素直になれない眠り姫

松丹子

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第2章 王子様は低空飛行

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「愛里、こっちこっちー!」

 私と一言交わしたいからと、純がホテル前まで迎えに出てきてくれた。手招きをされて向かってみると、純が目を輝かせる。

「すごい大人っぽい! なんかいつもと違くない!?」
「あの……美容師の友達から、モデル頼まれて」

 ごにょごにょと答えたのは、花音からのアドバイス通りの言葉だ。「そっか、専門学校のときの?」と言われて頷くと、純はうんうんと頷く。

「いつものメイクもいいけど、今日のもいいよ。え、どうしよ。太鼓(バッテリー)の先輩たち結構酒癖悪いから、誰か愛里を守ってあげないと……」

 私が「そんなの要らないよ」と笑おうとしたとき、純が私の後ろに目を止めて動きを止める。

「? 純、どうし……」

 振り向いた先に立っていたのは、スーツ姿の曽根だった。むすっとした相変わらずの仏頂面だけど、その服装はしゃれている。
 紺ストライプがおしゃれなライトグレーのスーツに、ミントグリーンのワイシャツ。ボタンがダークグリーンだから、ビジネス向きではなさそうだ。

「えっ、曽根、スーツ?」
「……仕事だったんだよ、午前中」

 不満げに言う曽根は、夏の日差しに眉を寄せる。

「暑っち。とっとと入るぞ、西野」
「え、あ、うん」
「会場、8階だよー」
「あ、ありがとー」

 ぐいと手を引かれて、半ばたたらを踏むようにホテルへ入る。開いた自動ドアの中は冷えていて気持ちよかった。

「寒くねぇの、肩出して」
「曽根は暑そうだね」
「暑いよ」

 言ったけどジャケットを脱ごうとはしない。私が不思議に思っていると、唇を尖らせた返事があった。

「……先輩指令で脱げない」
「は?」
「百貨店員たるもの、仲間に一着売るくらいの気持ちで見せつけて来いって言われた」

 私は一瞬ぽかんとして、込み上げた笑いを堪えきれずに噴き出す。
 それを言う遠藤さんの顔が思い浮かんで、笑いが止まらなくなった。

「笑いすぎじゃね」
「だって、なんか、曽根、遠藤さんの言うことには素直に従うよね」

 私の指摘に曽根が唇を尖らせた。エレベーターの前に立ち、ボタンを押す。

「尊敬してんの?」

 茶化すつもりで聞くと、その頬が少し赤くなる。

「うるせーよ、放っとけ」
「あはは」

 私は笑った。

「確かに、カッコいいもんね」

 私の言葉を聞いて、曽根が黙り込む。思わず笑った。

「サービス業の先輩として、だよ。ああいう軽い感じの人、タイプじゃないし」

 エレベーターのドアが開いた。曽根がボタンを押したまま、私が入っていくのを待つ。私が乗り込むと、するりとドア横に滑り込み、6階のボタンを押した。
 ラブホテルのエレベーターではあんまり見ない動きをしているなぁ、と思ってから、気づく。このホテルは少し、職場の雰囲気に似てるんだ。
 もしかしたら遠藤さん、そういうの織り込み済みでスーツ推奨した……?
 日頃の立ち振る舞いが出るのだろう。曽根は6階につくとドア横に手を差し伸べて私が降りるのを促した。目の前に、【音羽高校吹奏楽部 お祝い会】と案内がある。不安と期待の入り混じった複雑な気持ちがこみ上げてきた。
 私に続いてエレベーターを降りてきた曽根の方を振り返ると、息を吸って、呼びかけた。

「曽根」

 曽根はちらりと私を見下ろす。その顔は無表情だけれど、私を拒む気配はない。
 仕事のときとはまた違う、少し緩いながらも計算されたヘアセットも、遠藤さんの助言だろうか。短い髪を嫌味なく上げた額に、涼やかな目が一層引き立つ。

「……一緒に、いてくれる?」

 勇気を出して口にした言葉は、まるで迷子の子どものようにか弱かった。
 いつもの化粧も、気張った衣装もない。
 裸で衆目に立たされるような心境に、不安が膨れていく。
 曽根は一瞬私の顔をじっと見て、
 そして笑った。

「いつもそれくらい素直ならな」

 私は気恥ずかしさに顔が上げられず、「行くぞ」とポケットに手を突っ込んで歩き始めた曽根の横にうつむいたままついていく。
 会場のドアの前で立ち止まると、曽根はためらいなくノブに手をかけた。

「胸、張れよ。お前が気に病むことは何もないだろ」

 開けたドアの向こうに、シャンデリアが見える。立食形式で並ぶ机は、やっぱりホテルらしく豪華な装いだ。

「行くぞ、”眠り姫”」

 曽根が耳元で囁く。久々に感じた息遣いに、身体が震えた。私が見上げるよりも先に、曽根は前を向いてしまって、表情は見えない。

 ……曽根。

 ポケットに手を突っ込んだ曽根の肘に、手を添える。
 嫌がられるかと緊張したけど、曽根は黙って歩いていく。
 元からそのつもりで、肘を張っていたのだろう。

 素直じゃないのは、どっちよ。

 尖らせようとした唇は、不思議と引き上がった。
 私の前を歩く曽根は、ちょっとだけ機嫌がよさそうに見えた。
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