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《終章》 ふたりは非常階段で

見てるようで見ていない

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 高瀬はロックグラスを両手で握りこんで、じっとこちらを見つめてくる。黒硝子を思わせる混じりけのない眼球が、彼女の内側に切りこんでくる。

「藤原さんとわたしが同じって……どんな意味でですか?」

「僕はどっちともソリが合わない。だけど、フェイ君にとっては大事な人」

 瞳子は硬直する。

 ――飛豪さーーーーん、サッカーの話をはさむ隙も与えてくれないんですけど、この弁護士さん。どーしたらいーんですかぁぁぁ?

 半泣きの気分を表面にはださず、彼女は返した。「あの、嫌だったら席離れますけど」と、中腰になる。

「別に意地悪言ってるつもりはないんだ。僕にとっての事実なだけで。青柳ちゃんには話したいことあったから、来てもらったし」

 どうやらケンカを売っているつもりはなかったらしい。が、あまりの物言いに吃驚してしまう。

「あいつは、フェイ君は、いい奴じゃん。見た目は南米マフィアだけど、ひねくれてないし、実は育ちも良い。あと、まあまあのファザコン」

「……はい」最後の追記に、ちょっとだけ笑ってしまう。「ですよね!」と、ニヤつきそうになる。

「ただ、人間としてデカい弱点も抱えているから、そこを突こうとする変なヤカラも時々現れる。もちろん過去にはボヤ騒ぎもあった。僕と美芳メイファンさんは、いつ時限爆弾が爆発するか、ずっとヒヤヒヤしてた」

「…………」

 知った顔をして頷くことなど、瞳子にはできなかった。

 高瀬と飛豪のあいだの長年にわたる交友の、深淵にふれてしまった気がした。普段は飛豪が高瀬をいなしたり、世知長けた態度でリードしているようだった。しかし、それだけではなかったことも垣間見える。

「君の手腕は本当に見事だった。弁護士として見てもあいつのは、いつか庇いきれなくなる時がくるとおそれていた。だけど君は自分の支配下に置いた。しかも、あれだけ逃げまわっていたカウンセリングだとか薬だとかにまで向きあわせて」

「わたしは、半分は自分のためにお願いしたんです。飛豪さんが完全には抜けてないって言うから。おそらく一生消えることはないって言うから……」

「それでいいと思う。あと、青柳ちゃんがフェイ君を見てるようで見ていないのも勝因だったと、僕は分析してる」

「……見てるようで見ていない。どういう意味でしょう?」

 考えても分からないことは、訊いてしまうにかぎる。瞳子は、この人と飲んでいても酔いが全然まわってこないと、内心で考えていた。迂闊なミスをすると、足元をすくわれてしまいそうだ。

「だって君は、芸術アートに魂を売ってるじゃないか。踊ってない時間の片手間に、踊るための糧にするためにフェイと過ごしてるんだろ?」

「そういうつもりでは……」

「批判してるつもりはないんだ。僕は、君はそうしていた方がいい、と思ってる。永遠に手に入らない君のことを追いかけてる時のほうが、あいつはブレないし、余計なゴミは振り落とされる。だから青柳ちゃんはせいぜい好き勝手やればいい」

 高瀬はグラスに残っていたタリスカーをあおって干した。立ち上がると、「そういえば内定取れたんだって? おめでとう」と四か月遅れの祝意をつたえた。

「ありがとうございます」

「フェイは君が、ハラスメント上司や先輩を殴りつけてクビになるのを心配してた。僕の番号持ってるなら、だれかの鼻の骨折る前に、電話よこして」

 彼は黒川に会計の合図をすると、瞳子の分も支払って店をあとにした。

 なにげに酷いことも言われた気がするが、とにかく高瀬は悪意で話しかけてきた訳ではない、と伝わってきた。遠回しに「友人をよろしく」と「話は聞いている」ということなのだろう。

 一人になって彼との会話を反芻しながら内省していると、ようやく手のあいた黒川が濡れた手をペーパーナプキンで拭きながら瞳子の席を訪れた。何を話していたのかと訊かれて、正直に答える。

「高瀬さん、前は頼まれても人の面倒をみるタイプじゃなかった。気に入った人としか、プライベートでは絶対に喋らない。ちなみに俺とは、F1とパリダカの話だけ」

 黒川の顔を見つめて、黙って続きをうながす。

「飛豪さんがいなくなって、あの人もそれなりに思うところがあるんだろうな」

 人と人との関係は、本当に興味深い。ふとした拍子に連鎖して移ろってゆく。

 バーカウンターに頬杖をついて前髪をかきあげた瞳子は、酔いどれた頭で一つだけ決意をした。明日のビデオコールで、自分はそんなに暴力的な人間ではない、と恋人に訴えなければ、と。
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