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《終章》 ふたりは非常階段で

春色

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 瞳子は、名残惜しくも一人でキャンパスツアーをして、最後に敷地のはずれにある古びた第二本館に彷徨いこんでいた。

 奈津子の学部の授業はよくここで行われていたようだが、瞳子は二度三度しか入ったことのなかった場所である。老朽化のため新年度からの改修工事が決まっていて、廊下の大部分がブルーシートで覆われていた。がらんとしていて人影はなかった。

 エレベーターは動いていなかった。

 気の向くままに階段をのぼって、三階まで行く。最終的に、四〇人ほど収容ができる講義室に入りこんでいた。彼が迎えにくるまで、ここで時間をつぶしていよう。

 空調がきいておらず、外の暖かい日ざしも入ってこないので、真冬のように寒い。瞳子はコートの首元をかき合わせた。

 ふと、昨日のレッスン中のことを思い出していた。

 ――住吉先生のこと、断らなければ良かったな。先生にも、すごくお世話になったし。

 一昨年の秋から個人レッスンをうけている住吉には、三歳の頃からバレエを教えてもらっていた。五年近くのブランクがあったものの、親戚のように長い関係だった。

 昨日は最初のバーレッスンから気もそぞろで、瞳子は叱られたときに「明日卒業式なんです」と言い訳をした。次の瞬間、住吉は「あら! おめでとう」と嬉しさに弾けた声をあげ、思いの丈をこめて抱きしめてくれた。

 その時の表情は、普段のレッスン時の厳しさとはかけ離れていて、深い感情が溢れていた。涙ぐんでいるようにさえ見えたかもしれない。

「明日の午前、私、クラスがないのよね。晴れ姿を見に、卒業式に行ってもいいかしら?」

 それを瞳子は、「晴れ姿って言っても、袴でも振袖でもないんで」と、ボソボソ言い訳しながら断ってしまった。

 理由は服装だけではない。彼が来てくれる予定だったからだ。子供のころからの知り合いに恋人を紹介する気恥ずかしさと、怒られるのではないかと危惧していたのもあって、彼女は二人を引きあわせることを、ずっと躊躇していた。

 住吉は早々に、瞳子がレッスンで外し忘れていた左手の指環に気づいていた。

 同僚だった彼女の母親が他界した経緯も、父親の縁もあてにできない事情も十分に知っていた。だから最初、瞳子は繰りかえし詰問され、叱責されたのだ。彼女が今、誰のお金で暮らしていて、どこからレッスン代を出しているか知ると、住吉は手こそあげないものの、尋常ではない激しさで言ってきた。

「私はあなたにそんな生き方してほしくなかった! 変な男の人と付きあってるんじゃないんでしょうね⁉」と。

 実際、いかがわしい場所で出逢った、変ではないけれど変わった人が相手だったので、瞳子は反論も説明も上手くできない。結果、その人は独身できちんと仕事をしている人だとしか伝えられなかった。ことあるごとに「紹介しなさい」と催促されるのだが、ためらいは大きくて実現できていなかった。

 半分だけの信頼で目をつぶってくれているようなものだ。

 奨学金待遇で大学に入学をしたこと。一般企業の内定をとり、大学での学業も無事におさめたこと。健康そうに暮らしていること。そして、瞳子がまたかつてのように夢中になって踊っていて、「お付きあいしてる人からも、応援してもらってるんです」と、幸せそのものの表情でいるからだ。

 信頼のない残りの半分には、幼い頃からの教え子とはいえ、ハタチを過ぎた人間の生き方に口を出せない、と遠慮がはたらいていているのだろう。

 この件に関しては、むしろ飛豪のほうが強く気にかけていた。

 レッスンを再開するとき、彼のアドバイスで住吉やお教室に手土産を携えていったし、レッスン帰りのお迎えでは、彼は「初回は俺が行って挨拶しようか。世話になってた人なんだろ」とまで言ってくれた。

 瞳子とて分かっているのだ。二人を引きあわせて、きちんと紹介するのが理解を得られる一番の近道だと。しかし様々な感情がごった混ぜになったまま、ずっと先送りしてきた。

 昨日「卒業式には来なくていいです」と伝えたあと、住吉は少し悲しげで、残りのレッスン時間中、ずっとギクシャクした気まずさが立ちこめていた。

 時間がたてばたつほど後悔し、反省もしていた。大切な人なのに、あんな言い方をすべきではなかった。

 来週の三月最後のレッスンの日、彼はまだ日本にいる。卒業もしたし頃合いかもしれない。

 今朝、あんなこと言われたし、と瞳子は、彼の「籍入れる時は白いドレス」発言を思いだした。

 前に話しあったこともあったが、二人とも両親の前例から、結婚という制度にはひどく懐疑的だった。だが、いつかタイミングが来たら、とりあえず入籍してみるのもいいかもしれない、とも思っている。

 二人のあり方に結婚制度がマッチしていないのなら、また別の形を模索すればいいのだと思う。

 未来さきは長いのだから、その場その場でベストを掴んでいくしかない。

 行けるところまで、彼と一緒に歩いていきたい。

 ともあれ、瞳子は新生活前のタスクリストに、二人に時間をとってもらうことを加えた。

 上手くいく。きっと全部上手くいく――。

 とりとめもなく考えごとをして過ごしていると、スマートフォンが着信で鳴りはじめた。他に誰もいない空き教室で、バイブの振動がいやに響く。

 彼からだった。電話口で飛豪は、「キャンパスの、君に相当近いところまで来ているけど、どの建物か分からない」と早口に伝えてきた。

「いま行くから、すぐ行くから。待ってて‼」

 瞳子は椅子から乱暴に立ち上がった。

 教室を飛びだすと、長いながい廊下が伸びていた。エレベーターは使えない。階段は、廊下の奥にある。校舎の端まで来てしまっていたのだ。ブルーシートで転ばないか、左足を気づかいながら走るのももどかしい。辺りを見まわすと、「非常階段」と書かれた扉が目についた。

 反射的に飛びついて鍵をまわすと、外につながっていた。

 春先の、眠気をさそわれる暖かな大気と、染みるようにまばゆい白金の陽光がどっと溢れてくる。暗がりの廊下から出てきた瞳子は、束の間、まぶしさに立ちどまった。

 光に目が慣れるとすぐに、十数メートル先の隣の校舎の植栽に、彼が電話を手にしたまま佇んでいるのが見えた。

「飛豪さんっ!」瞳子は叫んだ。

 返答も待たずに、カンカンカンと金属音をたてて非常階段を駆けおりる。一歩ごとに階段全体がギシギシと震える。昔住んでいた、玉川上水ぞいの古アパートみたいだ。早く彼に会いたい。

 急き立てられるように階段を下りていくと、彼も小走りにこちらの校舎に向かっていた。

「瞳子!」と、名前を呼ばれる。胸いっぱいに嬉しくてしかたない。

 最後の踊り場をターンすると、ちょうど彼が非常階段の手すりに届いたところだった。

 もう待ちきれない。

 彼女は階段のステップを蹴って、大きく跳躍した。彼が、ぎょっとした顔で宙を見上げる。

 ――残り五段、一メートル。大丈夫。飛豪さんは絶対にわたしを捕まえてくれる。あとで怒られるだろうけど。でもいい。大好き‼

 春色の空気を大きくはらんだコートごと、瞳子は彼の腕のなかに飛びこんだ。

〈了〉


★本作をお読みくださりありがとうございました。コメント等いただけますと励みになります。そして、二人を見守ってくださったすべての読者さまに感謝を★
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