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水車小屋のリリス
禁婚令(1)
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ギギ、ガタッ、ゴト・・・
タイガは規則正しく繰り返す水車の音で目を覚ました。重い瞼を開けると、寝ぼけ眼で部屋の景色を眺めた。 鼻をくすぐる甘い香り。衣擦れの音に、はたと美しい天女のことを思い出した。もしや、ここは天国だろうか? 棚に書物が並んでいる。それも、城の書庫にあるような呪文に関する高価な本ばかりだ。あの女人は幻であっただろうか? あのような堅苦しい書物を読むのは、男と決まっている。タイガの知る女人は、文字よりも着飾ることに夢中だった。城で開かれる舞踏会は、男にとっては社交の場あり、女たちにとっては競い合いの場である。貴族の娘たちは、高価なドレスを纏い、身分ある男からの求婚を受けようと躍起になっていた。タイガはそのような女人にはまったくといって興味がなかった。だが、そうかと言って、微笑むだけが取り柄の従順すぎる女人では物足りない。もっとも、そうなるよう幼いころより躾られたのだから可哀想といえばそうである。大抵の場合、必ずといって欲深い身内の影がちらついた。娘を操り人形にしたてあげ、皇子の妻にした暁には己が権威を振るうのは目に見えていたからだ。だが、タイガはこうも思った。このように刺客に狙われるのは、生母の実家に力がないからだ。タイガの後ろ盾がリンゴ農園では、致し方ないと思うのだった。
「若様お目覚めですか?」
清らかな声は、あの美しき女人のものと思われた。タイガは顔が見たくて起き上がろうとする。だが、躰が思うようにいうことをきかなかった。
「お一人では、まだ無理でございます」
美しき女人はタイガの背に触れ、助け起こした。艶やかな黒髪が肩から流れ落ち、水晶のように透き通った菫色の瞳がタイガを覗き込んだ。
「すまん」
発した声は情けないほど弱々しかった。
「御身は、死の精霊の呪いで穢されたのでございます。ですから動けないのは当然です。むしろ、若様に命があって幸いでございました」
部屋は書物のほかに薬草や草木で染めた反物《たんもの》が下がっていた。しかし、タイガの傍に寄り添うサー・ブルーの姿が見えなかった。それを察したかのように女は言った。
「誠に勝手ながら、お連れの方に猪を仕留めてもらうようお願いいたしました」
「猪だと?」
「はい。ーーここは人間が立ち入れない精霊の地。あの世とこの世の狭間にある“狭間の森”。ですから、人間は追ってはこられませんが、小鬼は追ってくるでしょう。人間の匂いを感じますゆえ、猪の獣臭さで誤魔化すのでございます」
「それでは、そなたは人間ではないと?」
「私はリリス。ただのリリスでございます。自分が人間か否かはわかりませぬ」
リリスーー。美しい響きは、母の暮らすオーブ城に咲くカタクリの花を思わせた。それにどことなくだが、城でひっそり暮らす母、レーテルの面影にどこか似ている。今なら父上が母に惹かれた理由を理解できる。ならば、自分は運がいいとタイガは思った。父王が母と出会った時にはすでに正妻のクレア妃がいた。リリスと出会った自分には妻はおろか、婚約者すらいないのだから。
「若様、重湯を作りました。どうぞ召し上がりくださりませ」
リリスは器から一匙の重湯をすくう。
「これは?」
器から独特の香りが漂っていた。
「我が家の水車小屋でひきました、そばの実でございます。それを重湯にいたしました」
タイガは一瞬口をつけるか迷いが生じた。だが、この娘になら毒を盛られても構わないだろうと思うのだった。
「若様、ご心配にはおよびませぬ。このそばの実は俗世のものを使いました。傷がいえるよう特別な呪いを施しております。もし、毒を気にされてのことでしたら、わざわざ毒を盛る手間よりも、この地にあるものを食せば命は尽きてしまいます」
タイガはリリスのすくった重湯を口に入れた。塩気はほとんどなく口の中に良い香りが広がった。温かく、とろみのある液体に気持ちが安らぐのを感じた。ふと負傷した腕をみると、魔導師の使うルーン文字が書いてある。それどころかタイガは今更ながらに自分の上半身が、肌着一枚だと気がついた。
「若様のお召し物は、つくろいましてございます」
「かたじけない。何から何まで世話になる。ところで、私がここに来てから、どれくらいが経ったのだ?」
「ここは外の世界とは時の流れが違います。ゆえに、時差がどのくらいあるのかは私にもわかりませぬ。傷口はまもなく塞がりましょう。ですが、死の精霊の放つ“殺”の矢が、御身をかすめたのでございます。二度目は助からないかもしれませぬ。あるいは、若様に“殺”の力が宿ったか.....。確かめるすべは、今一度、“殺”と対峙しなければなりませぬ。ですが、それはあまりにも危険な行為。あ……、もしや、若様は御身を守護していたものをお外しになったのかしら‥‥‥?」
リリスはドラゴンの指輪のことを言っているのだろうか?
「訳あって外したのだが、なぜ、それを知っておる? 」
「時折、強い力の痕跡を感じるのでございます。それを申しました」
「ならば、そなたも死の精霊なのか?」
「いいえ。私は死んでしまった乳母の腕の中にいたそうです。私を見つけた父は、かつては死の精霊だった小鬼でした。私を育てるため、もののけの類いに身を落としたのでございます」
リリスは人間の子。あるいは……、死の精霊が殺すのを躊躇った美しきメリザンドか?
「そなた、見ず知らずの男に、かような事を話してよかったのか?」
タイガはリリスの視線をとらえて離さなかった。
「どうしたことか、自分でもよく判りませぬ。若様をみていましたら話したくなったのでございます」
リリスは恥じらうようにうつむいた。
タイガは規則正しく繰り返す水車の音で目を覚ました。重い瞼を開けると、寝ぼけ眼で部屋の景色を眺めた。 鼻をくすぐる甘い香り。衣擦れの音に、はたと美しい天女のことを思い出した。もしや、ここは天国だろうか? 棚に書物が並んでいる。それも、城の書庫にあるような呪文に関する高価な本ばかりだ。あの女人は幻であっただろうか? あのような堅苦しい書物を読むのは、男と決まっている。タイガの知る女人は、文字よりも着飾ることに夢中だった。城で開かれる舞踏会は、男にとっては社交の場あり、女たちにとっては競い合いの場である。貴族の娘たちは、高価なドレスを纏い、身分ある男からの求婚を受けようと躍起になっていた。タイガはそのような女人にはまったくといって興味がなかった。だが、そうかと言って、微笑むだけが取り柄の従順すぎる女人では物足りない。もっとも、そうなるよう幼いころより躾られたのだから可哀想といえばそうである。大抵の場合、必ずといって欲深い身内の影がちらついた。娘を操り人形にしたてあげ、皇子の妻にした暁には己が権威を振るうのは目に見えていたからだ。だが、タイガはこうも思った。このように刺客に狙われるのは、生母の実家に力がないからだ。タイガの後ろ盾がリンゴ農園では、致し方ないと思うのだった。
「若様お目覚めですか?」
清らかな声は、あの美しき女人のものと思われた。タイガは顔が見たくて起き上がろうとする。だが、躰が思うようにいうことをきかなかった。
「お一人では、まだ無理でございます」
美しき女人はタイガの背に触れ、助け起こした。艶やかな黒髪が肩から流れ落ち、水晶のように透き通った菫色の瞳がタイガを覗き込んだ。
「すまん」
発した声は情けないほど弱々しかった。
「御身は、死の精霊の呪いで穢されたのでございます。ですから動けないのは当然です。むしろ、若様に命があって幸いでございました」
部屋は書物のほかに薬草や草木で染めた反物《たんもの》が下がっていた。しかし、タイガの傍に寄り添うサー・ブルーの姿が見えなかった。それを察したかのように女は言った。
「誠に勝手ながら、お連れの方に猪を仕留めてもらうようお願いいたしました」
「猪だと?」
「はい。ーーここは人間が立ち入れない精霊の地。あの世とこの世の狭間にある“狭間の森”。ですから、人間は追ってはこられませんが、小鬼は追ってくるでしょう。人間の匂いを感じますゆえ、猪の獣臭さで誤魔化すのでございます」
「それでは、そなたは人間ではないと?」
「私はリリス。ただのリリスでございます。自分が人間か否かはわかりませぬ」
リリスーー。美しい響きは、母の暮らすオーブ城に咲くカタクリの花を思わせた。それにどことなくだが、城でひっそり暮らす母、レーテルの面影にどこか似ている。今なら父上が母に惹かれた理由を理解できる。ならば、自分は運がいいとタイガは思った。父王が母と出会った時にはすでに正妻のクレア妃がいた。リリスと出会った自分には妻はおろか、婚約者すらいないのだから。
「若様、重湯を作りました。どうぞ召し上がりくださりませ」
リリスは器から一匙の重湯をすくう。
「これは?」
器から独特の香りが漂っていた。
「我が家の水車小屋でひきました、そばの実でございます。それを重湯にいたしました」
タイガは一瞬口をつけるか迷いが生じた。だが、この娘になら毒を盛られても構わないだろうと思うのだった。
「若様、ご心配にはおよびませぬ。このそばの実は俗世のものを使いました。傷がいえるよう特別な呪いを施しております。もし、毒を気にされてのことでしたら、わざわざ毒を盛る手間よりも、この地にあるものを食せば命は尽きてしまいます」
タイガはリリスのすくった重湯を口に入れた。塩気はほとんどなく口の中に良い香りが広がった。温かく、とろみのある液体に気持ちが安らぐのを感じた。ふと負傷した腕をみると、魔導師の使うルーン文字が書いてある。それどころかタイガは今更ながらに自分の上半身が、肌着一枚だと気がついた。
「若様のお召し物は、つくろいましてございます」
「かたじけない。何から何まで世話になる。ところで、私がここに来てから、どれくらいが経ったのだ?」
「ここは外の世界とは時の流れが違います。ゆえに、時差がどのくらいあるのかは私にもわかりませぬ。傷口はまもなく塞がりましょう。ですが、死の精霊の放つ“殺”の矢が、御身をかすめたのでございます。二度目は助からないかもしれませぬ。あるいは、若様に“殺”の力が宿ったか.....。確かめるすべは、今一度、“殺”と対峙しなければなりませぬ。ですが、それはあまりにも危険な行為。あ……、もしや、若様は御身を守護していたものをお外しになったのかしら‥‥‥?」
リリスはドラゴンの指輪のことを言っているのだろうか?
「訳あって外したのだが、なぜ、それを知っておる? 」
「時折、強い力の痕跡を感じるのでございます。それを申しました」
「ならば、そなたも死の精霊なのか?」
「いいえ。私は死んでしまった乳母の腕の中にいたそうです。私を見つけた父は、かつては死の精霊だった小鬼でした。私を育てるため、もののけの類いに身を落としたのでございます」
リリスは人間の子。あるいは……、死の精霊が殺すのを躊躇った美しきメリザンドか?
「そなた、見ず知らずの男に、かような事を話してよかったのか?」
タイガはリリスの視線をとらえて離さなかった。
「どうしたことか、自分でもよく判りませぬ。若様をみていましたら話したくなったのでございます」
リリスは恥じらうようにうつむいた。
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