83 / 99
第三章 さくらさく
82 今を春辺と
しおりを挟む
「ねぇ、あきちゃん」
買い物の途上、咲也は不意に暗闇の先を指差した。
「梅、もう少しで咲きそうだよ。知ってた?」
そんな余裕はなかった私は、咲也のマイペースさに呆れる。
嘆息しながら、その指の先に目を向けた。
「知らないよ、そんなん」
「えー。ちゃんと、四季感じようよ」
ふて腐れる咲也の指の先の暗闇に、わずかに膨らんだ蕾をつけた梅の花を確認する。
春の訪れを告げる花。
この冷たい夜風からは、とても春の訪れを感じることはできないけれど、この花が咲き、そして散る頃――また、桜の花が咲き誇るのだろう。
昨年、咲也と見た桜。
初めて、咲也と出会った季節。
――私はそのとき、どこにいるんだろう。
転勤の話が脳裏を過った。
――咲也はそのとき、どこにいるんだろう。
こみ上げる不安を振り払い、私は少し大きめの声を出す。
「咲也が教えてくれればいいじゃない」
できるだけ、ぶっきらぼうに言い放ちながらも、
――だから、側にいて。
本当に伝えたい言葉は飲み込んだ。
私は咲也の横顔を見る。咲也は黙って、いつもの穏やかな微笑みを浮かべていた。
止まっていた歩みを進めながら、咲也は笑う。
「あきちゃん、どうせ桜見る度に俺のこと思い出すんでしょ」
いつもの笑顔に、舞い散る桜の花の幻想を見て、私は顔をしかめた。
何も言わず、その横を歩く。
咲也の手が、私の方に伸びてきた。
私は黙ったまま、その手を取る。
「――また、春が来るんだね」
咲也は、静かに言った。
「あきちゃんも、もう三十一になるんだ」
三月末が私の誕生日だ。
そして、咲也は四月。
「咲也だって、二十八になるよ」
咲也はそうだねと頷いた。
もし、何もせずに日々を過ごしたら、彼はあと何度、誕生日を迎えられるのだろう。
包まれた大きな手のひらの温もりに、間違いなく彼の生を感じて、切なさが込み上げる。
生きること――
それが持つ意味が、こんなに人によって異なるだなんて、考えたこともなかった。
咲也は、選ばなければならないのだ。
積極的な生か、消極的な死を。
生きることなんて、選んだつもりもなかった私にとって、その選択がどういうものかは想像もできない。
死が、どんな人間にも、いずれ訪れるものであるにしても、咲也のそれは、私たちとは違う。
何もしなければ、間違いなく、彼の余命は縮むのだ。
――咲也の気持ちは、咲也にしか分からない。
どんなに、近くにいたとしても。
それが、もどかしくて仕方なかった。
「もう、春が来るんだね」
咲也はまた、ひとりごちるように呟いた。
私は感情に流されないようにするのに必死で、頷くこともできないまま奥歯を噛み締めた。
買い物の途上、咲也は不意に暗闇の先を指差した。
「梅、もう少しで咲きそうだよ。知ってた?」
そんな余裕はなかった私は、咲也のマイペースさに呆れる。
嘆息しながら、その指の先に目を向けた。
「知らないよ、そんなん」
「えー。ちゃんと、四季感じようよ」
ふて腐れる咲也の指の先の暗闇に、わずかに膨らんだ蕾をつけた梅の花を確認する。
春の訪れを告げる花。
この冷たい夜風からは、とても春の訪れを感じることはできないけれど、この花が咲き、そして散る頃――また、桜の花が咲き誇るのだろう。
昨年、咲也と見た桜。
初めて、咲也と出会った季節。
――私はそのとき、どこにいるんだろう。
転勤の話が脳裏を過った。
――咲也はそのとき、どこにいるんだろう。
こみ上げる不安を振り払い、私は少し大きめの声を出す。
「咲也が教えてくれればいいじゃない」
できるだけ、ぶっきらぼうに言い放ちながらも、
――だから、側にいて。
本当に伝えたい言葉は飲み込んだ。
私は咲也の横顔を見る。咲也は黙って、いつもの穏やかな微笑みを浮かべていた。
止まっていた歩みを進めながら、咲也は笑う。
「あきちゃん、どうせ桜見る度に俺のこと思い出すんでしょ」
いつもの笑顔に、舞い散る桜の花の幻想を見て、私は顔をしかめた。
何も言わず、その横を歩く。
咲也の手が、私の方に伸びてきた。
私は黙ったまま、その手を取る。
「――また、春が来るんだね」
咲也は、静かに言った。
「あきちゃんも、もう三十一になるんだ」
三月末が私の誕生日だ。
そして、咲也は四月。
「咲也だって、二十八になるよ」
咲也はそうだねと頷いた。
もし、何もせずに日々を過ごしたら、彼はあと何度、誕生日を迎えられるのだろう。
包まれた大きな手のひらの温もりに、間違いなく彼の生を感じて、切なさが込み上げる。
生きること――
それが持つ意味が、こんなに人によって異なるだなんて、考えたこともなかった。
咲也は、選ばなければならないのだ。
積極的な生か、消極的な死を。
生きることなんて、選んだつもりもなかった私にとって、その選択がどういうものかは想像もできない。
死が、どんな人間にも、いずれ訪れるものであるにしても、咲也のそれは、私たちとは違う。
何もしなければ、間違いなく、彼の余命は縮むのだ。
――咲也の気持ちは、咲也にしか分からない。
どんなに、近くにいたとしても。
それが、もどかしくて仕方なかった。
「もう、春が来るんだね」
咲也はまた、ひとりごちるように呟いた。
私は感情に流されないようにするのに必死で、頷くこともできないまま奥歯を噛み締めた。
0
お気に入りに追加
63
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
夫の不貞現場を目撃してしまいました
秋月乃衣
恋愛
伯爵夫人ミレーユは、夫との間に子供が授からないまま、閨を共にしなくなって一年。
何故か夫から閨を拒否されてしまっているが、理由が分からない。
そんな時に夜会中の庭園で、夫と未亡人のマデリーンが、情事に耽っている場面を目撃してしまう。
なろう様でも掲載しております。
余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました
結城芙由奈
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】
私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。
2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます
*「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
※2023年8月 書籍化
最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません
abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。
後宮はいつでも女の戦いが絶えない。
安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。
「どうして、この人を愛していたのかしら?」
ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。
それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!?
「あの人に興味はありません。勝手になさい!」
王が気づいたのはあれから十年後
基本二度寝
恋愛
王太子は妃の肩を抱き、反対の手には息子の手を握る。
妃はまだ小さい娘を抱えて、夫に寄り添っていた。
仲睦まじいその王族家族の姿は、国民にも評判がよかった。
側室を取ることもなく、子に恵まれた王家。
王太子は妃を優しく見つめ、妃も王太子を愛しく見つめ返す。
王太子は今日、父から王の座を譲り受けた。
新たな国王の誕生だった。
さよなら私の愛しい人
ペン子
恋愛
由緒正しき大店の一人娘ミラは、結婚して3年となる夫エドモンに毛嫌いされている。二人は親によって決められた政略結婚だったが、ミラは彼を愛してしまったのだ。邪険に扱われる事に慣れてしまったある日、エドモンの口にした一言によって、崩壊寸前の心はいとも簡単に砕け散った。「お前のような役立たずは、死んでしまえ」そしてミラは、自らの最期に向けて動き出していく。
※5月30日無事完結しました。応援ありがとうございます!
※小説家になろう様にも別名義で掲載してます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる