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第四幕〜終わりの始まり〜
178 【マティアス】苦悩 → 【リュカ】夢のなか
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リュカを殺そうと決めたのは、あの夜だ。
イネスとリュカが愛し合っていたと知った夜。
思い出すのも恐ろしい悪夢。
だが、夢ではないと、手の中の手紙たちが告げていた。
あざむかれていた。虚仮にされていた。
腹をたてるべきだ。怒って当然だ。
どこかから声がする。
だが、本当は何よりも、胸が痛かった。裏切りは胸をえぐり、体中から血とともに自分の中にあった温かいものが流れ出していく。
泣きわめき、自分がどれほど傷ついたか、言えれば楽だったのかもしれない。
だが、私には生まれながらにして、そのような態度を取ることはゆるされていなかった。
裏切られ、悲しみを感じるなど論外だった。
どうしようもなく苦しい。胸に大きく開いた穴はズキズキと痛む。時は恐ろしいほどゆっくりと流れ、緩慢な死が目の前に横たわっている。
降り出した雪はいつしか雨に変わり、泥と薄汚れた水たまりに姿を変えていた。
私の目の前には、ただただ灰色の未来だけが茫洋と広がっている。
リュカとイネスに子ども?イネスがリュカによく似た子を抱きながら幸せそうに笑う姿を眺めなければならない?
それは、無理だ。
本当は、指一本、いや、髪の毛一本たりとも誰にも見せたくない。
閉じ込め、囲い、私だけのものにしたい。
だが、リュカにもリュカの人生があると、大切にしなければ、と思っていた。
灰色だった私の世界にリュカがあらわれ、世界は色を変えた。
リュカの笑顔、甘えた顔、すねた顔、泣き顔。
幼い頃、大人たちの目を盗んで抜け出した湖。雨。そしてキス。
私のたましいの奥底に刻まれたその思いをどうしたら消せるというのだろう。
破り捨てようと、焼き払おうと、事実は消せない。
まんじりともせずに朝を迎えた日、リュカが目を覚ましたらイネスとともに去ってしまう未来に気がついた。
想像するだけでも恐ろしい。
翌日、寮を引き払い、本屋敷にリュカを隠した。
完全に隠してしまうのなら、死んでもらえばいい。
ベネディクトは私を止めようとしたが、どうしようもなかった。ただ、迷い込んだ迷路の中、生きるための選択をしただけだ。戦地では兵士が虫けらのように命を落とし、貧しさゆえに売られる子どもさえいる。
なぜ耐えられないのか。その答えはどこにもなかった。
ただ、胸につまった重く冷たい石が体中を凍らせていく。
雨は長く降り続き、淀んだ空気が肺を侵していた。
リュカは、青白い顔で横になったままピクリとも動かず、ただ、規則的に上下する胸だけが彼の命が繋がっていることを教えてくれた。
(リュカ・・・)
そっと髪に手をはわす。
もう、このままでもいいのかもしれない。人形のようになったリュカと暮らすのも悪くない。
頬を指先で撫でると、なめらかな肌と温かい体温を感じた。
間違いなくリュカは生きている。ほっと胸をなでおろすと欲が生まれた。
やはり目を覚ましてほしい。もう一度あの若草色の美しい瞳が見たい。
全身でリュカのいのちの息吹を感じたい。
だが、おそろしい。
きっとリュカは行ってしまう。私を捨てることにためらいひとつ見せなかった。
しかもあの時、リュカは私を見た。きっと私を恐れるだろう。
地の底から湧き出るような深いためいき。
もう一度会いたい。声が聞きたい。話がしたい。だが、怖い。
解決方法はひとつしかなかった。
頭を怪我した患者にあえて頭を動かさないように処方される薬がある。
脳を使わせず、身体を休めて治癒能力を高めるための薬が私の救いになった。
そっとリュカの腕を取り針を差入れると、リュカのまぶたがぴくりと動いた。
もしや、少しずつ目覚め始めているのだろうか。薬に慣れ、効きにくくなっているのかもしれない。
もしそうであれば・・・
私の頭は目まぐるしく動きはじめた。
リュカの交友関係はすでに調べさせていた。
必要なときに必要な措置をとる手はずはできている。
そして、リュカの「たったひとり愛したひと」を見つけ出し・・・
もし誰かがその時の私の顔を見たならば、その顔を見て後ずさったに違いない。
悪魔のように昏い目をしていただろうから。
****************************************
【リュカ】
ぼんやりと、遠くから誰かの囁きが聞こえる。
なつかしくて、大好きな声。でも、悲しそう・・・まるで泣いているように俺の名を呼んでいる。
その声を聞くためなら何でもすると思っていた頃があった。
「にいちゃん」
呼びかけても言葉にならず、願いは宙に消えた。
シャボン玉のように淡く、脆い思いは、七色に光りをきらめかせながら、はじけた。
「にいちゃん、おれ、にいちゃんのことがいちばんすき」
懐かしい顔が遠くで笑っている。
そして泣いている。
冷たくされれば世界は終わり、優しくされれば天にも昇る。
そんな単純な恋心だった。
なのになぜ、いつから、ふたりの関係は単純じゃなくなったんだろう。
どこからかピアノの音が聞こえてくる。
柔らかい音色はときに激しく、心の底を揺さぶる。
ああ、なぜ、ずっとこどものままでいられないのだろう。
チクリと腕に痛みが走る。
これは、いつものサイン。
水面から顔を出すなと、水の中に押し込まれる。
助けて、助けて、にいちゃん・・・
そしてまた、深い闇に引きずりこまれた。
イネスとリュカが愛し合っていたと知った夜。
思い出すのも恐ろしい悪夢。
だが、夢ではないと、手の中の手紙たちが告げていた。
あざむかれていた。虚仮にされていた。
腹をたてるべきだ。怒って当然だ。
どこかから声がする。
だが、本当は何よりも、胸が痛かった。裏切りは胸をえぐり、体中から血とともに自分の中にあった温かいものが流れ出していく。
泣きわめき、自分がどれほど傷ついたか、言えれば楽だったのかもしれない。
だが、私には生まれながらにして、そのような態度を取ることはゆるされていなかった。
裏切られ、悲しみを感じるなど論外だった。
どうしようもなく苦しい。胸に大きく開いた穴はズキズキと痛む。時は恐ろしいほどゆっくりと流れ、緩慢な死が目の前に横たわっている。
降り出した雪はいつしか雨に変わり、泥と薄汚れた水たまりに姿を変えていた。
私の目の前には、ただただ灰色の未来だけが茫洋と広がっている。
リュカとイネスに子ども?イネスがリュカによく似た子を抱きながら幸せそうに笑う姿を眺めなければならない?
それは、無理だ。
本当は、指一本、いや、髪の毛一本たりとも誰にも見せたくない。
閉じ込め、囲い、私だけのものにしたい。
だが、リュカにもリュカの人生があると、大切にしなければ、と思っていた。
灰色だった私の世界にリュカがあらわれ、世界は色を変えた。
リュカの笑顔、甘えた顔、すねた顔、泣き顔。
幼い頃、大人たちの目を盗んで抜け出した湖。雨。そしてキス。
私のたましいの奥底に刻まれたその思いをどうしたら消せるというのだろう。
破り捨てようと、焼き払おうと、事実は消せない。
まんじりともせずに朝を迎えた日、リュカが目を覚ましたらイネスとともに去ってしまう未来に気がついた。
想像するだけでも恐ろしい。
翌日、寮を引き払い、本屋敷にリュカを隠した。
完全に隠してしまうのなら、死んでもらえばいい。
ベネディクトは私を止めようとしたが、どうしようもなかった。ただ、迷い込んだ迷路の中、生きるための選択をしただけだ。戦地では兵士が虫けらのように命を落とし、貧しさゆえに売られる子どもさえいる。
なぜ耐えられないのか。その答えはどこにもなかった。
ただ、胸につまった重く冷たい石が体中を凍らせていく。
雨は長く降り続き、淀んだ空気が肺を侵していた。
リュカは、青白い顔で横になったままピクリとも動かず、ただ、規則的に上下する胸だけが彼の命が繋がっていることを教えてくれた。
(リュカ・・・)
そっと髪に手をはわす。
もう、このままでもいいのかもしれない。人形のようになったリュカと暮らすのも悪くない。
頬を指先で撫でると、なめらかな肌と温かい体温を感じた。
間違いなくリュカは生きている。ほっと胸をなでおろすと欲が生まれた。
やはり目を覚ましてほしい。もう一度あの若草色の美しい瞳が見たい。
全身でリュカのいのちの息吹を感じたい。
だが、おそろしい。
きっとリュカは行ってしまう。私を捨てることにためらいひとつ見せなかった。
しかもあの時、リュカは私を見た。きっと私を恐れるだろう。
地の底から湧き出るような深いためいき。
もう一度会いたい。声が聞きたい。話がしたい。だが、怖い。
解決方法はひとつしかなかった。
頭を怪我した患者にあえて頭を動かさないように処方される薬がある。
脳を使わせず、身体を休めて治癒能力を高めるための薬が私の救いになった。
そっとリュカの腕を取り針を差入れると、リュカのまぶたがぴくりと動いた。
もしや、少しずつ目覚め始めているのだろうか。薬に慣れ、効きにくくなっているのかもしれない。
もしそうであれば・・・
私の頭は目まぐるしく動きはじめた。
リュカの交友関係はすでに調べさせていた。
必要なときに必要な措置をとる手はずはできている。
そして、リュカの「たったひとり愛したひと」を見つけ出し・・・
もし誰かがその時の私の顔を見たならば、その顔を見て後ずさったに違いない。
悪魔のように昏い目をしていただろうから。
****************************************
【リュカ】
ぼんやりと、遠くから誰かの囁きが聞こえる。
なつかしくて、大好きな声。でも、悲しそう・・・まるで泣いているように俺の名を呼んでいる。
その声を聞くためなら何でもすると思っていた頃があった。
「にいちゃん」
呼びかけても言葉にならず、願いは宙に消えた。
シャボン玉のように淡く、脆い思いは、七色に光りをきらめかせながら、はじけた。
「にいちゃん、おれ、にいちゃんのことがいちばんすき」
懐かしい顔が遠くで笑っている。
そして泣いている。
冷たくされれば世界は終わり、優しくされれば天にも昇る。
そんな単純な恋心だった。
なのになぜ、いつから、ふたりの関係は単純じゃなくなったんだろう。
どこからかピアノの音が聞こえてくる。
柔らかい音色はときに激しく、心の底を揺さぶる。
ああ、なぜ、ずっとこどものままでいられないのだろう。
チクリと腕に痛みが走る。
これは、いつものサイン。
水面から顔を出すなと、水の中に押し込まれる。
助けて、助けて、にいちゃん・・・
そしてまた、深い闇に引きずりこまれた。
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