257 / 279
後日譚〜あれから〜
29 【マティアス】沼の底へ
しおりを挟む
公爵邸にたどり着いたときには、とうに深夜を過ぎていた。
リュカのかけらの残るこの屋敷は、いつしか安住の地では無くなっていた。
どうしても泊まらなければならない夜以外は、領地の城に戻る。
今日は、王太子殿下に呼ばれ、深夜まで外交政策について議論を交わし、明日早朝から閲兵に同行することになっている。これからしばらくは領地には戻らず、公爵邸で過ごすことにしていた。
私は深夜から早朝までの数時間しか屋敷に滞在しないため、リュカとは顔を合わせずに済む。
リュカは、最近では体調も良くなり、また平民に戻る準備を進めていると、報告を受けた。
「愛している」と言われ、あまりに残酷な嘘に、我慢がならなかった。
結局ひた隠しにしていた、私の情けない感情をさらけ出し、みっともない羽目になった。
いままでずっと常に冷静に、気高い公爵として振る舞っていたのに、きっと失望されただろう。
もう、リュカの目をまともに見られそうにない。
屋敷に戻ると、ベネディクトが迎えに出た。
「おかえりなさいませ、旦那様」
手袋を渡し、手短に伝える。
「書斎に行く。何もいらない」
「はい」
すこし書類を読むことができるだろう。
明日は早朝の予定のあと、宰相閣下の補佐に入り、午後には領地に向かわねばならない。
忙しい方がいい。余計なことを考えずに済む。
足早に書斎に入り、着替えを済ませると同時にワゴンが運び込まれてきた。
ワゴンの上にはパンやフルーツやチーズ、飲み物が所狭しと並べられていた。
「食事はいらない」
「食事ではございません。あくまでも軽いものでして」
ベネディクトは隙を見つけては私に何かを食べさせようとする。
たしかにフルコースではないが、量が多すぎた。
「少しでいい。下げて皆に振る舞いなさい」
「ありがとうございます」
ベネディクトが深々と頭を下げ、微笑みを浮かべた。目が笑っていない。
「ですが、準備した者のために召し上がってくださいますよね?」
争う気力もない私は、黙ってソファーに座った。
確かに、この夜中、誰かが湯を沸かし、パンを温めてくれたんだろう。
ハーブティーをそっと私の前に差し出しながら、ベネディクトが静かに口を開いた。
「リュカ様のことですが」
「ああ」
「すっかり体調も戻られたご様子です」
「そうか」
「これからの生活の支援は、いかがいたしましょう。スパイ騒ぎでこれまで蓄えたお金も服もなにもかも、ドランシに置いてきてしまったので、言葉は悪いですが文無しかと」
「・・・面倒をみてやれ。リュカがしたいようにさせてやれ」
「はい、うけたまわりました」
「金がほしいなら、渡せ。公爵家にあるものなら、何でも持っていかせろ。お前ならそうしてくれるだろう」
「はい、仰せのままに」
もう、会うこともないだろう。
思いはこれからもなくなることはない。
心残りはあるが、そういう運命だったんだろう。
二度と私たちの道が交わることはない。
「リュカの好きにさせてやれ。あいつは・・・弟だし」
ベネディクトに見張られているので、仕方なくハーブティーを口に含み、パンを食べる。
このパンは、リュカのパンに似ているな。ずっと食べられたらいいのに・・・リュカのパンは優しい味がした。
ワゴンに載せられた軽食を食べ終わると、ベネディクトの目が笑っていた。
(子どもでもあるまいし)
そう思いながら、ソファーに背中を預け、目を閉じる。
グラリと意識がゆがみ、目の奥で何かがひらめいた。
それは、リュカの笑顔だったのかもしれない。
****************
遠くで誰かの笑い声が聞こえる。
子どもたちの笑い声か、それとも使用人たちか。
ずいぶん長いこと、仕事以外での人との関わりを持っていない。
いつからだ?
リュカが私を裏切っていたと知った時からだ。
人を信じる気持ちも、愛する心も、全てリュカが持って行ってしまった。
からっぽだ。
ただ、公爵という責務を果たすための器。それが私だった。
濁った沼に飲み込まれ、身動きが取れない。
でも、私に近しい人間は、命をとられてしまう。二度とミラと子の悲劇を繰り返してはならない。
あちこちから手が伸びてきて、私の頭を押さえつけ、沼に沈めようとする。
目、鼻、口から泥水が入り込み、胃も肺も真っ黒に染まる。
このまま、ゆっくりと命の火が消えるまで働き続け、子に公爵位をつなげば・・・その時は自由になれるのかもしれない。
自分の道を見つけたリュカは、まぶしかったな。
そう、まるで光のように。一筋の光りが差し込み、まぶたを照らした。
「やっと、目が覚めた?」
リュカがのぞきこんでいた。
「ああ、夢か」
幸せな夢だ。夢なら覚めないでほしい。もうすこし、もうすこしだけ・・・
「兄さん」そっと額に触れた手が、愛しげに頬に降り、包み込んだ。
「兄さん、愛してる。愛してるよ」
耳に心地よいまぼろし。たまには、こんな朝があってもいい・・・
「疲れてるんだね。ゆっくり休んで」
頬に唇が落とされ、抱きしめられるように意識が溶けていった。
リュカのかけらの残るこの屋敷は、いつしか安住の地では無くなっていた。
どうしても泊まらなければならない夜以外は、領地の城に戻る。
今日は、王太子殿下に呼ばれ、深夜まで外交政策について議論を交わし、明日早朝から閲兵に同行することになっている。これからしばらくは領地には戻らず、公爵邸で過ごすことにしていた。
私は深夜から早朝までの数時間しか屋敷に滞在しないため、リュカとは顔を合わせずに済む。
リュカは、最近では体調も良くなり、また平民に戻る準備を進めていると、報告を受けた。
「愛している」と言われ、あまりに残酷な嘘に、我慢がならなかった。
結局ひた隠しにしていた、私の情けない感情をさらけ出し、みっともない羽目になった。
いままでずっと常に冷静に、気高い公爵として振る舞っていたのに、きっと失望されただろう。
もう、リュカの目をまともに見られそうにない。
屋敷に戻ると、ベネディクトが迎えに出た。
「おかえりなさいませ、旦那様」
手袋を渡し、手短に伝える。
「書斎に行く。何もいらない」
「はい」
すこし書類を読むことができるだろう。
明日は早朝の予定のあと、宰相閣下の補佐に入り、午後には領地に向かわねばならない。
忙しい方がいい。余計なことを考えずに済む。
足早に書斎に入り、着替えを済ませると同時にワゴンが運び込まれてきた。
ワゴンの上にはパンやフルーツやチーズ、飲み物が所狭しと並べられていた。
「食事はいらない」
「食事ではございません。あくまでも軽いものでして」
ベネディクトは隙を見つけては私に何かを食べさせようとする。
たしかにフルコースではないが、量が多すぎた。
「少しでいい。下げて皆に振る舞いなさい」
「ありがとうございます」
ベネディクトが深々と頭を下げ、微笑みを浮かべた。目が笑っていない。
「ですが、準備した者のために召し上がってくださいますよね?」
争う気力もない私は、黙ってソファーに座った。
確かに、この夜中、誰かが湯を沸かし、パンを温めてくれたんだろう。
ハーブティーをそっと私の前に差し出しながら、ベネディクトが静かに口を開いた。
「リュカ様のことですが」
「ああ」
「すっかり体調も戻られたご様子です」
「そうか」
「これからの生活の支援は、いかがいたしましょう。スパイ騒ぎでこれまで蓄えたお金も服もなにもかも、ドランシに置いてきてしまったので、言葉は悪いですが文無しかと」
「・・・面倒をみてやれ。リュカがしたいようにさせてやれ」
「はい、うけたまわりました」
「金がほしいなら、渡せ。公爵家にあるものなら、何でも持っていかせろ。お前ならそうしてくれるだろう」
「はい、仰せのままに」
もう、会うこともないだろう。
思いはこれからもなくなることはない。
心残りはあるが、そういう運命だったんだろう。
二度と私たちの道が交わることはない。
「リュカの好きにさせてやれ。あいつは・・・弟だし」
ベネディクトに見張られているので、仕方なくハーブティーを口に含み、パンを食べる。
このパンは、リュカのパンに似ているな。ずっと食べられたらいいのに・・・リュカのパンは優しい味がした。
ワゴンに載せられた軽食を食べ終わると、ベネディクトの目が笑っていた。
(子どもでもあるまいし)
そう思いながら、ソファーに背中を預け、目を閉じる。
グラリと意識がゆがみ、目の奥で何かがひらめいた。
それは、リュカの笑顔だったのかもしれない。
****************
遠くで誰かの笑い声が聞こえる。
子どもたちの笑い声か、それとも使用人たちか。
ずいぶん長いこと、仕事以外での人との関わりを持っていない。
いつからだ?
リュカが私を裏切っていたと知った時からだ。
人を信じる気持ちも、愛する心も、全てリュカが持って行ってしまった。
からっぽだ。
ただ、公爵という責務を果たすための器。それが私だった。
濁った沼に飲み込まれ、身動きが取れない。
でも、私に近しい人間は、命をとられてしまう。二度とミラと子の悲劇を繰り返してはならない。
あちこちから手が伸びてきて、私の頭を押さえつけ、沼に沈めようとする。
目、鼻、口から泥水が入り込み、胃も肺も真っ黒に染まる。
このまま、ゆっくりと命の火が消えるまで働き続け、子に公爵位をつなげば・・・その時は自由になれるのかもしれない。
自分の道を見つけたリュカは、まぶしかったな。
そう、まるで光のように。一筋の光りが差し込み、まぶたを照らした。
「やっと、目が覚めた?」
リュカがのぞきこんでいた。
「ああ、夢か」
幸せな夢だ。夢なら覚めないでほしい。もうすこし、もうすこしだけ・・・
「兄さん」そっと額に触れた手が、愛しげに頬に降り、包み込んだ。
「兄さん、愛してる。愛してるよ」
耳に心地よいまぼろし。たまには、こんな朝があってもいい・・・
「疲れてるんだね。ゆっくり休んで」
頬に唇が落とされ、抱きしめられるように意識が溶けていった。
0
お気に入りに追加
224
あなたにおすすめの小説
くまさんのマッサージ♡
はやしかわともえ
BL
ほのぼの日常。ちょっとえっちめ。
2024.03.06
閲覧、お気に入りありがとうございます。
m(_ _)m
もう一本書く予定です。時間が掛かりそうなのでお気に入りして頂けると便利かと思います。よろしくお願い致します。
2024.03.10
完結しました!読んで頂きありがとうございます。m(_ _)m
今月25日(3/25)のピクトスクエア様のwebイベントにてこの作品のスピンオフを頒布致します。詳細はまたお知らせ致します。
2024.03.19
https://pictsquare.net/skaojqhx7lcbwqxp8i5ul7eqkorx4foy
イベントページになります。
25日0時より開始です!
※補足
サークルスペースが確定いたしました。
一次創作2: え5
にて出展させていただいてます!
2024.10.28
11/1から開催されるwebイベントにて、新作スピンオフを書いています。改めてお知らせいたします。
2024.11.01
https://pictsquare.net/4g1gw20b5ptpi85w5fmm3rsw729ifyn2
本日22時より、イベントが開催されます。
よろしければ遊びに来てください。
虐げられ聖女(男)なので辺境に逃げたら溺愛系イケメン辺境伯が待ち構えていました【本編完結】(異世界恋愛オメガバース)
美咲アリス
BL
虐待を受けていたオメガ聖女のアレクシアは必死で辺境の地に逃げた。そこで出会ったのは逞しくてイケメンのアルファ辺境伯。「身バレしたら大変だ」と思ったアレクシアは芝居小屋で見た『悪役令息キャラ』の真似をしてみるが、どうやらそれが辺境伯の心を掴んでしまったようで、ものすごい溺愛がスタートしてしまう。けれども実は、辺境伯にはある考えがあるらしくて⋯⋯? オメガ聖女とアルファ辺境伯のキュンキュン異世界恋愛です、よろしくお願いします^_^ 本編完結しました、特別編を連載中です!
僕の兄は◯◯です。
山猫
BL
容姿端麗、才色兼備で周囲に愛される兄と、両親に出来損ない扱いされ、疫病除けだと存在を消された弟。
兄の監視役兼影のお守りとして両親に無理やり決定づけられた有名男子校でも、異性同性関係なく堕としていく兄を遠目から見守って(鼻ほじりながら)いた弟に、急な転機が。
「僕の弟を知らないか?」
「はい?」
これは王道BL街道を爆走中の兄を躱しつつ、時には巻き込まれ、時にはシリアス(?)になる弟の観察ストーリーである。
文章力ゼロの思いつきで更新しまくっているので、誤字脱字多し。広い心で閲覧推奨。
ちゃんとした小説を望まれる方は辞めた方が良いかも。
ちょっとした笑い、息抜きにBLを好む方向けです!
ーーーーーーーー✂︎
この作品は以前、エブリスタで連載していたものです。エブリスタの投稿システムに慣れることが出来ず、此方に移行しました。
今後、こちらで更新再開致しますのでエブリスタで見たことあるよ!って方は、今後ともよろしくお願い致します。
エロゲ世界のモブに転生したオレの一生のお願い!
たまむし
BL
大学受験に失敗して引きこもりニートになっていた湯島秋央は、二階の自室から転落して死んだ……はずが、直前までプレイしていたR18ゲームの世界に転移してしまった!
せっかくの異世界なのに、アキオは主人公のイケメン騎士でもヒロインでもなく、ゲーム序盤で退場するモブになっていて、いきなり投獄されてしまう。
失意の中、アキオは自分の身体から大事なもの(ち●ちん)がなくなっていることに気付く。
「オレは大事なものを取り戻して、エロゲの世界で女の子とエッチなことをする!」
アキオは固い決意を胸に、獄中で知り合った男と協力して牢を抜け出し、冒険の旅に出る。
でも、なぜかお色気イベントは全部男相手に発生するし、モブのはずが世界の命運を変えるアイテムを手にしてしまう。
ちん●んと世界、男と女、どっちを選ぶ? どうする、アキオ!?
完結済み番外編、連載中続編があります。「ファタリタ物語」でタグ検索していただければ出てきますので、そちらもどうぞ!
※同一内容をムーンライトノベルズにも投稿しています※
pixivリクエストボックスでイメージイラストを依頼して描いていただきました。
https://www.pixiv.net/artworks/105819552
変なαとΩに両脇を包囲されたβが、色々奪われながら頑張る話
ベポ田
BL
ヒトの性別が、雄と雌、さらにα、β、Ωの三種類のバース性に分類される世界。総人口の僅か5%しか存在しないαとΩは、フェロモンの分泌器官・受容体の発達度合いで、さらにI型、II型、Ⅲ型に分類される。
βである主人公・九条博人の通う私立帝高校高校は、αやΩ、さらにI型、II型が多く所属する伝統ある名門校だった。
そんな魔境のなかで、変なI型αとII型Ωに理不尽に執着されては、色々な物を奪われ、手に入れながら頑張る不憫なβの話。
イベントにて頒布予定の合同誌サンプルです。
3部構成のうち、1部まで公開予定です。
イラストは、漫画・イラスト担当のいぽいぽさんが描いたものです。
最新はTwitterに掲載しています。
35歳からの楽しいホストクラブ
綺沙きさき(きさきさき)
BL
『35歳、職業ホスト。指名はまだ、ありません――』
35歳で会社を辞めさせられた青葉幸助は、学生時代の後輩の紹介でホストクラブで働くことになったが……――。
慣れないホスト業界や若者たちに戸惑いつつも、35歳のおじさんが新米ホストとして奮闘する物語。
・売れっ子ホスト(22)×リストラされた元リーマン(35)
・のんびり平凡総受け
・攻めは俺様ホストやエリート親友、変人コック、オタク王子、溺愛兄など
※本編では性描写はありません。
(総受けのため、番外編のパラレル設定で性描写ありの小話をのせる予定です)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる