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《第4章》 雨と風と東京駅

雨の夜

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 店を出たら霧のような小雨が降っていた。

 けぶるように街灯の光がにじんで見える。夜一〇時をまわっていたので、お堀端を歩く人影は少なかった。

 瞳子の革のポシェットに入っていた小さな折り畳み傘を飛豪がさしたが、身長差のせいか、どちらも半端に濡れてしまう。

 メトロの大手町駅から東西線に乗れば、一本で神楽坂につく。

「駅すぐだし、俺は平気だから」

 めっきり口数が少なくなっていた彼女に、彼は傘を譲ろうとした。そんな彼に、謝罪の言葉が口をついてでた。

「飛豪さん、さっきごめんなさい。明るく喋ったほうが心配されないかなって思ったんだけど、全然上手くできなかった」

「さっき一度、謝ってくれたからいいよ」

「……わたし、自分のこと喋るの下手だし、たまに喋ってみると失敗するから友達あまり多くないんです。ちょっと前まで、バレエさえ上手くいってれば他のことなんてどうでもいいと思ってたくらいだし。だから、あなたがさっき言ってた、人に頼るのもすごく苦手」

 するりと本音がこぼれだしていた。
 
 先ほどのフレンチのお店だと、彼が正面に座っていたために言えなかったが、隣に並んでいるだけで、本当の言葉で伝えることができる。

 彼は傘をもちかえると、無言で彼女の手のひらをとった。瞳子も握りかえす。深夜のビジネス街に地下鉄の入口がぽっかりと口をあけている。しかし二人はどうしてか行きすぎて歩きつづけた。

 雨音がかすかに傘を叩いている音が、心地よかった。雨に降りこめられると、世界から切り離されたように感じる。

 言葉もなく、二人はただ淡々と雨の夜道を歩んだ。曲がり角にさしかかると、急に真正面に東京駅があらわれた。

 日中の東京駅も威風堂々として立派だが、夜のライトアップされた赤煉瓦の壮麗さもまた別格だ。マホガニーレッドの厳めしい西欧風の建物。雨のなか赤い壁面は濡れて輝き、不思議な質感をおびている。ひどく幻想的だった。

「へぇ、夜の東京駅ってちゃんと見るの初めてかも」

「わたしも初めて。なんていうか、駅っていうよりお城みたい」

「ここの広場、人がいないとこんなにデカかったんだ。イベントとかできそう」

 道路をわたると、駅前に大きな空間が開けている。南北に長い駅舎が腕を広げて、訪れては去っていく人々を、出発の気分を、抱擁している。まるで、何かの舞台装置のようだった。

「ここなら、野外舞台だってできる……」

 誰に聞かせるともなく口にした瞬間、瞳子は自分が、グンと引っぱられたのを感じた。

 何に? そんなの決まってる。バレエにだ。

 怪我をしてからの五年間、一度だって来てくれなかったのに、どうして今。鼓動が一つ、体全体に反響しそうなくらい大きくはねた。

 ――呼ばれている。

 透明な腕に背中をおされ、彼の手をはなした。

 雨のなか、広場の中央にまっすぐに進んでいく。

 途中で、ハイヒールを脱ぎすてた。靴なんていらない。濡れたコンクリートをストッキングごしに受ける感触も、時折足首にはねる雨粒も、気にならなかった。ただ、今なら踊れると思った。その直感だけに突き動かされていた。

 一番ポジションのアンドゥオール。

 地面と、足の筋肉と、骨盤。骨盤から背筋、肩、頭のてっぺんまで、まっすぐに力が流れていく感覚が蘇る。この世のすべてを抱きしめられそうな全能感。頭のなかに、ゆるやかな甘い旋律が流れてきた。レ・シルフィード――ショパンのプレリュードだった。

 次の瞬間、音に導かれるようにして、雨の夜空へと腕がのびた。

 ――本当は、お星さまを掴みたかった。

 自分の腕がえがく軌道に、風が寄りそうのを感じる。雨が再会を喜ぶように、優しく頬をすべっていく。そう、踊るときだけは、ありとあらゆるものが味方だった。

 レ・シルフィードとは風の妖精たちを意味する。妖精たちが棲む森に詩人の男が迷いこみ、一晩、彼らは月あかりの下で踊りつづけるという、他愛もない筋書きだ。

 妖精たちに、地上の重力の支配はおよばない。体重など存在しないように軽やかなステップを刻み、風と手に手をとって戯れる。―――だから、膝と腰にかかる負荷が非常にきついバリエーションなのだ。「軽やかさ」がメインの踊りの出来は、体重と下半身の運動量で決まる。

 膝の靱帯断裂でバレエをやめた自分に、とても踊れる曲ではない。ポワントもジャンプもできない。最初から分かっている。

 それでも、魔法のように動けていた。

 単純なステップとアレンジだけで誤魔化している下半身と違って、腰から上――腕の関節、手首、背中の反り――は、思いのままだった。現役のときは苦手だった、手のひらの角度や指先のモーションにまで、余韻をひくニュアンスがつけられる。

 全身が雨に濡れているのに、体の芯に熱がともっていた。
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