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第七章 織り姫危機一髪。(ヒメ/阿久津交互)

08 曇天

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 先方のホテルスケジュールが遅れ、予想以上に打合せが長引いた。五時には終わるだろうと高をくくっていたのに結局取引先を出たのは七時近くだ。
 美郷が店で待っているだろうと足早に歩き出す。
 駅は人でごった返していた。帰宅ラッシュだから仕方ないだろう。金曜の夜でもあり、駅で待ち合わせしている人も多い。顧客のホテルは北口にあるが、美郷の言ういつもの店は南口にある。駅を通過して行こうと人ごみをかいくぐりながら歩くと、美郷からメッセージが入った。
【まだ終わらない? 先、お店入ってるね】
 待たせていることに罪悪感を覚えて、メッセージから電話に切り替える。耳元にあててコール音を確認していると、ついそちらに意識が取られた。視界から外れていた小柄な女とうまく行き違えずにぶつかる。
「あ、すみません」
「失礼」
 言って互いに目を合わせたとき、それが澤田だと気づいた。
 俺と澤田が驚きに目を開いたとき、澤田の隣に立ち止まっている優男に気づき、俺はそちらを見やる。
 平均的な身長と体躯、穏やかな顔立ち。年齢は澤田と同じくらいか。
「――ああ、そう」
 半ば反射的に頷いたとき、美郷に電話が繋がる。
「行ってらっしゃい」
 言ってきびすを返した。
『もしもし? 終わった?』
 相変わらずけだるげな美郷の声がする。
「美郷。遅れて悪いな。今から行く」
 俺は澤田の方を見ずに、歩く速度をさらに上げた。澤田は追って来ない。それを無意識に確認している自分が、まるで追って来るのを期待しているように感じた。
 電話を切りながら舌打ちする。
 澤田の取り繕おうとする様子と、困惑した男の顔。
 まあ、お似合いだわな。
 スマホをポケットにつっこむ。
 あー、気分悪ィ。
 靴を重りに、遠心力でスウィングさせるように足を進めながら、細い美郷の身体を思い出していた。
 抱き心地は悪いが、この際仕方ない。
 仕方ない、なんて言える分際でもないが。
 思いながら笑う。そうだ、何を気にすることがある。お望み通り、ロリ女が俺から離れて行くのなら、それに越したことはないはずだ。
 それがどうしてーーこんなに、胸糞悪いのか。
「ちっ」
 俺はまた、舌打ちをした。ほだされかけていたのかもしれないと、自分のチョロさにあきれ苛立つ。
 もう40を目前にして、何を期待してたっつーんだ。
 昔の俺なら、ただ思っただけだったろう。一度抱いておけばよかったかと。あのでかい胸だけでも、その価値はあると。
 歩いて行くと、駅を抜けた。大通りから一本入り、さらに折れたところにその店はある。半地下の外階段を降り、店のドアを開くと、五席あるカウンターの一番奥に美郷が座っていた。いつも彼女が座っていた席だ。
 男が一人、話しかけているのが見える。俺はまた舌打ちした。店員に形だけ挨拶をし、美郷の後ろに立つと同時に腰を抱く。
「美郷。行くぞ」
 美郷は話していた男と俺の顔を見比べて、口の端を歪めた。

「ご飯、食べたの?」
「食ってない」
 美郷は当然のように俺の腕に腕を絡ませてきた。室外機の熱風がまだ通りを生温くしているが、だいぶ夏は終わりに近づいている。
 さんざん歩き回って汗をかいた身体にシャツがべたついて気持ちが悪い。
「じゃあ、ご飯、行く?」
 俺はちらりと美郷を見た。今まで美郷と食事をしたことはないと思い当たる。美郷と会ったのは、大概どこかで飯をすませ、二軒目もしくは三軒目として使っていたバーだ。
 出会って十年ほども経つのに、この女が何をしていて、どういう考えを持っているのかは知らない。
「奢らねぇぞ」
 ぶっきらぼうに言うと、美郷は笑った。
「いいよ別に。ホテル代は出してくれるんでしょ」
 俺は否定も肯定もしなかった。ホテル代を持つのはいつものことで、反論もない。
 黙って歩く俺の横顔を、美郷は楽しげに見上げた。
「珍しいな」
「何が?」
「お前のそのご機嫌」
「そう?」
 美郷は笑う。
「だって、あーくんが不機嫌だから」
 接続詞と述べられた理由が頭の中で結び付かず、ちらりと美郷を見下ろす。美郷は目を細めた。
「もう、女神様は忘れた?」
 俺はほとんど睨みつけるように女を見た。美郷の細い指先が、俺の二の腕をつつと撫でる。
「好きよ、あーくんのその顔」
 俺は舌打ちした。それを聞いて、美郷が笑う。
 俺は適当に道を折れ、居酒屋へ入った。
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