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第三章 きみのとなり
100 パーソナルスペース
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一睡もしていなかったので、その夜はぐっすりと眠り、翌日には空けていた元の家に帰った。結局解約するのも面倒で、結局大家に了承を得てそのままにしておいたのだ。弟の隼人にスペアキーを預けておいたので、時々換気に来てくれていたらしい。別荘代わりに使っていいぞと冗談を言ったのだが、隼人は笑って首を横に振っていた。
橘も何か手伝おうかと言ってくれたが、一週間の残業ぶりを知っているので休めと言って置いてきた。いつものことだから大丈夫なのにとむくれていたが、俺が心配だからと言うと渋々従い、それなら昼時にお弁当を作って持っていくと主張した。どうもメシが作れないと思われているのが癪らしい。
橘を残して家に帰った俺は、まず窓を空けて空気を入れ換える。しばらく使っていなかった水回りを確認したり、簡単に床を拭いたりして、あっという間に昼食の時間になった。
橘からは、さきほどメッセージが届いた。もう少しで作り終えるから、ちょっと遅くなるけど待ってて、とのことで、おかずにこっているのか手際が悪いのかは実際に完成品を見てから判断しようと思いつつ一息つく。
と、スマホが鳴った。隼人からだ。昨日の夜、予定を早めて帰ってきたことを告げておいたからかと思いつつ出る。
「Hello?」
『兄さん、おかえり』
弟の落ち着いた声に、不思議なほどほっとした。ーーああ、帰ってきたんだなぁ、と。
「ただいま。どうした?」
相手が日本語なら、わざわざ英語にする必要もない。
『うん、おかえりって言おうと思って』
俺は笑った。
「そんなん、母さんからもメッセージだけだったぞ」
『だってさ、珍しいから。兄さんが急に予定変えることってないでしょ。もしかして何かあったかなって』
確かに、俺は直前にジタバタするのが嫌なたちなので、急に予定を変えることはあまりない。例えば、試験の日にはテキストを会場に持ち込まない主義だ。
弟の鋭さに内心舌を巻きつつ、あー、まあなとごまかしたが、隼人は笑った。
『もしかして、あの人ーー橘さん絡み?』
俺はそれについてはコメントをせず、
「お前、再来週だろ、結婚式。貴重な休日、俺にかまけてていいの」
『えーと、だって準備はほとんど香子ちゃんとサークルの友達がやってくれてるから。何か手伝えればするから言って、とは言ってるけど』
答えて、で?とまた聞いてくる。ごまかされてはくれないということか。俺は諦めて嘆息した。
「……まあ、そんな感じかな」
隼人は何も言わず、ただふふ、と笑った。居心地が悪くて唇を尖らせる。
「何だよ」
『いや、よかったなって』
「何が。ーー一応言っとくけど、結婚がどうとか、考えてねぇからな。まだ俺にとっては縁遠い言葉で」
『いいじゃない、それでも』
隼人の声は、どこか取り繕っている自分が悔しくなるくらいに落ち着いている。
『結婚がゴールだなんて、ただの幻想だよ。お互いにとって居心地のいい関係があるなら、それで十分でしょ。他人があれこれ口出すことじゃない』
肩の荷が下りるような感覚を覚えて、俺は苦笑した。まったく、どっちが兄でどっちが弟だか。
「ーー敵わないな、お前には」
『俺だって、兄さんには敵わないよ』
隼人が楽しげに笑う。
俺は中途半端だった体勢を改めて、床にあぐらをかいた。
「で、どうよ。式の方は」
そういえば正月以後、ゆっくり話す機会もなかった。隼人は式の準備があったようだし、俺も俺で何やかんやと巻き込まれていたから仕方ないが。
『何かねぇ、文化祭の前みたいな気分かなぁ』
まあ、近い気もするよな。確かに。
『どうなるのか、いまいちまだ自分の中ではっきりしないから、何とも言えない』
とは言うものの、やはり声音に幸せそうな色がにじみ出ているのを感じる。
『そういえば、スペアキー、いつ返そう。そういうことなら早めがいいよね』
「そういうことならってどういうことだよ。いいよ、また落ち着いてからで」
『でも、橘さんに渡したりするでしょ。きっと』
隼人が当然のように言うが、
「お前も渡してるの?香子ちゃんに」
『うん。ときどきご飯作って待っててくれたりするから』
そういえば香子ちゃんは実家暮らしだった。結婚式の後で新居に行くそうだ。
「へぇ……」
俺は不思議な気分でそれを聞いていた。
いろいろ言われはしても、俺も隼人も、自分のテリトリーには敏感なたちだ。本当のパーソナルスペースには他人をーー家族すら、入れたくない。隼人はその感覚が比較的近いので、鍵を預ける気にもなったのだが。
ーー俺が橘に鍵を預ける、か。
やはり、ピンと来ない。
ーーやっぱり結婚とか、向いてないんだろうな。
思っているとき、チャイムが鳴った。
「あ、悪い。来客」
『橘さん?』
「さあな」
俺がぶっきらぼうに返すと、
『ふふ。よろしく伝えて』
隼人は柔らかく言った。
ああ、と言って電話を切ろうとした俺に、兄さん、と隼人が呼びかける。
『鍵、必要になったらいつでも言ってね』
俺はまた、ああ、と答えた。
橘も何か手伝おうかと言ってくれたが、一週間の残業ぶりを知っているので休めと言って置いてきた。いつものことだから大丈夫なのにとむくれていたが、俺が心配だからと言うと渋々従い、それなら昼時にお弁当を作って持っていくと主張した。どうもメシが作れないと思われているのが癪らしい。
橘を残して家に帰った俺は、まず窓を空けて空気を入れ換える。しばらく使っていなかった水回りを確認したり、簡単に床を拭いたりして、あっという間に昼食の時間になった。
橘からは、さきほどメッセージが届いた。もう少しで作り終えるから、ちょっと遅くなるけど待ってて、とのことで、おかずにこっているのか手際が悪いのかは実際に完成品を見てから判断しようと思いつつ一息つく。
と、スマホが鳴った。隼人からだ。昨日の夜、予定を早めて帰ってきたことを告げておいたからかと思いつつ出る。
「Hello?」
『兄さん、おかえり』
弟の落ち着いた声に、不思議なほどほっとした。ーーああ、帰ってきたんだなぁ、と。
「ただいま。どうした?」
相手が日本語なら、わざわざ英語にする必要もない。
『うん、おかえりって言おうと思って』
俺は笑った。
「そんなん、母さんからもメッセージだけだったぞ」
『だってさ、珍しいから。兄さんが急に予定変えることってないでしょ。もしかして何かあったかなって』
確かに、俺は直前にジタバタするのが嫌なたちなので、急に予定を変えることはあまりない。例えば、試験の日にはテキストを会場に持ち込まない主義だ。
弟の鋭さに内心舌を巻きつつ、あー、まあなとごまかしたが、隼人は笑った。
『もしかして、あの人ーー橘さん絡み?』
俺はそれについてはコメントをせず、
「お前、再来週だろ、結婚式。貴重な休日、俺にかまけてていいの」
『えーと、だって準備はほとんど香子ちゃんとサークルの友達がやってくれてるから。何か手伝えればするから言って、とは言ってるけど』
答えて、で?とまた聞いてくる。ごまかされてはくれないということか。俺は諦めて嘆息した。
「……まあ、そんな感じかな」
隼人は何も言わず、ただふふ、と笑った。居心地が悪くて唇を尖らせる。
「何だよ」
『いや、よかったなって』
「何が。ーー一応言っとくけど、結婚がどうとか、考えてねぇからな。まだ俺にとっては縁遠い言葉で」
『いいじゃない、それでも』
隼人の声は、どこか取り繕っている自分が悔しくなるくらいに落ち着いている。
『結婚がゴールだなんて、ただの幻想だよ。お互いにとって居心地のいい関係があるなら、それで十分でしょ。他人があれこれ口出すことじゃない』
肩の荷が下りるような感覚を覚えて、俺は苦笑した。まったく、どっちが兄でどっちが弟だか。
「ーー敵わないな、お前には」
『俺だって、兄さんには敵わないよ』
隼人が楽しげに笑う。
俺は中途半端だった体勢を改めて、床にあぐらをかいた。
「で、どうよ。式の方は」
そういえば正月以後、ゆっくり話す機会もなかった。隼人は式の準備があったようだし、俺も俺で何やかんやと巻き込まれていたから仕方ないが。
『何かねぇ、文化祭の前みたいな気分かなぁ』
まあ、近い気もするよな。確かに。
『どうなるのか、いまいちまだ自分の中ではっきりしないから、何とも言えない』
とは言うものの、やはり声音に幸せそうな色がにじみ出ているのを感じる。
『そういえば、スペアキー、いつ返そう。そういうことなら早めがいいよね』
「そういうことならってどういうことだよ。いいよ、また落ち着いてからで」
『でも、橘さんに渡したりするでしょ。きっと』
隼人が当然のように言うが、
「お前も渡してるの?香子ちゃんに」
『うん。ときどきご飯作って待っててくれたりするから』
そういえば香子ちゃんは実家暮らしだった。結婚式の後で新居に行くそうだ。
「へぇ……」
俺は不思議な気分でそれを聞いていた。
いろいろ言われはしても、俺も隼人も、自分のテリトリーには敏感なたちだ。本当のパーソナルスペースには他人をーー家族すら、入れたくない。隼人はその感覚が比較的近いので、鍵を預ける気にもなったのだが。
ーー俺が橘に鍵を預ける、か。
やはり、ピンと来ない。
ーーやっぱり結婚とか、向いてないんだろうな。
思っているとき、チャイムが鳴った。
「あ、悪い。来客」
『橘さん?』
「さあな」
俺がぶっきらぼうに返すと、
『ふふ。よろしく伝えて』
隼人は柔らかく言った。
ああ、と言って電話を切ろうとした俺に、兄さん、と隼人が呼びかける。
『鍵、必要になったらいつでも言ってね』
俺はまた、ああ、と答えた。
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