存在を思い出す。
 恥ずかしさで、顔が燃えるように熱い。
 動悸がどんどん早足になっていった。
 山ちゃんが不器用な手つきで私の頬を撫でる。
 その手が耳の下まで降りてきて、私はぎゅっと目をつぶった。
 いつも以上にぎこちなく、唇と唇が触れる。
 心臓はドキドキとうるさくて、他の音が聞こえない。
 ーーと思いきや、唇の離れる水音が、やたらと艶めかしく耳に響いた。
 山ちゃんの唇が、私の首筋に触れる。
 私は小さく、下唇を噛み締める。
 どんな顔をしていればいいのか分からない。
 目を開けられない。
 山ちゃんの手は私の浴衣の上から肩と腕をさすり、ためらいがちに胸元へ伸びた。
 それが私の胸を覆うや、私ははっと目を見開く。
「ーーやだ」
 とっさに、山ちゃんの胸元に腕をつっぱった。
 突き放すような形になり、山ちゃんが唖然とする。
 私はそれを見つめられずに、目を泳がせた。
「ごめんーー違うーーやっぱり、私、まだ」
 山ちゃんはじっとしたまま動かない。私は泣きそうになった。
「違うの。山ちゃんのことが好きなの。好きだから……だから駄目なの」
 言葉と同時に、涙があふれてきた。
「ごめん……ごめん。ここまで来て、こんなのずるいね。ごめん、山ちゃん。ごめん」
 ぼろぼろ流れる涙を、両手でおさえる。山ちゃんの顔を見られず、自分の浴衣の袖を引っ張って目を覆った。山ちゃんは何も言わず、私の様子を見ている。
 嫌われたかもしれない。呆れられただろう。ただでさえ、なかなか会うこともできない関係だったのに。これで愛想を尽かされたら、もう復縁だって望めない。
 でも、取り繕う方法も分からない。私の拒否が彼を傷つけたかもしれない。
 山ちゃんが傷ついた顔も、怒った顔も、あきれた顔も、見たくなかった。見る勇気はなかった。
 黙ったまま、山ちゃんが動いた。大きな手が私の頭に触れ、私はびくりと身をすくませる。山ちゃんもその反応に驚いたように手を離した。
「……ごめん」
 山ちゃんが言うので、私は首を横に振って目元に当てた袖をどけた。山ちゃんは困った顔をしていたけど、怒っても、呆れてもいないようだった。
「……頭、撫でてもいい?」
 私はすすり上げながら頷く。山ちゃんがほっとしたように、私の頭を撫でた。
 頭を撫でるその手つきすら不器用で、だからこそほっとする。
「落ち着いた?」
「……落ち着いた」
 私の嗚咽が落ち着いてきた頃、山ちゃんに問われて頷いた。山ちゃんは、ふと笑う。かと思えば、その笑いは段々大きくなって、気付けば声をあげて笑っていた。
 私はぽかんとして、山ちゃんを見る。山ちゃんは私から顔をそらして笑って、ベッドに倒れて腹を抱えて震えている。
「大丈夫?」
「うんーーはぁ、うん……」
 こんなに笑う山ちゃんなんて見たことがない。いつでもどこかぼんやりしていて、友達が笑っているときでもおあいそ程度しか笑わないのに。
「ああ、笑った」
「うん……笑ったね」
 私が困惑しているのを見て取って、山ちゃんはまた笑いはじめた。
 目尻に滲んだ涙を拭うその顔を見て、私は困惑して首を傾げる。
「どうしたの?」
 まさか笑うと思っていなかった私は、おずおずと問うた。
「うん……」
 山ちゃんは気恥ずかしそうに顔を反らす。
「なんか、馬鹿やったなと思って」
「え……?」
「自信がなかったんよ」
 私は首を傾げる。山ちゃんは続けた。
「俺……その、経験もないし。留学したら、当然のようにレディファーストの文化やろ。ぐっちゃんのこと、つなぎ止めてられるのかって……」
 山ちゃんは苦笑した。
「でもそんなん……したからって、つなぎ止められるわけでもないっちゃろ。ぐっちゃん泣くの見たら、そう気づいた」
 言って、山ちゃんは私の頭をぽんぽんたたく。
「こっちこそ、ごめんな。俺のわがままにつき合わせた」
「そんなことない」
 私はぶんぶん首を振った。
「私だって……山ちゃんなら、いいって思ったの……するなら、山ちゃんとがいいって、思ってる……けど」
 すれ違ったまま別れたくなかった。ちゃんと気持ちを伝えなきゃと、一所懸命考えながら言葉を紡ぐ。
「……キスも、ぎゅってされるのも、苦しいくらいに嬉しくて……これ以上知っちゃったら、離れるのが怖くなる気がして」
 私は俯いた。また涙がじわりと込み上げる。
「私がいない間に、山ちゃんに素敵な出会いがあったら……そうでなくても、私を待ってるのが嫌になったら、ちゃんと山ちゃんを応援したいの。山ちゃんは私を見送ってくれて、見守ってくれて、私にとって大切な人だから……縛り付けておきたくないの。幸せを祈りたいの。だから、これ以上近づくのが、怖い」
 山ちゃんは穏やかに笑った。
「いいのに」
「何が?」
「黙って待っとき、て言ってもいいんよ」
 私はまばたきをした。
「浮気したらただじゃおかんで、って言ってもいいんよ」
 山ちゃんは微笑みながら、私の頬にそっと手を添える。
 こつんと額を合わせると、私の目を覗き込んだ。
「ぐっちゃんに言われるなら、嬉しいよ」
 私はその目を見返して、また泣きそうになる。
「……山ちゃん」
 私は山ちゃんの首に腕を回し、首元に顔をうずめた。
「山ちゃん。待ってて。お願いだから……私が帰ってくるまで、待ってて」
 山ちゃんは笑った。笑って私の肩を撫でた。
「うん。待っとる。ちゃんと待っとるから、思いっきり楽しんどいで」
 私はまた溢れ出した涙を手で押さえながら、頷いた。
 何度も何度も頷いた。
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