36 / 192
《第3章》 ロミオ at 玉川上水
おうちデート2
しおりを挟む
西陽が部屋を真っ赤に染めあげるころ、言葉少なになっていた彼女がことりと眠りにおちた。
やはり疲れていたのだろう。瞳子の姿勢が自分のほうに傾いてきたので、飛豪は慎重に、ゆっくりと誘導するように動いて、畳に接地させた。人の肩にもたれるより、横になったほうが回復がはやい。
――バイトが九時からって言ってたな。あと一時間は寝かせられるか。
彼女はかすかに寝息をたてて、眠っている。
口元にかかっている髪の束が気になって、眠りをおびやかさないよう、彼はそっと動かした。
黄昏色をうつしているその寝顔は、睫毛がやけに長いことをのぞいては、ありふれた若い女性の健やかさだった。飛豪はじっと見下ろした。
普通の子だと思う。しかし、なにかが普通でない。
その普通でない「なにか」があの夜、飛豪の琴線にふれた。少なくても、むざむざ危機に放置しておけない程度には既に囚われてしまっている。
飲みっぱなしになっていたコーヒーカップを洗ってしまい、ゴミの処分をすると、手持ちぶさたになった。
ボリュームをおさえていた音楽をようやく止めると、何通かショートメッセージが入っていたことに気づいた。すべて藤原からだった。
《お前ら待ち合わせしてたんなら、事前に言えよこの野郎》これは吉祥寺のファッションショップの時間帯だ。
《俺は酒が飲みたい》単なるアル中のボヤき。
《ひょっとして玉川上水向かってる?》タクシーに乗ったあたりのメール。
《おうちデート中悪いけど、返信くれないか。俺は墓地の向こうで適当に昼寝してる》最後のメールは、一時間前のものだった。
和室とキッチンのあいだのガラス戸を、音を立てないようゆっくりと閉めた。キッチンの隅っこに腰を下ろし、藤原に電話をかけた。寝ているといったくせに、彼はワンコールで電話をとった。
「ったくよ。先に言ってくれよ」しかし、声はどうしようもなく眠たげで、睡魔が喉にからまっている。
「悪かったけど、まったくの偶然。吉祥寺のネットカフェで一晩過ごしたところまでは知ってたけど、あそこで出会うとは思わなかった」
「貸しイチな」
「貸しって、俺、オッサンに代金払ってるけど。仕事だろ」
飛豪が醒めた声で抗議すると、藤原は「まぁいいや」と軽く受け流した。
「彼女、今日は夜バイト?」
「うん、さっき言ってた。八時すぎに自転車で行くだろうから、俺はここで別れる。そこから先は頼む」
「OK。じゃあ、俺ももうちょい寝かせてもらうよ。先に言っとくけど、八田らしき人間がこの数時間で二、三人、アパートの前うろついてるからな。お前も帰り、しっかり撒けよ」
「了解」
「で、対象にはセキュリティがついてること、もう言ったか?」
「まだ言えてない」
「しっかりしてくれよ。早ければ早いほどいいって言ってるだろ」
「分かってる。……でもさ、こっちも難しいんだ。やっと少しずつ心開いてきてる人間に、いきなり『お前のこと全部知ってる。調べあげた』って、なかなか言えないだろ。信頼関係がゼロになるどころかマイナスだ」
飛豪が躊躇をにじませると、藤原は声色を変えた。
「坊ちゃんが、女絡むとお馬鹿さんになるっつうのは、オジさん知らなかったわ。お前はさ、恋愛ゴッコがしたいのか? それとも、利息つきでキッチシ金の回収したいのか? どっちだ。話聞いてるかぎり、嬢ちゃんのほうが余程シビアに物事考えてる風だけどな。少なくとも彼女は今んトコロ、同情抜きで六〇〇万返すつもりで動いてるように俺には見える。本質を見ろ。人動かしといて、今更こんなこと言わせんじゃねぇよ、アホガキっ!」
「あ? アル中が言いたい放題言ってんじゃねぇよ」
低く返した声の凄みに迫力がともなっていないのは、自分でも気づいていた。
仕事に徹すると、必然的に傷つけてしまう。二週間前までは型落ちのパソコンなみにどうでも良かった彼女が、今はそうではなかった。
通話が切れてしまったスマートフォンを片手に、飛豪は目をつぶった。
藤原の意図は明確だ。こちらに発破をかけて、非情な選択肢をとれる人間にさせたい、というある種の親心だ。
――普通なら、ギリギリまで喋らないで済ませるんだろうな。
しかし、飛豪は藤原に仕事をさせてしまっている。それは、美芳叔母が関知している、ということも意味する。
もう言うしかないところまで来ている。
だとしたら、自分の軸足があの組織に置かれている以上、身内や社員としての立場をおろそかにはできない。結果的にそれが、彼女の身を守ることにもつながる。
彼が立ち上がったところで、ガラスの仕切り戸の向こうで身動きする気配があった。やがて、夕闇が立ちこめた暗がりから扉がひらき、瞳子がひょっこりと顔をのぞかせた。
「飛豪さん……。もう帰る? それとも、コーヒーおかわり?」
顔に畳のあとがついているのにも気づいてなく、髪はくしゃくしゃに寝乱れたままの彼女の姿に、飛豪はプッと噴きだした。
「ちょ……先に鏡見てきたほうがいい。俺が電話してたから起きたんだよな? 悪かった」
「ん、大丈夫」
屈託なくにこりとしてみせた彼女は寝起きそのもので、化粧もはげていて、なんなら口の端に乾いた涎痕まで残っている。
なのに、なぜか今までで一番、最高に、めちゃくちゃに、かわいいと彼には思えた。
――なにこいつ。ちょっと、意味不明なくらい抱きしめたいんだけど!
自分の脳天に直撃してきた欲望が、性欲からはピントがズレているものであることに、飛豪はまだ気づいていない。しかし、今しか話すタイミングがないことだけは、強く自覚していた。
「あのさ、話したいことがあるから、もう一杯コーヒー飲んでいい?」
時間は七時前だ。いつの間にかソックスを脱いでいた瞳子は、ひたひたと軽い足音をたてて、キッチンの片隅に置いてある電気ポットを手にとった。
やはり疲れていたのだろう。瞳子の姿勢が自分のほうに傾いてきたので、飛豪は慎重に、ゆっくりと誘導するように動いて、畳に接地させた。人の肩にもたれるより、横になったほうが回復がはやい。
――バイトが九時からって言ってたな。あと一時間は寝かせられるか。
彼女はかすかに寝息をたてて、眠っている。
口元にかかっている髪の束が気になって、眠りをおびやかさないよう、彼はそっと動かした。
黄昏色をうつしているその寝顔は、睫毛がやけに長いことをのぞいては、ありふれた若い女性の健やかさだった。飛豪はじっと見下ろした。
普通の子だと思う。しかし、なにかが普通でない。
その普通でない「なにか」があの夜、飛豪の琴線にふれた。少なくても、むざむざ危機に放置しておけない程度には既に囚われてしまっている。
飲みっぱなしになっていたコーヒーカップを洗ってしまい、ゴミの処分をすると、手持ちぶさたになった。
ボリュームをおさえていた音楽をようやく止めると、何通かショートメッセージが入っていたことに気づいた。すべて藤原からだった。
《お前ら待ち合わせしてたんなら、事前に言えよこの野郎》これは吉祥寺のファッションショップの時間帯だ。
《俺は酒が飲みたい》単なるアル中のボヤき。
《ひょっとして玉川上水向かってる?》タクシーに乗ったあたりのメール。
《おうちデート中悪いけど、返信くれないか。俺は墓地の向こうで適当に昼寝してる》最後のメールは、一時間前のものだった。
和室とキッチンのあいだのガラス戸を、音を立てないようゆっくりと閉めた。キッチンの隅っこに腰を下ろし、藤原に電話をかけた。寝ているといったくせに、彼はワンコールで電話をとった。
「ったくよ。先に言ってくれよ」しかし、声はどうしようもなく眠たげで、睡魔が喉にからまっている。
「悪かったけど、まったくの偶然。吉祥寺のネットカフェで一晩過ごしたところまでは知ってたけど、あそこで出会うとは思わなかった」
「貸しイチな」
「貸しって、俺、オッサンに代金払ってるけど。仕事だろ」
飛豪が醒めた声で抗議すると、藤原は「まぁいいや」と軽く受け流した。
「彼女、今日は夜バイト?」
「うん、さっき言ってた。八時すぎに自転車で行くだろうから、俺はここで別れる。そこから先は頼む」
「OK。じゃあ、俺ももうちょい寝かせてもらうよ。先に言っとくけど、八田らしき人間がこの数時間で二、三人、アパートの前うろついてるからな。お前も帰り、しっかり撒けよ」
「了解」
「で、対象にはセキュリティがついてること、もう言ったか?」
「まだ言えてない」
「しっかりしてくれよ。早ければ早いほどいいって言ってるだろ」
「分かってる。……でもさ、こっちも難しいんだ。やっと少しずつ心開いてきてる人間に、いきなり『お前のこと全部知ってる。調べあげた』って、なかなか言えないだろ。信頼関係がゼロになるどころかマイナスだ」
飛豪が躊躇をにじませると、藤原は声色を変えた。
「坊ちゃんが、女絡むとお馬鹿さんになるっつうのは、オジさん知らなかったわ。お前はさ、恋愛ゴッコがしたいのか? それとも、利息つきでキッチシ金の回収したいのか? どっちだ。話聞いてるかぎり、嬢ちゃんのほうが余程シビアに物事考えてる風だけどな。少なくとも彼女は今んトコロ、同情抜きで六〇〇万返すつもりで動いてるように俺には見える。本質を見ろ。人動かしといて、今更こんなこと言わせんじゃねぇよ、アホガキっ!」
「あ? アル中が言いたい放題言ってんじゃねぇよ」
低く返した声の凄みに迫力がともなっていないのは、自分でも気づいていた。
仕事に徹すると、必然的に傷つけてしまう。二週間前までは型落ちのパソコンなみにどうでも良かった彼女が、今はそうではなかった。
通話が切れてしまったスマートフォンを片手に、飛豪は目をつぶった。
藤原の意図は明確だ。こちらに発破をかけて、非情な選択肢をとれる人間にさせたい、というある種の親心だ。
――普通なら、ギリギリまで喋らないで済ませるんだろうな。
しかし、飛豪は藤原に仕事をさせてしまっている。それは、美芳叔母が関知している、ということも意味する。
もう言うしかないところまで来ている。
だとしたら、自分の軸足があの組織に置かれている以上、身内や社員としての立場をおろそかにはできない。結果的にそれが、彼女の身を守ることにもつながる。
彼が立ち上がったところで、ガラスの仕切り戸の向こうで身動きする気配があった。やがて、夕闇が立ちこめた暗がりから扉がひらき、瞳子がひょっこりと顔をのぞかせた。
「飛豪さん……。もう帰る? それとも、コーヒーおかわり?」
顔に畳のあとがついているのにも気づいてなく、髪はくしゃくしゃに寝乱れたままの彼女の姿に、飛豪はプッと噴きだした。
「ちょ……先に鏡見てきたほうがいい。俺が電話してたから起きたんだよな? 悪かった」
「ん、大丈夫」
屈託なくにこりとしてみせた彼女は寝起きそのもので、化粧もはげていて、なんなら口の端に乾いた涎痕まで残っている。
なのに、なぜか今までで一番、最高に、めちゃくちゃに、かわいいと彼には思えた。
――なにこいつ。ちょっと、意味不明なくらい抱きしめたいんだけど!
自分の脳天に直撃してきた欲望が、性欲からはピントがズレているものであることに、飛豪はまだ気づいていない。しかし、今しか話すタイミングがないことだけは、強く自覚していた。
「あのさ、話したいことがあるから、もう一杯コーヒー飲んでいい?」
時間は七時前だ。いつの間にかソックスを脱いでいた瞳子は、ひたひたと軽い足音をたてて、キッチンの片隅に置いてある電気ポットを手にとった。
1
お気に入りに追加
81
あなたにおすすめの小説
冷徹御曹司と極上の一夜に溺れたら愛を孕みました
せいとも
恋愛
旧題:運命の一夜と愛の結晶〜裏切られた絶望がもたらす奇跡〜
神楽坂グループ傘下『田崎ホールディングス』の創業50周年パーティーが開催された。
舞台で挨拶するのは、専務の田崎悠太だ。
専務の秘書で彼女の月島さくらは、会場で挨拶を聞いていた。
そこで、今の瞬間まで彼氏だと思っていた悠太の口から、別の女性との婚約が発表された。
さくらは、訳が分からずショックを受け会場を後にする。
その様子を見ていたのが、神楽坂グループの御曹司で、社長の怜だった。
海外出張から一時帰国して、パーティーに出席していたのだ。
会場から出たさくらを追いかけ、忘れさせてやると一夜の関係をもつ。
一生をさくらと共にしようと考えていた怜と、怜とは一夜の関係だと割り切り前に進むさくらとの、長い長いすれ違いが始まる。
再会の日は……。
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
【R18】豹変年下オオカミ君の恋愛包囲網〜策士な後輩から逃げられません!〜
湊未来
恋愛
「ねぇ、本当に陰キャの童貞だって信じてたの?経験豊富なお姉さん………」
30歳の誕生日当日、彼氏に呼び出された先は高級ホテルのレストラン。胸を高鳴らせ向かった先で見たものは、可愛らしいワンピースを着た女と腕を組み、こちらを見据える彼の姿だった。
一方的に別れを告げられ、ヤケ酒目的で向かったBAR。
「ねぇ。酔っちゃったの………
………ふふふ…貴方に酔っちゃったみたい」
一夜のアバンチュールの筈だった。
運命とは時に残酷で甘い………
羊の皮を被った年下オオカミ君×三十路崖っぷち女の恋愛攻防戦。
覗いて行きませんか?
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
・R18の話には※をつけます。
・女性が男性を襲うシーンが初回にあります。苦手な方はご注意を。
・裏テーマは『クズ男愛に目覚める』です。年上の女性に振り回されながら、愛を自覚し、更生するクズ男をゆるっく書けたらいいなぁ〜と。
幸せの見つけ方〜幼馴染は御曹司〜
葉月 まい
恋愛
近すぎて遠い存在
一緒にいるのに 言えない言葉
すれ違い、通り過ぎる二人の想いは
いつか重なるのだろうか…
心に秘めた想いを
いつか伝えてもいいのだろうか…
遠回りする幼馴染二人の恋の行方は?
幼い頃からいつも一緒にいた
幼馴染の朱里と瑛。
瑛は自分の辛い境遇に巻き込むまいと、
朱里を遠ざけようとする。
そうとは知らず、朱里は寂しさを抱えて…
・*:.。. ♡ 登場人物 ♡.。.:*・
栗田 朱里(21歳)… 大学生
桐生 瑛(21歳)… 大学生
桐生ホールディングス 御曹司
鬼上司の執着愛にとろけそうです
六楓(Clarice)
恋愛
旧題:純情ラブパニック
失恋した結衣が一晩過ごした相手は、怖い怖い直属の上司――そこから始まる、らぶえっちな4人のストーリー。
◆◇◆◇◆
営業部所属、三谷結衣(みたに ゆい)。
このたび25歳になりました。
入社時からずっと片思いしてた先輩の
今澤瑞樹(いまさわ みずき)27歳と
同期の秋本沙梨(あきもと さり)が
付き合い始めたことを知って、失恋…。
元気のない結衣を飲みにつれてってくれたのは、
見た目だけは素晴らしく素敵な、鬼のように怖い直属の上司。
湊蒼佑(みなと そうすけ)マネージャー、32歳。
目が覚めると、私も、上司も、ハダカ。
「マジかよ。記憶ねぇの?」
「私も、ここまで記憶を失ったのは初めてで……」
「ちょ、寒い。布団入れて」
「あ、ハイ……――――あっ、いやっ……」
布団を開けて迎えると、湊さんは私の胸に唇を近づけた――。
※予告なしのR18表現があります。ご了承下さい。
不倫され妻の復讐は溺愛 冷徹なあなたに溺れて幸せになります
雫石 しま
恋愛
夫と姑から冷遇され、愛人に振り回される木古内果林(25歳)のシンデレラをモチーフにしたハッピーエンディング物語。 <お題> *サレ妻 *嫁いびり *溺愛 *ざまー要素
ダブル シークレットベビー ~御曹司の献身~
菱沼あゆ
恋愛
念願のランプのショップを開いた鞠宮あかり。
だが、開店早々、植え込みに猫とおばあさんを避けた車が突っ込んでくる。
車に乗っていたイケメン、木南青葉はインテリアや雑貨などを輸入している会社の社長で、あかりの店に出入りするようになるが。
あかりには実は、年の離れた弟ということになっている息子がいて――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる