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第一部
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どことなく抜けているところのあるお父さんが心配だから、私はお父さんについて、福岡に引っ越した。
お父さんは慣れない仕事に毎日余裕がなくて、私も新しい生活になかなか馴染めなくて、気づいたらほとんど、笑わなくなっていた。
もともと、そんなに表情の豊かな方じゃない。何を考えているかよく分からない、と言われることもあったくらいだ。
それが、福岡に来てから、ますますよくわからないと見られるようになった。おじいちゃんとおばあちゃんからしか聞いたことのない福岡弁が満ちあふれた教室で、私は一人だけ、標準語で話している。それを「東京弁」と言われ、「すましている」と言われた。
東京にいるときにはギリギリ結べるくらいの長さだった髪を、福岡に来てからばっさりと切った。僕、という一人称とその髪型で、一見すると男の子のようだと言われたけど、それでよかった。
私はそのとき、男だったらよかったのにと思っていたのだ。
女の子という生き方は、なんだかつまらなかった。お利口にして、討論には口出しをせず、男子の喧嘩は遠巻きに見守り、女子同士ではこそこそと陰口をきく。
大人になってからも、つまらなそうだった。
男は外に働きに出て、家に帰るとドッカリと椅子に座り、テレビを眺めてご飯とお酒が出てくるのを待つ。女は仕事をしていてもしていなくても、家事をして、台所に立ち、食事を作って出す。
お客さんが来るとますますひどかった。男性がわいわいと飲み食いしているところには、女は立ち入らない。台所でつぎつぎにつまみを準備して、飲み物を準備して、一通り飲み終わるとお茶を出して、みんなが去って食器を片付ける。その横で、男の人は酔っ払って、ぐーぐーと寝息を立てている。
さすがに東京にいるときには、そこまではっきりとした差は見なかった。そういう役割分担がまったく想像できない訳ではなかったけれど、そこまでひどくなかった、と言うべきか。
でも、福岡に来ると、その立場の違いは歴然としていた。おばあちゃんはそれを当然だと思っていたし、私も当然のように手伝いをさせられた。男だと思われて一杯飲めと言われ、女だと言うと、そうかおばあちゃんを手伝ってやれ、となる。なんだか、とても馬鹿馬鹿しかった。
私はますます頑なに自分を僕と言うようになり、それを周りは呆れながらも、強いて直そうとはしなかった。
その点、東京では曖昧にぼかされていた社会構造が、福岡では思った以上にはっきりしていた。そういうカルチャーショックを感じつつ、私はますます自分の内側にこもるようになってきた。
「彼」に会ったのは、そんなときだ。
福岡に引っ越したことで、晴れてバイオリンから解放された私は、バスケ部に入った。
私の学年六人の内、私を除く五人は小学生のときからの経験者。
入部したときから差がついていた。
もともと、運動は不得意ではない。背も女子にしては高い方だ。だけど、バイオリンを習っていたから、突き指しそうな競技はお母さんがやらせなかった。自然、経験のある球技はラケットを使うもののみで、直接ボールを掴む感覚に慣れるまでが大変だった。
毎日、おじいちゃんの会社の駐車場横にある古いリングで練習した。リングは昔、お父さんのために置いたものだと聞いた。もう錆びていて、ネットもとれていて、輪だけになっていた。
いつも通り練習していた私は、駐車場に停まった車に気づいた。それがシュートを打つ前後だったから、気が反れてガコンとみっともない音を立て、ボールは車を降りてきたスーツ姿の男性の足元に転がって行った。私はボールを受け取ろうと小走りに向かった。
お兄さんは、2、3度ドリブルしてボールを拾い上げ、こちらに投げ返した。ボールの扱い方が手慣れていた。
「君、センターなの?」
誰だろ、この人。
そう思いながら、私は頷いた。
男性は私の怪訝な態度もあまり気にしていないらしい。相槌を打つと、
「うまくボード使いなよ。描いてあるフレームのカド狙うといいーー知ってるだろうけど」
何となく上から目線に感じて、私はムッとして男性を見上げた。強めにボールを投げ返す。
どうせ、大人は口先ばかりだ。
「そう言うなら、見本、見せてよ。お兄さん」
男性は一瞬驚いた後、苦笑した。
「負けん気だけは一人前だな」
ゆったりとドリブルしながらゴールに向かって歩く。
ゴール下に着くと、2、3度強めにドリブルしてリズムを取り、シュートした。
ボールはボードに当たってから、ネットのないリングに吸い込まれた。
「ふぅん。お兄さんは、口だけじゃないんだ」
私は冷静を装いながら、気持ちが浮き立つのを感じていた。上手いのは、そのシュートだけでもよく分かったからだ。
教えてくれないかな。
そう思いながら、ゴール下に転がったボールを拾い、振り返る。
「おじいちゃんに用なの?」
「おじいちゃん?」
「ここの会社、僕のおじいちゃんの」
建物を指差しながら言うと、
「ああ、そうなんだ。ーーそうだね。社長さんに会いたいんだけど、なかなか会えなくて」
「え?何で?今、いるよ。案内してあげる」
私は首を傾げながら言って、先に歩き出した。
おじいちゃんとの話が終わると、その人は私の練習につき合ってくれた。口先では面倒くさいと言いながら、やっぱりバスケが好きなのだろう、ボールを持つと生き生きと目が輝いた。
手加減したり、本気になったりしながら、ボールとゴールに向き合うその姿は、大人なのに少年みたいだった。
たった二人でボールを追いかけているだけなのに、楽しかった。わくわくして、自然と笑顔になった。
安物とは思えないその人のスーツも、革靴も、砂埃で真っ白くなった。私はそれが気になりながらも、一緒に楽しんでくれていることが嬉しくて、だいぶ長いことつき合わせた。私が満足したとき、その人の迎えに来た同僚が、砂埃にまみれた姿に呆れ返っているのも、私を喜ばせた。
大人の癖に、子どもみたい。
それが、「彼」の第一印象だった。
「彼」を見ていると、子どもなのに大人みたいに振る舞おうとしている自分が、ちょっと馬鹿みたいに思えた。
お父さんは慣れない仕事に毎日余裕がなくて、私も新しい生活になかなか馴染めなくて、気づいたらほとんど、笑わなくなっていた。
もともと、そんなに表情の豊かな方じゃない。何を考えているかよく分からない、と言われることもあったくらいだ。
それが、福岡に来てから、ますますよくわからないと見られるようになった。おじいちゃんとおばあちゃんからしか聞いたことのない福岡弁が満ちあふれた教室で、私は一人だけ、標準語で話している。それを「東京弁」と言われ、「すましている」と言われた。
東京にいるときにはギリギリ結べるくらいの長さだった髪を、福岡に来てからばっさりと切った。僕、という一人称とその髪型で、一見すると男の子のようだと言われたけど、それでよかった。
私はそのとき、男だったらよかったのにと思っていたのだ。
女の子という生き方は、なんだかつまらなかった。お利口にして、討論には口出しをせず、男子の喧嘩は遠巻きに見守り、女子同士ではこそこそと陰口をきく。
大人になってからも、つまらなそうだった。
男は外に働きに出て、家に帰るとドッカリと椅子に座り、テレビを眺めてご飯とお酒が出てくるのを待つ。女は仕事をしていてもしていなくても、家事をして、台所に立ち、食事を作って出す。
お客さんが来るとますますひどかった。男性がわいわいと飲み食いしているところには、女は立ち入らない。台所でつぎつぎにつまみを準備して、飲み物を準備して、一通り飲み終わるとお茶を出して、みんなが去って食器を片付ける。その横で、男の人は酔っ払って、ぐーぐーと寝息を立てている。
さすがに東京にいるときには、そこまではっきりとした差は見なかった。そういう役割分担がまったく想像できない訳ではなかったけれど、そこまでひどくなかった、と言うべきか。
でも、福岡に来ると、その立場の違いは歴然としていた。おばあちゃんはそれを当然だと思っていたし、私も当然のように手伝いをさせられた。男だと思われて一杯飲めと言われ、女だと言うと、そうかおばあちゃんを手伝ってやれ、となる。なんだか、とても馬鹿馬鹿しかった。
私はますます頑なに自分を僕と言うようになり、それを周りは呆れながらも、強いて直そうとはしなかった。
その点、東京では曖昧にぼかされていた社会構造が、福岡では思った以上にはっきりしていた。そういうカルチャーショックを感じつつ、私はますます自分の内側にこもるようになってきた。
「彼」に会ったのは、そんなときだ。
福岡に引っ越したことで、晴れてバイオリンから解放された私は、バスケ部に入った。
私の学年六人の内、私を除く五人は小学生のときからの経験者。
入部したときから差がついていた。
もともと、運動は不得意ではない。背も女子にしては高い方だ。だけど、バイオリンを習っていたから、突き指しそうな競技はお母さんがやらせなかった。自然、経験のある球技はラケットを使うもののみで、直接ボールを掴む感覚に慣れるまでが大変だった。
毎日、おじいちゃんの会社の駐車場横にある古いリングで練習した。リングは昔、お父さんのために置いたものだと聞いた。もう錆びていて、ネットもとれていて、輪だけになっていた。
いつも通り練習していた私は、駐車場に停まった車に気づいた。それがシュートを打つ前後だったから、気が反れてガコンとみっともない音を立て、ボールは車を降りてきたスーツ姿の男性の足元に転がって行った。私はボールを受け取ろうと小走りに向かった。
お兄さんは、2、3度ドリブルしてボールを拾い上げ、こちらに投げ返した。ボールの扱い方が手慣れていた。
「君、センターなの?」
誰だろ、この人。
そう思いながら、私は頷いた。
男性は私の怪訝な態度もあまり気にしていないらしい。相槌を打つと、
「うまくボード使いなよ。描いてあるフレームのカド狙うといいーー知ってるだろうけど」
何となく上から目線に感じて、私はムッとして男性を見上げた。強めにボールを投げ返す。
どうせ、大人は口先ばかりだ。
「そう言うなら、見本、見せてよ。お兄さん」
男性は一瞬驚いた後、苦笑した。
「負けん気だけは一人前だな」
ゆったりとドリブルしながらゴールに向かって歩く。
ゴール下に着くと、2、3度強めにドリブルしてリズムを取り、シュートした。
ボールはボードに当たってから、ネットのないリングに吸い込まれた。
「ふぅん。お兄さんは、口だけじゃないんだ」
私は冷静を装いながら、気持ちが浮き立つのを感じていた。上手いのは、そのシュートだけでもよく分かったからだ。
教えてくれないかな。
そう思いながら、ゴール下に転がったボールを拾い、振り返る。
「おじいちゃんに用なの?」
「おじいちゃん?」
「ここの会社、僕のおじいちゃんの」
建物を指差しながら言うと、
「ああ、そうなんだ。ーーそうだね。社長さんに会いたいんだけど、なかなか会えなくて」
「え?何で?今、いるよ。案内してあげる」
私は首を傾げながら言って、先に歩き出した。
おじいちゃんとの話が終わると、その人は私の練習につき合ってくれた。口先では面倒くさいと言いながら、やっぱりバスケが好きなのだろう、ボールを持つと生き生きと目が輝いた。
手加減したり、本気になったりしながら、ボールとゴールに向き合うその姿は、大人なのに少年みたいだった。
たった二人でボールを追いかけているだけなのに、楽しかった。わくわくして、自然と笑顔になった。
安物とは思えないその人のスーツも、革靴も、砂埃で真っ白くなった。私はそれが気になりながらも、一緒に楽しんでくれていることが嬉しくて、だいぶ長いことつき合わせた。私が満足したとき、その人の迎えに来た同僚が、砂埃にまみれた姿に呆れ返っているのも、私を喜ばせた。
大人の癖に、子どもみたい。
それが、「彼」の第一印象だった。
「彼」を見ていると、子どもなのに大人みたいに振る舞おうとしている自分が、ちょっと馬鹿みたいに思えた。
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