上 下
53 / 100
本編

52

しおりを挟む
 梨華とは翌日曜日の日中に会うことにした。
 夜に会う義理もないと真昼を指定したのは冬彦で、梨華は何も言わずに了解してきた。
 以前も数度会った駅で落ち合った梨華は、少し落ち着いた表情をしていた。
 合流するや、冬彦を大きな目で見上げ、どうします、と問うて来る。
 冬彦は黙って歩きはじめた。
 昼にしては遅くお茶にしては早い午後2時という選択をしたのは、店が空きすぎても混みすぎてもいないだろうと踏んだからだ。駅の周辺はそれでもさすがに人が多かったが、少し街中に出れば比較的空いていた。
 ゆっくり話をできそうな喫茶店を選び、入っていく。梨華は異見することもなく冬彦の背中についてきた。
 店は比較的新しいようだった。最も端の席が空いていたのでそこを選び、梨華と向き合って座る。
 店員がおしぼりを手にやってきて、コーヒーを二つ頼む。黙って梨華の表情を観察する冬彦を、梨華も不思議と余裕のある表情で見つめ返して来る。
 店員がコーヒーを持ってきて、二人の前に置いた。
 湯気と共に上り立つ香りを嗅ぎ取りながら、冬彦は口を開く。

「おじさんに、叱られでもしたか?」
「ふふ、ご名答」

 梨華は笑って、いたずらっぽい目のまま肩をすくめた。心底反省している風には見えず、冬彦の心中を苛立ちが撫でる。
 が、怒りにのまれるとペースも崩れる。そこは腐っても弁護士、一呼吸置いてわずかに顔を反らしつつ、コーヒーを口に運んだ。

「それで?」

 下手に自分から話すより、相手に話させた方が有利だ。
 梨華の目をちらりと見ると、梨華も手元のコーヒーに視線を落としている。
 その口元は小さな微笑みを浮かべていたが、それは彼女の口に張り付いた習慣のように見えた。

「……欲しいからっていう理由だけで、何でも手に入るわけじゃないんだぞって」

 梨華はくすくすと笑った。笑いながら、コップのふちを指先で撫でる。
 その指先は綺麗にマニキュアが塗ってあった。ピンク地に白いラインが描かれたそれは、秘書という仕事をしている中で許容されるギリギリの華やかさというところだろう。

「そんなの、分かってるのに」

 言いながら、梨華はくつくつ笑った。喉奥で立てる笑い声はどこか陰欝で、彼女らしい華やかさを曇らせる。
 しかしこれが彼女の素なのだろうとも見えて、冬彦は黙ってカップの持ち手に指を差し入れる。

「一番欲しいものが手に入らないから、一所懸命代わりになりそうなものを探しているのに。代わりだと思っていても、いずれそれが一番になるかもしれないでしょう?」

 梨華は言って、コーヒーを一口飲んだ。カップを下ろすと、ふっと笑う。

「んー、苦い。オトナの味」
「ミルク、入れれば」
「いらなーい」

 ミルクの入った小さな陶磁器をそっと梨華に寄せてやるが、梨華は一瞥もくれずに首を横に振った。冬彦は何も言わずにコーヒーを口に運ぶ。

「お兄ちゃんの話、してもいい?」

 梨華が感情をそぎ落としたような声で尋ねた。その静かな声音に、冬彦は黙って頷く。

「お兄ちゃんは、五歳年上でね。何でもできる人なの。男の子も女の子も、お兄ちゃんに憧れて、いつも人に囲まれてた」

 梨華の声は懐かしさと切なさを帯びていた。手元のカップを見ている目は、どこかぼんやり過去を追っている。
 冬彦が梨華の視線を追うと、コーヒーの表面に写っている梨華が見えた。
 口元に張り付いた笑みと、半ば伏せられた目。

「私、見た目はまあまあだけど、勉強が苦手だったから、お兄ちゃんによく教えてもらってた。お兄ちゃん、頭いいのに教えるのも上手で……何でだろうね。優しくて、強くて、ほんと、かっこいいの。自分がいろいろ、できちゃうもんだから、彼女ができると彼女を馬鹿にしたりもしてたけど、私にはそういうことも言わなくてーー仕方ないなぁ、って。梨華だから、仕方ないなって。言われる度に照れ臭くて、なんだか嬉しかった」

 冬彦はあいまいにあいづちを打った。梨華はそれを聞いているのかどうか、静かに話を続ける。
 それはまるで自分の感情を整理しているように、冬彦には見えた。

「私だって男の子ともつき合った。梨華ちゃん可愛いねって告白されて、つき合って、キスもセックスもして、しばらくしたら飽きて捨てられた。梨華は可愛いけど、意外と可愛くないって。甘えても、甘えてないよねって。わけわかんない、笑っちゃう。だから、男より先に私が別れを告げるようになった」

 梨華はコーヒーカップを持ち上げた。もうあまり熱くないはずのそれに、ふぅ、と息をはきかけてから口をつける。

「自分の気持ちに気づいたのは、高校生の頃だった。お父さんが交通事故で死んで、お母さんが社長になって、大学生のお兄ちゃんがそれを支えてた。お兄ちゃんは、大学を卒業したら会社を手伝うんだって言ってた。すぐに戦力になれるように、一緒に経営を勉強したいって。何でもできちゃうから、何にも本気にならないお兄ちゃんが、初めて真剣に話してるのを見て、なんだか置いてけぼりになった気分だった。お兄ちゃんは……五歳年上で、いつも、私の前を歩いてた。先にオトナになって、先に仕事についてーーいずれ、結婚して、違う家族になっていくんだって、そのとき急に、リアルに感じた」

 梨華はちらりと、冬彦を見上げて、綺麗な笑顔を浮かべた。

「同時に、今まで男の子に本気になれなかったのは、どこかでお兄ちゃんと比べていたからだって気づいた。お兄ちゃんだったらどうするかなとかーーキスもセックスも、お兄ちゃんならどうやって、女の子に触れるのかなってーーつき合う男の子たちは、お兄ちゃんの代わりになんてならなかった。お兄ちゃんは完璧すぎて、顔が似てるとか振る舞いが似てるとか、頭がいいとか、一部分だけが似てる男の人しか見当たらなかったから」

 くすくすと笑って、梨華はまたコーヒーに口をつける。そのまま、上目遣いで冬彦を見た。

「それでも、お兄ちゃんを好きでい続けるわけにはいかないでしょ。どうにかしなきゃと思ってた。そんなとき、小野田さんに会ったの。今までで一番、お兄ちゃんに似てる人だなって思ったんだ。弁護士さんで、何でもそつなくこなして、誰にでも好かれて、にこにこしてるのにーー不思議と、陰が見える」

 冬彦は目を伏せた。手に包んだコーヒーカップの中には、黒い背景に自分が浮かんでいる。

「小野田さんも同類なのかなって思った。欲しい何かを諦めた人なのかなって。この人なら、お兄ちゃんの代わりじゃなくて、私の唯一になれるんじゃないかって」

 梨華はため息をついた。

「……でも、もうゲームオーバーね」

 ひょいと肩をすくめた梨華は、ボイスレコーダーを冬彦に差し出した。ちらりと視線をそれに向け、また梨華の目を見た冬彦に、梨華は笑う。

「安心して。家のデータは消したから。いちゃいちゃ仲良くしちゃってさぁ。まったく聞いてるこっちが恥ずかしいったら」

 冬彦は渋面になり、レコーダーへ手を伸ばした。レコーダーを覆った手を、梨華が掴む。とたんに空気が緊張を孕んだ。
 冬彦は梨華を睨むように見やる。梨華は微笑んだ。

「キス、してくれない? ほんとに触れるだけのやつ。小野田さんみたいな人に愛されるのってどんな感じなのか、少しだけでも感じてみたいの」

 冬彦はため息をついて、もう一方の手を梨華の手に重ねた。
 梨華がすがるような目をして冬彦を見てくる。
 冬彦は苦笑した。

「代わりになんてならないのは、もう分かってるんだろ」

 梨華はじっと冬彦を見つめて、肩で息を吐き出した。

「……私にはもう、夢を見る権利もないのね」

 冬彦は梨華の手の下からレコーダーを取り出し、ジャケットの懐におさめると、伝票を手にした。
 梨華を置いて会計に向かいかけた冬彦の背中に、梨華の笑う声がする。

「それでも、黙って払ってくれるんだ。変な人」

 冬彦は立ち止まりかけたが、聞かなかったことにしてレジへと向かう。

「馬鹿みたい。男なんて……」

 梨華の呟きが聞こえた気がした。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!

当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。 しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。 彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。 このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。 しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。 好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。 ※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*) ※他のサイトにも重複投稿しています。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

My Doctor

west forest
恋愛
#病気#医者#喘息#心臓病#高校生 病気系ですので、苦手な方は引き返してください。 初めて書くので読みにくい部分、誤字脱字等あると思いますが、ささやかな目で見ていただけると嬉しいです! 主人公:篠崎 奈々 (しのざき なな) 妹:篠崎 夏愛(しのざき なつめ) 医者:斎藤 拓海 (さいとう たくみ)

冷酷無比な国王陛下に愛されすぎっ! 絶倫すぎっ! ピンチかもしれませんっ!

仙崎ひとみ
恋愛
子爵家のひとり娘ソレイユは、三年前悪漢に襲われて以降、男性から劣情の目で見られないようにと、女らしいことを一切排除する生活を送ってきた。 18歳になったある日。デビュタントパーティに出るよう命じられる。 噂では、冷酷無悲な独裁王と称されるエルネスト国王が、結婚相手を探しているとか。 「はあ? 結婚相手? 冗談じゃない、お断り」 しかし両親に頼み込まれ、ソレイユはしぶしぶ出席する。 途中抜け出して城庭で休んでいると、酔った男に絡まれてしまった。 危機一髪のところを助けてくれたのが、何かと噂の国王エルネスト。 エルネストはソレイユを気に入り、なんとかベッドに引きずりこもうと企む。 そんなとき、三年前ソレイユを助けてくれた救世主に似た男性が現れる。 エルネストの弟、ジェレミーだ。 ジェレミーは思いやりがあり、とても優しくて、紳士の鏡みたいに高潔な男性。 心はジェレミーに引っ張られていくが、身体はエルネストが虎視眈々と狙っていて――――

ズボラ上司の甘い罠

松丹子
恋愛
小松春菜の上司、小野田は、無精髭に瓶底眼鏡、乱れた髪にゆるいネクタイ。 仕事はできる人なのに、あまりにももったいない! かと思えば、イメチェンして来た課長はタイプど真ん中。 やばい。見惚れる。一体これで仕事になるのか? 上司の魅力から逃れようとしながら逃れきれず溺愛される、自分に自信のないフツーの女子の話。になる予定。

シングルマザーになったら執着されています。

金柑乃実
恋愛
佐山咲良はアメリカで勉強する日本人。 同じ大学で学ぶ2歳上の先輩、神川拓海に出会い、恋に落ちる。 初めての大好きな人に、芽生えた大切な命。 幸せに浸る彼女の元に現れたのは、神川拓海の母親だった。 彼女の言葉により、咲良は大好きな人のもとを去ることを決意する。 新たに出会う人々と愛娘に支えられ、彼女は成長していく。 しかし彼は、諦めてはいなかった。

つがいの皇帝に溺愛される幼い皇女の至福

ゆきむら さり
恋愛
稚拙な私の作品をHOTランキング(7/1)に入れて頂き、ありがとうございます✨ 読んで下さる皆様のおかげです🧡 〔あらすじ〕📝強大な魔帝国を治める時の皇帝オーブリー。壮年期を迎えても皇后を迎えない彼には、幼少期より憧れを抱く美しい人がいる。その美しい人の産んだ幼な姫が、自身のつがいだと本能的に悟る皇帝オーブリーは、外の世界に憧れを抱くその幼な姫の皇女ベハティを魔帝国へと招待することに……。 完結した【堕ちた御子姫は帝国に囚われる】のスピンオフ。前作の登場人物達の子供達のお話に加えて、前作の登場人物達のその後も書かれておりますので、気になる方は是非ご一読下さい🤗 ゆるふわで甘いお話し。溺愛。ハピエン♥️ ※設定などは独自の世界観でご都合主義となります。

奥手な羽野君の素顔〜性欲が爆発してキスしたらなぜかキスを返されました〜

AIM
恋愛
どこにでもいる普通の女子高校生、結城凛。容姿、運動神経、学力ともに秀でたところは何も無いのに、性欲だけがちょっと強いせいで悶々とした日々を送っている。そんなある日、図書館でよく見かけていた地味で優秀な同級生、羽野智樹に弾みでキスしてしまう。ドン引きされたと思って身構えていたらなぜかキスを返されて、しかも、翌日もう一度キスされたと思ったら家に誘われてしまい……。 奥手(?)な男子高校生×性欲に振り回される女子高校生の身体から始まる恋物語。

処理中です...