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《第8章》 叛逆のデスデモーナ
彼との距離
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今までで一番気まずい食卓だった。
カニカマと長ネギの天津飯、ワカメとエノキの中華スープ、茗荷やシソの葉を大量にあえた水茄子、デパ地下で買ってみたお高めの胡麻豆腐、というのが、その夜の献立だった。
特にこれといったテーマがある訳ではない。海外で外食中心の二週間を過ごしてきたら、野菜や口当たりのよい味が懐かしくなる。できる範囲で作ってみただけだ。
数時間前のことがあったので瞳子は不安だったが、彼はとりたてて不機嫌そうな様子を見せずに帰宅した。
シャワーを浴びたあと、「さすが、助かる。こういうのが食べたかった」と箸をとった。誤解されたくなかった瞳子は瞳子で、飛豪の出張中のあれこれを聞いたあとに、サーシャとの経緯をすべて話した。
「俺こそ割りこんで悪かった」と、食後にいれた緑茶を啜りながら、彼は淡々と謝った。
「二週間ずっとクライアント対応でストレス溜まってて、八つ当たりもあった。あとは……あんなの見てしまって、カッとした」
あんなのがどんなのかは、互いに口にださない。
一件落着、のはずだった。何事もなかったかのように日常を再開すればいい。少なくとも最初はそう思っていた。
なのにいつの間にか、日常から踏み外していた。
こういう日なら大抵、どちらからともなくリビングのソファで一緒にくつろぐか、彼のほうから「デザート買いにコンビニ行こう」と誘ってくれる。
しかし今日は、飛豪はさっさと席をたって食器を洗いはじめた。終わると、「疲れたから寝る」と自室に直行する。瞳子も自分に負い目があるのと、彼が疲れているのは確かなので引きとめることができない。
――あれ。一緒にソファタイムしてくれないのかな? ……さみしい。
食卓にひとり取り残されて、彼女はしょぼくれたまま、スマートフォンのニュースサイトを手持ちぶさたに開いた。
世界のどこかの国で起こった竜巻も、日本のプロ野球の新記録もどうでもいい。自分にとっては、手を伸ばせば届く距離に彼がいて、なにげない言葉をかわして、触ったり触られたりすることが大事だったのに。
――本当に疲れてるだけ……かな? 謝るの、足りなかったのかな? でも、怒ってる顔はしてなかった。
胸の底に、砂利のようにざらついた違和感が残っている。とらえどころのない不安を抱えたまま夜が暮れていった。
嫌な予感は的中して、瞳子の不安は徐々にくっきりした輪郭をとるようになってきた。
飛豪の心の、なにかが変わった。表面上は出張前と同じなのに、得体のしれないよそよそしさがある。自分に対して壁を作っている気がする。
まず、言葉数が減った。朝と晩の食事を一緒にとっているのに、その日の天気と帰宅時間のこと以外、会話にならなくなった。
以前は、冷蔵庫に補充しておいてほしい食材、週末のプラン、彼の通っているジムの近くにできたカフェ、就活がらみではエントリーシートへの突っこみから応募企業の絞りかたまで、何でも話題になっていたというのに、話しかけられることがなくなった。瞳子が話しはじめても、反応が薄いのでやりとりはすぐに終わってしまう。「どうしたの?」と訊いても、取り繕った顔で「時差ぼけが長引いてて、体がダルい」と言われてしまう。
決定的なのは、彼がいっさい触れてこなくなったことだった。
行為がなくなっただけでない。触れられるどころではなく、近づきさえされなくなってしまった。
元々、瞳子に関しては、飛豪はどんどん自分から距離を詰めてきていた。
朝起きて最初にリビングで顔をあわせた時はわしゃわしゃと髪を撫ぜてくるし、道を並んで歩いていても、気づいたら腕や手をさらりと取られている。したい気分のときは、こちらを刺激するようにうなじや頬に触れてきて、キスが降ってくる。ソファでのんびり過ごすときも、指先は自然に絡みつき、体ごと抱き寄せられていることが多い。
瞳子は、それに合わせているだけだった。彼が与えてくれる心地よいスキンシップを受けとめて、お返しすればいいだけの日々。彼が自分にお金をくれるかわりに、体を差し出す。自分から彼にぶつかっていかなくていいのは、当然のことだと思っていた。
それがいかに甘えきった思い上がりだったか。
触ってもらえなくなって初めて、自分もまた彼の手を必要としていたと気づかされる。
今までの居心地の良さは、彼がつくり出してくれていたものだった。彼が変わってしまうと、必然的に瞳子も戸惑う。それでいて、表面的には何事もない雰囲気で接してくるのだから、タチが悪い。
――わたしから近づいていいのかな。嫌がられないかな。それとも、もう既に嫌がられてるのかな。
出張中に何かあったのか。それとも、丸ビルで見られてしまったサーシャとのキスシーンのせいなのか。
――どうしよう。どうしよう。
彼がわたしに指一本ふれてくれない――なんてプライベートに過ぎること、奈津子にもヒガチカにも相談できない。時間とともに解決するかと最初は思っていたが、開いた距離はいっこうに縮まらなかった。
カニカマと長ネギの天津飯、ワカメとエノキの中華スープ、茗荷やシソの葉を大量にあえた水茄子、デパ地下で買ってみたお高めの胡麻豆腐、というのが、その夜の献立だった。
特にこれといったテーマがある訳ではない。海外で外食中心の二週間を過ごしてきたら、野菜や口当たりのよい味が懐かしくなる。できる範囲で作ってみただけだ。
数時間前のことがあったので瞳子は不安だったが、彼はとりたてて不機嫌そうな様子を見せずに帰宅した。
シャワーを浴びたあと、「さすが、助かる。こういうのが食べたかった」と箸をとった。誤解されたくなかった瞳子は瞳子で、飛豪の出張中のあれこれを聞いたあとに、サーシャとの経緯をすべて話した。
「俺こそ割りこんで悪かった」と、食後にいれた緑茶を啜りながら、彼は淡々と謝った。
「二週間ずっとクライアント対応でストレス溜まってて、八つ当たりもあった。あとは……あんなの見てしまって、カッとした」
あんなのがどんなのかは、互いに口にださない。
一件落着、のはずだった。何事もなかったかのように日常を再開すればいい。少なくとも最初はそう思っていた。
なのにいつの間にか、日常から踏み外していた。
こういう日なら大抵、どちらからともなくリビングのソファで一緒にくつろぐか、彼のほうから「デザート買いにコンビニ行こう」と誘ってくれる。
しかし今日は、飛豪はさっさと席をたって食器を洗いはじめた。終わると、「疲れたから寝る」と自室に直行する。瞳子も自分に負い目があるのと、彼が疲れているのは確かなので引きとめることができない。
――あれ。一緒にソファタイムしてくれないのかな? ……さみしい。
食卓にひとり取り残されて、彼女はしょぼくれたまま、スマートフォンのニュースサイトを手持ちぶさたに開いた。
世界のどこかの国で起こった竜巻も、日本のプロ野球の新記録もどうでもいい。自分にとっては、手を伸ばせば届く距離に彼がいて、なにげない言葉をかわして、触ったり触られたりすることが大事だったのに。
――本当に疲れてるだけ……かな? 謝るの、足りなかったのかな? でも、怒ってる顔はしてなかった。
胸の底に、砂利のようにざらついた違和感が残っている。とらえどころのない不安を抱えたまま夜が暮れていった。
嫌な予感は的中して、瞳子の不安は徐々にくっきりした輪郭をとるようになってきた。
飛豪の心の、なにかが変わった。表面上は出張前と同じなのに、得体のしれないよそよそしさがある。自分に対して壁を作っている気がする。
まず、言葉数が減った。朝と晩の食事を一緒にとっているのに、その日の天気と帰宅時間のこと以外、会話にならなくなった。
以前は、冷蔵庫に補充しておいてほしい食材、週末のプラン、彼の通っているジムの近くにできたカフェ、就活がらみではエントリーシートへの突っこみから応募企業の絞りかたまで、何でも話題になっていたというのに、話しかけられることがなくなった。瞳子が話しはじめても、反応が薄いのでやりとりはすぐに終わってしまう。「どうしたの?」と訊いても、取り繕った顔で「時差ぼけが長引いてて、体がダルい」と言われてしまう。
決定的なのは、彼がいっさい触れてこなくなったことだった。
行為がなくなっただけでない。触れられるどころではなく、近づきさえされなくなってしまった。
元々、瞳子に関しては、飛豪はどんどん自分から距離を詰めてきていた。
朝起きて最初にリビングで顔をあわせた時はわしゃわしゃと髪を撫ぜてくるし、道を並んで歩いていても、気づいたら腕や手をさらりと取られている。したい気分のときは、こちらを刺激するようにうなじや頬に触れてきて、キスが降ってくる。ソファでのんびり過ごすときも、指先は自然に絡みつき、体ごと抱き寄せられていることが多い。
瞳子は、それに合わせているだけだった。彼が与えてくれる心地よいスキンシップを受けとめて、お返しすればいいだけの日々。彼が自分にお金をくれるかわりに、体を差し出す。自分から彼にぶつかっていかなくていいのは、当然のことだと思っていた。
それがいかに甘えきった思い上がりだったか。
触ってもらえなくなって初めて、自分もまた彼の手を必要としていたと気づかされる。
今までの居心地の良さは、彼がつくり出してくれていたものだった。彼が変わってしまうと、必然的に瞳子も戸惑う。それでいて、表面的には何事もない雰囲気で接してくるのだから、タチが悪い。
――わたしから近づいていいのかな。嫌がられないかな。それとも、もう既に嫌がられてるのかな。
出張中に何かあったのか。それとも、丸ビルで見られてしまったサーシャとのキスシーンのせいなのか。
――どうしよう。どうしよう。
彼がわたしに指一本ふれてくれない――なんてプライベートに過ぎること、奈津子にもヒガチカにも相談できない。時間とともに解決するかと最初は思っていたが、開いた距離はいっこうに縮まらなかった。
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