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《第6章》 台湾・林森北路のサロメ
李 美芳
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瞳子がむずむずした甘さを面に出さないよう力いっぱい噛み殺していると、お姉さま方二人も同じことを感じているのか、悶絶したままそっと視線を外された。
――飛豪さん、気づいて! 気づいて! 後でもっと噂されちゃう。……あ、けどこの人、育ちが南米ラテン系だから、自然にこういうエスコートしちゃうのか……。
玄関に近い方の扉から家族づれが入ってきた。四〇代前後のポロシャツを着た男性と、その妻らしき快活そうな女性。二人のあいだには、小さな男の子。男の子は入るなり、歓声をあげてグランドピアノの下へと駆けこんでいった。
「室岡さん!」
ヒガチカが声をあげる。スミレも顔見知りのように彼らに挨拶する。瞳子は自分が初めての場なのもあって、臆してしまっていた。しかし、それを見せないようにするのが今日の仕事だ。
――かわいい彼女のフリをして飛豪さんの足を引っ張らないようにしないと。旦那さんの実家に行くって、こういう感じ?
元々、バレエ関係でパーティーや目上の人との会食は何度も経験している。
重要なのは、目立たないようにすることだ。基本的には聞き役に徹して、質問されたり、よほど気になった時だけ発言する。
そつなく室岡夫妻と挨拶をしてあたり障りのない世間話をしていると、どこからともなく、さっと風が流れた。
大柄な幾何学模様の赤いサマードレスを着た、長身の女性がテラスの外から窓をあけて立っていた。左腕には溢れんばかりに、純白のカサブランカの花束をかかえている。
伸びた背筋や、全身にまとう颯爽とした雰囲気、厳しさと底知れなさのある切れ長の瞳、華やかな化粧から、言わずと知れた。
彼女が李美芳だ。この屋敷の女主人だった。ととのえられたグレイヘアが美しい。
「こんにちは。あなたが例のお嬢さんね」
その人は、瞳子を真っすぐに見据えていた。
高くも低くもない、よく通る声。命令して、誰かを動かすことに慣れきっている芯のある声だった。口元は笑んでいるけれど、目はまったく笑っていない。コンクールの審査員の視線だった。
「初めまして。今日はお招きくださりありがとうございます。青柳瞳子と申します」
脳裏にジゼルを思い描きながら可憐にあらたまった顔をつくり、指先をそろえて丁寧に一礼した。
「叔母さん、どっから来てるんだよ」
彼が不平そうに言い、瞳子をさらに引き寄せた。
「あら、自分の家なんだから、どこから現れてもおかしくないでしょ。お花が遅れてたから、裏のほうに届けてもらっただけよ」
「瞳子、この人が叔母の李美芳。東京で会社経営をして、あとは台湾やシンガポールを行ったり来たりしてる」
「雑な説明ね。うちの飛豪がいつもお世話になってるみたいだけど……私もずっとあなたにお会いしたかったの」
彼女はコケティッシュに微笑みかけてきた。
――フェイハオ? あ、飛豪さんの名前の中国語読みか。えっと、この方は台湾からで……でも、日本語もすごく流暢で。
頭をせわしなく働かせながらも、瞳子も同じだけの微笑をかえした。
「とんでもないです。わたしこそ」
「今日は美味しいものばかり用意したの。まずはこの場所を楽しんで。あとでゆっくりお話しましょう」
彼女はローテーブルの上の花瓶をとってキッチンへと消えていく。後ろ姿にまで、きびきびとした威勢が漲っていた。
「どう?」彼が心配げに問いかけてきた。
「エネルギッシュな方ですね。『あとでゆっくり』っていうのが、ちょっと不安」
「その不安は正しい。今日はお互い、できるだけ無傷で帰ろうな。瞳子は俺のこと弾よけに使っていいから」
すなわち二人とも、被弾は避けられないということだ。口先だけの綺麗ごとを言わない、いかにも彼らしい現実路線の発言だが、不吉な予告編そのものだ。
「飛豪さん……嘘でもいいから、『君は俺が守る。傷一つつけない』って言ってくれると恰好いいのに」
クレームをつけると、彼は「無理です。本日は俺も戦場です」と、笑いめかしてすげなく却下してくる。
つり込まれるようにして、瞳子もクスッと吹きだす。二人でふざけ合っていると、訳もなく胸の底が温まってきた。
飛豪の手にあったペリエの瓶を奪うと、彼女は喉に水を流しこんだ。
――飛豪さん、気づいて! 気づいて! 後でもっと噂されちゃう。……あ、けどこの人、育ちが南米ラテン系だから、自然にこういうエスコートしちゃうのか……。
玄関に近い方の扉から家族づれが入ってきた。四〇代前後のポロシャツを着た男性と、その妻らしき快活そうな女性。二人のあいだには、小さな男の子。男の子は入るなり、歓声をあげてグランドピアノの下へと駆けこんでいった。
「室岡さん!」
ヒガチカが声をあげる。スミレも顔見知りのように彼らに挨拶する。瞳子は自分が初めての場なのもあって、臆してしまっていた。しかし、それを見せないようにするのが今日の仕事だ。
――かわいい彼女のフリをして飛豪さんの足を引っ張らないようにしないと。旦那さんの実家に行くって、こういう感じ?
元々、バレエ関係でパーティーや目上の人との会食は何度も経験している。
重要なのは、目立たないようにすることだ。基本的には聞き役に徹して、質問されたり、よほど気になった時だけ発言する。
そつなく室岡夫妻と挨拶をしてあたり障りのない世間話をしていると、どこからともなく、さっと風が流れた。
大柄な幾何学模様の赤いサマードレスを着た、長身の女性がテラスの外から窓をあけて立っていた。左腕には溢れんばかりに、純白のカサブランカの花束をかかえている。
伸びた背筋や、全身にまとう颯爽とした雰囲気、厳しさと底知れなさのある切れ長の瞳、華やかな化粧から、言わずと知れた。
彼女が李美芳だ。この屋敷の女主人だった。ととのえられたグレイヘアが美しい。
「こんにちは。あなたが例のお嬢さんね」
その人は、瞳子を真っすぐに見据えていた。
高くも低くもない、よく通る声。命令して、誰かを動かすことに慣れきっている芯のある声だった。口元は笑んでいるけれど、目はまったく笑っていない。コンクールの審査員の視線だった。
「初めまして。今日はお招きくださりありがとうございます。青柳瞳子と申します」
脳裏にジゼルを思い描きながら可憐にあらたまった顔をつくり、指先をそろえて丁寧に一礼した。
「叔母さん、どっから来てるんだよ」
彼が不平そうに言い、瞳子をさらに引き寄せた。
「あら、自分の家なんだから、どこから現れてもおかしくないでしょ。お花が遅れてたから、裏のほうに届けてもらっただけよ」
「瞳子、この人が叔母の李美芳。東京で会社経営をして、あとは台湾やシンガポールを行ったり来たりしてる」
「雑な説明ね。うちの飛豪がいつもお世話になってるみたいだけど……私もずっとあなたにお会いしたかったの」
彼女はコケティッシュに微笑みかけてきた。
――フェイハオ? あ、飛豪さんの名前の中国語読みか。えっと、この方は台湾からで……でも、日本語もすごく流暢で。
頭をせわしなく働かせながらも、瞳子も同じだけの微笑をかえした。
「とんでもないです。わたしこそ」
「今日は美味しいものばかり用意したの。まずはこの場所を楽しんで。あとでゆっくりお話しましょう」
彼女はローテーブルの上の花瓶をとってキッチンへと消えていく。後ろ姿にまで、きびきびとした威勢が漲っていた。
「どう?」彼が心配げに問いかけてきた。
「エネルギッシュな方ですね。『あとでゆっくり』っていうのが、ちょっと不安」
「その不安は正しい。今日はお互い、できるだけ無傷で帰ろうな。瞳子は俺のこと弾よけに使っていいから」
すなわち二人とも、被弾は避けられないということだ。口先だけの綺麗ごとを言わない、いかにも彼らしい現実路線の発言だが、不吉な予告編そのものだ。
「飛豪さん……嘘でもいいから、『君は俺が守る。傷一つつけない』って言ってくれると恰好いいのに」
クレームをつけると、彼は「無理です。本日は俺も戦場です」と、笑いめかしてすげなく却下してくる。
つり込まれるようにして、瞳子もクスッと吹きだす。二人でふざけ合っていると、訳もなく胸の底が温まってきた。
飛豪の手にあったペリエの瓶を奪うと、彼女は喉に水を流しこんだ。
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