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《第4章》 雨と風と東京駅

お堀端のフレンチ1

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 予約から一時間遅れて入ったのは、皇居のお堀端をのぞむ高層ビルにあるフランス料理店だった。夜の皇居の森――外苑――が、窓の外すぐ向かいに黒々と広がっている。

 飛豪が慣れた様子で名前をつげると、店の奥から「支配人」というネームプレートをつけた初老の男性があらわれた。柔和な表情を笑みくずす。そして、彼の後ろに半身を隠している瞳子にも歓迎するように会釈した。

「お待ちしておりました。いつもご贔屓くださりありがとうございます」

「いえ、むしろ今日は急な代理で申し訳ない」

「とんでもございません。お元気そうでなによりです。叔母様は息災ですか?」

「昨日から台湾とシンガポールに飛んでます。戻りは来月、かな」

「どうぞよろしくお伝えください」

「勿論です」

 親しげなやりとりを終えると、支配人は二人を奥まった窓際の席に案内した。

 椅子をひかれて、瞳子は席につく。まっさらな純白のクロスが目に刺さった。柄に蔦模様の細工がはいっていて、持ち重りする銀のカトラリーも、アンティークのような趣があって美しい。

 ――久しぶり、だと思う。こういう格式のある場所に来るのは。いつぶりだろう。

 こんないかにも、というフランス料理店に来たのは、コンクールで入賞したとき以来だ。母と、お教室の代表と、CMに出演した企業の幹部と青山の有名店に行った。が、緊張のあまり、味は全然覚えていない。

 馬鹿みたいな作り笑いを浮かべながら、ジュネーブの街角で食べた安ケバブのほうが食べごたえがあったな、と考えていた記憶がある。だれかの機嫌のための作り笑いも、バレエを喪うと同時にやめた。

 支配人の男性は、二人にメニューも渡さずに立ち去っていった。

「オーダーは?」不思議に思った瞳子は尋ねる。

「事前に頼んである。コースと、料理にあわせたワイン。飲めるよな?」

「はい。ここ、お知り合いのお店なんですか?」

「仕事関係でたまに来るんだ。もともとはウチの弁護士――高瀬――の家族が経営にかんでいて、その繋がりで。本当は今日、予約してたのは別の同僚で、記念日だったらしいんだけど、お子さんが熱だして行けなくなったから、代わりに席もらった」

「なにが美味しいんですか?」

「鹿とかイノシシのジビエ。あとやっぱ、グラタン・ドフィノワとブイヤベースが抜群にオススメ。ビストロ寄りだからメニューにないし、事前に頼まないと出してくれないんだけど。……フレンチは堅苦しくてプライベートではあまり来ないけど、ココは別。肉の焼き加減とソースのバランスが絶妙にいい」

 ――って、すごく行きなれてるじゃん、高級フレンチ。

 今までうっすら気づいていて、あまり直視しないようにしていた生活の格差に、瞳子は小さく心中でため息をついた。おそるおそる、最近くすぶっていた話題をきりだす。

「あの……こんなところで話していいことじゃないかもしれないけど、口座に二〇万円振り込みされてるの、気づきました。あれは、生活費っていう意味ですよね」

「うん。今後は月イチで入れておくから、好きに使ってくれていいよ。もちろん返済には乗せない。家電とか大きい買い物したい時とか、足りないときは応相談で」

「足りないとかじゃなくって、わたし一人の日常で使うには多すぎます」

「知ってる。だから、うちの食費とか生活用品も含めて。俺も余裕あるときは料理したいから、冷蔵庫に食材ストックしといてほしいし、洗剤とか電球きれたら補充も頼みたいんだ。あまった分は手間賃として納めてくれていい」

 要するに日々の買いだし係だ。大幅な残金が出てしまう気がするが、彼はそこまで想定して振り込んでくれている。細かく口出しして、煩わせたくなかった。

「……分かりました。もろもろ、了解です」

 釈然としない様子ながらも彼女が合意すると、彼は「家事は適当でいい」と付け加えた。「家政婦やってほしくて君と暮らしてるわけじゃない」と。

 この二週間、居候暮らしが落ちつかない瞳子が、自動掃除機が担当してくれない水まわりや玄関の掃除をせっせとしていたことに、彼は気づいていたらしい。

 曰く、「多少家が汚いくらいで、人間死なないから。掃除くらい俺もやるし、もし二人とも忙しくてどうしようもなくなったら、業者いれるから言って」とのことだった。ちなみに洗濯は各自でというルールなので、好きなタイミングで洗濯機をまわしている。

 ――なんかやっぱり、二〇万は多すぎるんだけどな。うーん、もっと他に何か……。

「買い物のついでに、クリーニングの回収もしましょうか? 玄関に、よく伝票置いてますよね」

「助かる。俺いつも忘れるんだ、あれ。コンシェルジュが引っこむ前なら、受け取れるから」

 共同生活の細々としたことを打ち合わせていると、ソムリエがフルートグラスを運んできた。グラスのなかでは桜色の泡が軽快にはじけている。ロゼのスパークリングだった。

「今日はお連れ様がいつもと違いますので、支配人からこちらのロゼを、と言われました」

 馴染みのソムリエのようで、彼は、瞳子に茶目っけのある目配せをしてきた。飛豪は、やれやれと言いたげにソムリエに渋い顔をつくってみせた。ため息をつきながら、補足する。

「ここに来るときは、だいたい高瀬かうちの代表――叔母――が一緒なんだ。って、どっちも会社の人間なんだけど。その二人とは、最初はだいたいシャンパン。普通の、金色のやつ」

 彼が「参ったな。絶対いろいろ裏で言われてるよな。それ覚悟で来たからいいんだけど」とぼやいているのがやけに可笑しくて、瞳子はついクスクス笑ってしまった。

「『親戚』とか『遠縁』とかって、わたしから言いましょうか?」

「いいよ別に。どうせ見えないし気にしてないから。バレたくなかったら、最初からこの店は避けてた」

 テーブルの上でシュワシュワとご機嫌にアルコールが発泡している。お互いグラスのステムに指をかけたところで、彼はもう一度真剣な表情をつくった。

「乾杯の前に、厄介な話は終わらしておこう。返済は六〇〇万ピッタリでいい。俺は君を歓迎してるし、二年間、楽しくやってきたいと思ってる。だから君も、あの家ではのんびりしてくれていいよ」

「でも……」

 まだあれこれ言いそうな瞳子を、飛豪は強めの口調の英語に切りかえておさえた。

“Any question?(質問は?)”

“No...(ない……)”

「じゃ、乾杯」

 二人のグラスが触れあって、涼やかな軽い音がたった。

 ――とりあえず、この流れに……っていうか飛豪さんに委ねるしかないんだろうな。

 瞳子の心中では、どこかまだ、これでいいのかな、という躊躇いが残っている。世の中、こんなに親切にしてくれる人なんて現れるはずがない、と思っている。

 バレエがなくなって、手助けしてもなんのメリットのない自分に手をさしのべてくれる人が、この世にいるはずがないのだ。取引とはいえ、彼の負担のほうが多すぎる。

 手元のグラスでは、ピンクの泡が軽快にシュワシュワとはぜていた。不安を打ち消すように、瞳子はグラスを大きく傾けて喉へと流しこんだ。
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